違反よりも嫌悪したもの
山本太郎氏の速度違反は、明確に問題である。
法定速度八十キロの区間を百四十九キロで走行した。事故を起こしていないからよい、という話ではない。もし事故報道の中で「事故車両は法定速度八十キロの区間を百四十九キロで走行していた」と出れば、誰もそれを軽くは扱わない。そこには、たまたま事故にならなかっただけの危険がある。
だから、山本氏の行為そのものに対する怒りはある。法令違反であり、危険行為であり、責任を負うべきことだと思う。
しかし、私がより強い嫌悪感を覚えたのは、その後の説明の仕方だった。
問題になったレンタカーについて、秘書しか免許証を提示していなかったというなら、山本氏がその車を運転したことには、少なくとも契約上の確認が必要になる。契約違反かどうかは契約書や約款を確認しなければ断定できない。だからこそ、説明する側は慎重でなければならない。
にもかかわらず、それを「知らない人も多いのでは」というような認識で流すのは、あまりに雑である。
さらに問題なのは、元秘書の発言を「重大な守秘義務違反」とした点である。
その元秘書は、単に議員の私生活を外から覗き見て暴露した第三者ではない。自分名義で借りたレンタカー、自分だけが免許証を提示した契約、自分に来た連絡や出頭要請について語っている。つまり、自分自身が巻き込まれた当事者として話している。
それを「守秘義務違反」と言うなら、何に基づく守秘義務なのか。その情報は職務上知り得た秘密なのか。契約上保護されるべき秘密なのか。そこを示さなければならない。
そこを曖昧にしたまま、「守秘義務」という重い言葉だけを置くなら、それは法的整理ではない。不都合な証言に札を貼り、発言者の側へ問題を移す行為である。
私が嫌悪したのは、そこだった。
山本氏への怒りは、危険な違反をしたことへの怒りである。
高井氏への嫌悪は、巻き込まれた側の言葉を、守秘義務という言葉で封じようとする姿勢への嫌悪である。
問題は、速度違反だけではない。
その後の説明の場で、責任の所在、契約上の問題、秘書の当事者性、守秘義務の射程が雑に扱われたこと。そこに、私は強い不信を覚えた。
