価値・意味・貨幣──グレーバー『価値論』から「人格化された貨幣」へ【書評#29】

1. 出発点──価値とは「行為の重要性」である
デヴィッド・グレーバー『価値論』の中心的な問いは、「価値」とは何かである。通常、価値はしばしば価格、効用、希少性、交換可能性、あるいは市場での評価によって語られる。
しかしグレーバーの議論は、価値をそのような経済的指標に還元しない。むしろ価値とは、人間の行為が社会的に重要なものとして現れる仕方である。価値とは、物に内在する属性ではなく、行為の重要性が何らかの象徴体系、制度、関係性、承認の形式を通じて可視化される過程である。
この観点に立つと、価値は単に「いくらで売れるか」ではない。価値は、ある行為がなぜ重要であるのか、それが誰にとって意味を持つのか、その重要性がどのような社会的全体の中で承認されるのか、という問いに関わる。
グレーバーが「価値=行為の重要性」として価値論を組み立てるとき、そこではマルクス的な労働価値論と、モース的な贈与論が接続される。
マルクスからは、人間の労働や社会的関係が商品・貨幣・資本の形で物象化されるという問題が引き継がれる。モースからは、贈与が単なる物の移転ではなく、人格、関係、義務、名誉、返礼を含む社会的全体の行為であるという視点が引き継がれる。
ここで重要なのは、グレーバーが価値を「物の属性」ではなく、「意味を帯びた行為の社会的な重要性」として捉えようとしている点である。
ある行為が価値あるものとして現れるためには、その行為が何らかの意味を持っていなければならない。無意味な身体運動がそれ自体で価値を持つのではなく、ある象徴体系や関係性の中で、それが贈与、労働、ケア、奉仕、創造、抵抗、参加、承認といった意味を帯びるからこそ、価値の問題が立ち上がる。
したがって、グレーバーの価値論を理解するには、価値と意味の関係を避けて通ることはできない。
価値が「行為の重要性」であるならば、その行為はいかなる意味において重要なのか。意味は価値の条件なのか。あるいは、意味と価値は同じものなのか。
2. 意味と価値──同一ではないが、切り離せない
グレーバーは意味と価値を明確に区別している。意味とは、ある行為や物が、ある象徴体系の中で何として理解されるかである。価値とは、その意味づけられた行為や物が、どの程度重要で、望ましく、追求に値し、社会的に承認されるかである。
したがって、意味は行為を理解可能にする。価値は、その行為を重要なものとして位置づけるものとして捉えられる。
たとえば、ある人が他者に食事を作るという行為を考えてみよう。この行為は、単なる栄養供給ではない。家族へのケア、友情の表明、歓待、謝罪、感謝、共同性の維持など、さまざまな意味を持ちうる。
しかし、それがどの程度重要な行為として扱われるか、誰に承認されるか、どのような制度や関係の中で評価されるかは、意味とは別の問題である。ここで価値が問われるのである。
このとき、意味と価値は行為を媒介にして接続している。意味は、行為が何であるかを明らかにする。価値は、その行為がなぜ重要であるかを社会的に位置づけるのだ。
ただし、価値は意味を欠いて成立するわけではない。意味ある行為がないところに、グレーバー的な意味での価値は成立しない。したがって、「価値がある」とされるものが一見すると意味を欠いているように見える場合、そこで起きているのは、意味なき価値の成立ではない。そうではなく、価値を生み出している意味ある行為との連関が見えなくなっているのである。
たとえば、株価、ブランド、肩書き、資格、ランキング、KPI、年収、資産額などは、それ自体が価値を持つかのように見える。
しかし、それらは本来、人間の労働、信頼、欲望、承認、制度的反復、社会的想像力によって成り立っている。問題は、それらの指標や記号が、あたかもそれ自体で価値を持つかのように現れることである。
ここから、フェティシズムの問題が生じてくる。
3. フェティシズム──価値の由来が隠蔽されるとき
フェティシズムとは、価値を生み出している人間の行為や関係が見えなくなり、その価値が物、貨幣、制度、数値、肩書き、ブランドそのものに宿っているかのように現れる事態である。
