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感じよくしている人から、先に削れていく

世の中はたいてい、「感じのいい人」が好きだ。

返事がやわらかくて、空気を読めて、場を濁らせない人。
面倒を面倒な顔で引き受けず、少し嫌なことがあっても、まあいいか、と飲み込める人。そういう人は、だいたいどこへ行っても評価がいい。

それはそうだと思う。
誰だって、機嫌の悪い人より、機嫌のいい人のほうが扱いやすい。

ここでたぶん、ひとつ雑なことが起きている。

感じがいい、というのは、本来その人の品の話だったはずなのに、いつのまにか“我慢できる人”という意味で使われるようになる。
空気を壊さない。
言い返さない。
相手の未熟さを先回りして処理してくれる。
つまり、他人の不出来を吸って、丸くおさめる能力のことを、私たちはかなり長いあいだ「大人っぽさ」と呼んできた。

ずいぶん都合のいい大人像だと思う。

本当に成熟しているなら、自分の雑さに気づく側が先のはずなのに、現実では逆になる。
人の境界線に鈍い人ほど、のびのびしている。
言葉の置き方が乱暴な人ほど、自然体と呼ばれる。
そのしわ寄せはたいてい、感じよく振る舞える人のほうへ行く。

あの人は優しいから。
頼めばやってくれるから。
ちゃんと話せば分かってくれるから。
傷ついても表に出さないから。

最後の一文だけ、ほとんど事故物件みたいな扱いなのに、なぜか職場でも友人関係でも、よく流通している。

傷ついても表に出さない人は、傷ついていない人ではない。
ただ、表に出すことで場がさらに面倒になると知っているだけだ。
泣かなかったから軽傷、みたいな判定は、だいぶ乱暴である。

それなのに社会は、表面の静かさを健康と見なす。
ちゃんと来ている。
ちゃんと返している。
ちゃんと笑っている。
なら大丈夫でしょう、と。

便利な判定だと思う。
壊れる寸前の人ほど、それをやるからだ。

感じよくしている人は、よく気がつく。
よく気がつく人は、余計なものまで拾う。
誰かの不機嫌、妙な沈黙、説明不足の依頼、ほんの少し失礼な言い方。そんな小さな破片を毎日少しずつ拾って、自分のポケットに入れて帰る。

家に着くころには、ポケットだけが重い。

でも外から見ると、その人はただ穏やかな人に見える。
社会は穏やかな人が好きなので、さらに色々預ける。
頼みごと、気遣い、調整、沈黙の処理。
感じよくしている人のまわりには、いつも“名前のつかない仕事”が増えていく。

たぶんみんな、悪気はない。
そこがまた厄介だ。
悪気なく人を消耗品みたいに使えるのが、集団生活の怖いところでもある。

しかも、削れていく人ほど、自分を責める。
これくらいで疲れるなんて。
私の器が小さいのかも。
うまくやるのが下手なんだろうな、と。

違うと思う。
たぶんその人は、うまくやりすぎたのだ。

本当は引き受けなくてもよかったものまで引き受け、
笑わなくてもよかったところで笑い、
説明しなくてもよかった相手にまで、丁寧に説明してきた。
その結果、社会から「この人はまだ大丈夫」と誤認され続けただけなのだと思う。

感じよさは、美徳ではある。
でも、それを常に差し出せることまで人格にされると、人は少しずつ空洞になる。

今日は感じよくできない。
今日は少し黙っていたい。
それでも関係が壊れないくらいの余白がないなら、その関係は最初から、ずいぶん片側だけにやさしかったのかもしれない。

無理に不機嫌になる必要はない。
ただ、いつも機嫌のいい人でい続けなくてもいいと思う。
ちゃんとしている自分だけを社会に納品しつづけると、いつか私生活のほうに、何も残らなくなる。

感じよくしている人から、先に削れていく。
この仕組みを美しいとは思わない。

やさしい人が報われる社会、という言い方を、ときどき見かける。
あれは半分だけ本当で、半分は願望だ。
実際によく起きているのは、やさしい人が使いやすい人として消費されることのほうだ。

だからせめて、自分の中だけでは間違えないようにしたい。
今日の疲れは、私の弱さではなく、たぶん回収されすぎたやさしさの残りかすだと。

そう思える夜があるだけで、少し救われる。
何も解決していなくても、削られた理由が分かるだけで、人はほんの少し自分の側に戻れる。

世の中はたぶん明日も、感じのいい人を好む。
けれどこちらまで、それに全面協力しなくていい。
笑わない日があっていい。
少しだけ不親切なくらいで、ようやく守れるものもある。

いつも感じよくしていなくても、人として欠陥ではない。
むしろ、削れながら愛想よくしているほうが、少し異常だったのだと思う。
そのことに気づく夜は、たいてい静かで、少し遅い。
でも、遅くても気づかないよりはいい。

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