意味ある行為が価値を生むが、しばしば、その価値が社会的に表示される過程で、行為の由来が隠蔽されることがある。本来、商品そのものは価値を持たない。人間の労働、欲望、関係、信頼、想像力が、商品を通じて価値あるものとして現れるのである。
しかし市場社会では、こうした価値に至る行為の由来が隠蔽されることにより、価値が商品そのものに宿っているかのように見える。ここにフェティシズムがある。
この構造は、商品や貨幣だけでなく、習慣や悪癖にも拡張して考えることができるかもしれない。
悪癖とは、単に意味のない行為ではない。むしろ、かつては不安の緩和、退屈の回避、承認の確認、疲労からの逃避、関係の代替といった何らかの意味を持っていた行為が、反復の中で自律化し、その意味の由来を忘却したまま行為者を動かすようになった状態である。
惰性的なスマホ確認、先延ばし、過剰な買い物、形式的な作業などは、その行為がもともと何を担っていたのかを見えなくしたまま、生活の中で実効的な重要性を占有してしまう。
この意味で、悪癖はミクロなフェティシズムとして理解できる。自分が作り出した反復が、自分を動かす外的な力のように現れるからである。
このように見ると、グレーバーの価値論は、価値の生成と、その生成過程の隠蔽を同時に問う理論である。
価値は意味ある行為に由来する。しかし、価値が社会的に流通し、表示され、制度化されるとき、その由来はしばしば隠される。
だからこそ現代社会における「価値」という言葉遣いについて捉え直す意義は大きい。
4. 商品・サービスの価値──ビジネスにおける「価値」を捉え直す
現代のビジネスシーンでは、「価値」という言葉は、主として商品やサービスの文脈で語られる。顧客価値、提供価値、価値提案、付加価値、体験価値、ブランド価値、企業価値といった表現がその典型だ。
そこでは、価値とは「顧客がお金を払う理由」であり、「市場で選ばれる理由」であり、「競合との差異を生むもの」として理解されることが多い。
しかし、グレーバー的に見れば、商品やサービスの価値は、それ自体に内在する属性ではない。
商品の価値は商品そのものに宿るのではなく、それがどのような行為を可能にし、どのような意味を媒介し、どのような承認や関係を生み出すかにある。
サービスの価値も、時間単価や成果物の量だけで測れるものではない。それは、顧客や利用者が何らかの意味ある行為を実行できるようにするところにある。
椅子は単に座るための物ではない。落ち着く、暮らしを整える、空間を作る、他者を迎える、自分の生活を形づくる行為を支える。コーヒーは単なる飲料ではない。朝を始める、会話する、一人になる、仕事へ入る、都市生活に参加する、といった行為を媒介する。
教育、医療、介護、コンサルティング、ファシリテーション、編集、翻訳、接客などのサービスも同様である。それらの価値は、相手が自分だけでは実現しにくかった意味ある行為を可能にするところにあるのであって、それそのものが価値を持つのではない。
このように商品・サービスの価値を「行為を可能にするもの」として捉えるとき、想起されるのはクリステンセンの「ジョブ理論」である。ビジネス理論の中で重要な影響力を持つこの考えは、グレーバーの価値論と接続しうるのか。
5. ジョブ理論との接続──市場内の価値論としての可能性と限界
クリステンセンのジョブ理論は、顧客は商品を買っているのではなく、ある状況で成し遂げたいこと、すなわちジョブを片づけるために商品やサービスを「雇っている」と考える。
これは、商品価値を物の属性から行為の文脈へ戻す点で、グレーバー的価値論に近い。
たとえば、顧客は単にドリルを買っているのではない。穴を開けたいのである。さらに言えば、その穴によって棚を付けたい、部屋を整えたい、家族との生活をよくしたい、自分の空間を作りたいのである。商品やサービスの価値は、それが顧客のどのような行為を可能にするかによって理解される。
この点で、ジョブ理論は商品フェティシズムを部分的に解除する。商品が価値を持つのではない。顧客が重要だとみなす行為を、その商品が可能にするから価値を持つのである。
しかし、両者には本質的な相違もある。
ジョブ理論は、市場の内部で顧客価値を理解する理論である。顧客が何を成し遂げたいのかを把握し、よりよい商品やサービスを設計するための理論である。
これに対してグレーバーの価値論は、そのジョブそのものがなぜ重要なものとして現れているのかを問う。その欲望や行為の重要性を成立させている価値体系、権力、承認、制度、フェティシズムを問うのである。
ジョブ理論は市場価値を人間の行為に近づける。しかしグレーバーは、市場価値がどのように人間の行為を覆い隠し、あるいは歪めるのかを問う。
この差異は非常に大きい。というのも、現代社会に生きる我々は、こうした市場的価値から完全に離れて価値を考えることがもはや困難になっている。
であるならば、次に問うべきは、この「市場的価値」が持つ強制力そのものである。
6. 市場的価値の支配力──なぜ市場価値から逃れにくいのか
現代において、価値を市場価値から完全に切り離して論じることは難しい。価格、賃金、利益、生産性、株価、成長率、効率性、顧客満足度、投資収益率といった指標は、単に経済領域だけでなく、教育、医療、福祉、行政、文化、研究、個人の自己評価にまで浸透している。
この支配力の由来は、市場が単なる交換の場ではなく、価値を社会的に表示する強力な媒体になっていることにある。
ある仕事の賃金、ある商品の価格、ある企業の時価総額、あるサービスの利用者数、ある職業の収入は、それがどの程度「価値あるもの」とされているかを示す指標として受け取られやすい。
もちろん、それらは価値そのものではない。しかし現代社会では、市場的表示が価値の代理物として非常に強い力を持っている。
その結果、市場が高く評価するものは重要に見え、市場が低く評価するものは重要でないように見える。ここに、グレーバー的な意味でのフェティシズムがある。価値を生み出している行為の重要性ではなく、市場で表示された価格や報酬が価値そのもののように見えてしまうのである。
この問題を象徴するのが、エッセンシャルワーカーである。医療、介護、保育、物流、清掃、公共交通、食料供給などに携わる人々の行為は、社会的意味において極めて重要である。彼らの仕事が止まれば、社会の生活可能性そのものが損なわれる。しかし、現代の市場的価値の体系では、しばしば低く見積もられる。
ここで明らかになるのは、価値が存在しないということではない。むしろ価値はすでにある。問題は、その価値が市場的に十分に翻訳されていないことである。エッセンシャルワーカーの問題は、価値の不在ではなく、価値の翻訳失敗である。
7. 市場的価値の更新は可能か──翻訳装置としての制度・測定・物語
本来的に社会的に重要な価値を、市場的価値は翻訳しきれていない。だとすれば、必要なのは市場的価値の更新である。しかし、そのような更新は可能なのか。市場を完全に廃棄するのではなく、市場が何を価値として認識できるかを変えることはできるのか。
この問いに対して、過去の事例は一定の示唆を与える。市場的価値に翻訳されていなかったものが、制度や測定技術や社会運動を通じて翻訳されるようになった例は存在する。
炭素排出:かつて市場外の外部不経済として扱われていたが、炭素税、排出量取引、カーボンクレジットなどによって価格を持つようになった。
生態系サービス:森林、水源涵養、受粉、洪水緩和、生物多様性といった自然の機能が、支払い対象として制度化されるようになった。
無償ケアや家事労働:時間使用調査やサテライト勘定を通じて、GDP の外にある経済的貢献として可視化され始めた。
人的資本:従業員の能力、健康、教育、組織文化、エンゲージメントが企業価値の源泉として開示されるようになった。
知的財産:創造的行為が権利と収益の形で市場価値へ翻訳された。
これらに共通するのは、価値が自然に市場へ現れたわけではないという点である。そこには、測定可能性、因果関係の説明、支払主体の設定、権利と義務の制度化、そしてナラティブの転換があった。
炭素排出であれば「汚染者負担」、ケア労働であれば「経済を支える再生産労働」、人的資本であれば「人こそ企業価値の源泉」、生態系サービスであれば「自然は無償のインフラ」といった語りが必要であった。
市場的価値への翻訳には、数値だけでなく物語が必要なのである。
したがって、エッセンシャルワーカーの価値を市場的に更新することも、原理的には不可能ではない。必要なのは、彼らの行為が生み出している社会的価値を、賃金、制度、公共調達、社会保険、補助金、開示、認証、労使交渉、地域的支援といった具体的な配分形式に翻訳することである。
ただし、この翻訳には常に危険がある。そしてこの危険は、先に見たフェティシズムの問題に再接続する。
8. 翻訳の危険──市場化は価値を可視化し、同時に切り縮める
市場的価値への翻訳は、見えなかった価値を見えるようにする。しかし同時に、その価値を貨幣や指標が読める形式へ切り縮める。
ケアを時間単価にすれば、ケアの一部は可視化される。しかし、待つこと、沈黙を共有すること、尊厳を守ること、不安を受け止めることは、単純な単価には還元されにくい。
自然を生態系サービスとして評価すれば、保全に資金は流れる。しかし、自然は人間に役立つ機能としてだけ理解される危険がある。
人的資本を数値化すれば、人材投資は企業価値として認識される。しかし、人間が企業価値を生む資本としてのみ扱われる危険もある。
ここで再びフェティシズムが生じる。
価値を可視化するために作られた指標や貨幣的評価が、価値そのもののように見え始めるのである。
ケアの価値を示すためのスコアが、ケアそのものに取って代わる。人的資本を示すための開示指標が、人間の能力や関係性そのもののように扱われる。社会的インパクトを示す数値が、社会的意味そのものとして受け取られる。
したがって、必要なのは単なる価格化ではない。市場的価値への翻訳は必要である。しかし、その翻訳が価値の由来を隠蔽し、指標や価格を価値そのものにしてしまうなら、問題は再生産される。ここで、貨幣そのものの捉え直しが必要になる。
9. 新たな貨幣観──交換手段から社会的承認の媒体へ
現代の貨幣は、しばしば個人の欲求を充足するための交換手段として理解されている。われわれは貨幣を持ち、それを使って欲しいものを買う。この図式において、貨幣は私的欲望の中立的な媒体である。
しかしグレーバー的に見れば、貨幣はそれほど中立ではない。貨幣は、人格的、歴史的、関係的な義務を、数量化可能で移転可能な債務へ変換する装置である。
贈与には、贈与者の人格、記憶、関係、文脈が残る。しかし貨幣による支払いは、それらを消去する方向に働く。「誰が、なぜ、どのような関係の中で与えたのか」ではなく、「いくら支払われたのか」が前面に出る。
この意味で、貨幣は価値を可視化する一方で、価値の由来を消去する。貨幣は行為の重要性を表示する媒体でありながら、その行為の人格的・歴史的・関係的厚みを削ぎ落とす。
だからこそ、エッセンシャルワーカーの価値を市場的価値へ翻訳しようとするとき、単に彼らの仕事に価格をつければよい、という話にはならない。貨幣を、欲望充足の交換手段としてだけでなく、社会が何を重要な行為として承認し、継続的に支えるかを示す媒体として捉え直す必要がある。
ここで見えてくるのは、貨幣を否定するのではなく、貨幣の意味をずらすという方向である。貨幣を、関係を清算する装置としてだけではなく、関係を維持し、行為の重要性を承認し、社会的に支える媒体として使うことはできないか。この問いが、新たな貨幣観への入口となる。
10. 人格化された貨幣──募金とクラウドファンディングの可能性
この新たな貨幣観の一つのあり方として、募金やクラウドファンディングは参考になるだろう。これらは、貨幣の贈与的・人格的な性格が完全には死滅していないことを示している。
募金やクラウドファンディングにおいて、人は必ずしも自分の私的効用のためだけにお金を払うわけではない。
支えたいから払う。残したいから払う。感謝したいから払う。関係を維持したいから払う。参加したいから払う。社会に必要だと思うから払う。自分の価値判断を表明したいから払う。
そこでは、お金を払うという行為そのものに意味が付随している。貨幣は、単なる交換手段ではなく、支持、参加、共感、祈り、連帯、信任、記憶、応答責任を表す媒体になる。
クラウドファンディングでは、支援者は完成品を購入しているだけではない。まだ存在しない価値に賭け、その実現に参加している。募金では、支払いは取引の清算ではない。むしろ、自分には完全には応答しきれない苦しみや出来事に対する、限定的だが人格的な応答である。
このような貨幣は、脱人格化された貨幣ではなく、人格化された貨幣である。そこでは、「誰が、なぜ、何に対して払ったのか」が重要である。支援者の名前、コメント、思い、関係、プロジェクトへの信任が残る。貨幣は関係を終わらせるのではなく、関係を始める。清算するのではなく、参加を表明する。
もちろん、募金やクラウドファンディングにも限界はある。
支援は、感情的に可視化されやすい対象に偏る。物語化しやすい困難にはお金が集まり、地味で構造的な困難は不可視のまま残る。広報能力の高い主体が有利になる。支援額、達成率、ランキング、拡散数が価値そのもののように見える危険もある。
つまり、募金やクラウドファンディングもまたフェティシズム化しうる。
それでも、それらは重要な兆候である。なぜなら、市場的価値に支配された現代においても、貨幣が必ずしも人格を消去するだけではないことを示しているからである。貨幣は、人格、物語、関係、未来への信任を運ぶこともできる。市場的価値の更新を考えるうえで、この点は決定的である。
11. 三つの貨幣──交換・承認・維持
ここから、三つの貨幣観を区別できる。
第一に、交換の貨幣である。これは商品やサービスを得るために払う貨幣であり、現代市場の中心である。
第二に、承認の貨幣である。これは、ある行為や活動を価値あるものとして認めるために払う貨幣であり、募金、寄付、クラウドファンディング、投げ銭、パトロン制度などに見られる。
第三に、維持の貨幣である。これは、社会的に必要な基盤を継続させるために払う貨幣であり、税、社会保険、公共料金、協同組合費、会費、地域通貨などに近い。
エッセンシャルワーカーの問題にとって重要なのは、第二の「承認の貨幣」を、第三の「維持の貨幣」へどう接続するかである。
一時的な支援や感謝ではなく、不可欠な行為を継続的に支える制度へと変えること。人格化された貨幣の契機を、単発の善意に留めず、社会的配分の構造へ組み込むこと。
ここに、新たな貨幣観の可能性がある。
12. 結論──貨幣は行為の意味を消すのか、支えるのか
グレーバーの価値論から出発したこの議論は、最終的に貨幣の問いへと至る。
価値とは、価格ではなく、行為の重要性である。意味は行為を理解可能にし、価値はその行為を重要なものとして位置づける。
しかし、その価値が商品、貨幣、制度、数値として表示されるとき、価値を生み出している意味ある行為の由来はしばしば隠蔽される。ここにフェティシズムの問題がある。
現代社会では、このフェティシズムは市場的価値の支配力として現れる。市場で高く評価されるものが重要に見え、市場で低く評価されるものが重要でないように見える。しかし、エッセンシャルワーカーの例が示すように、市場的価値は社会的に重要な行為を十分に翻訳できていない。
したがって、必要なのは市場的価値の更新である。だが、その更新は単なる価格化では足りない。価格化は価値を可視化するが、同時に価値を切り縮め、指標や貨幣を価値そのものにしてしまう危険を持つ。だからこそ、貨幣そのものを捉え直す必要がある。
貨幣は、行為の意味を消去する装置であり続けるのか。
それとも、行為の重要性を、人格と関係の痕跡を保ったまま社会的に支える媒体へと作り替えられるのか。
募金やクラウドファンディングは、この問いに対する未成熟で不完全な実例である。それらは市場の外部ではない。しかし、市場的価値がすべてを支配する社会の中で、貨幣がなお人格的でありうること、貨幣がなお贈与や参加や承認の痕跡を運びうることを示している。
そこに、資本主義社会における価値更新の脆弱だが確かな可能性があると僕は考えている。
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