【書評17】アンディ・クラーク『経験する機械』|世界と踊りながら生きる僕たち
かつてハイデガーは現存在を「世界内存在」と捉え、主体と客体を前提にした素朴な図式そのものを問い直した。「世界」と「人間」を切り離して考えるこうした素朴な世界観は、もはや根本からアップデートされる時期に来ているのではないかと最近考えている。本書を読んで、その直感は確信に変わった。
本書の著者アンディ・クラークは、デビッド・チャーマーズと共に「拡張された心」説を提唱したことで知られる哲学者・認知科学者である。彼が本書で提示するのは、「予測処理理論」という認知科学の最前線の知見を踏まえた、世界と僕たちの関係性についての新しい捉え方だ。
「予測処理理論」とは、端的に言えば「脳が先に世界の見立て(予測)を立て、感覚から来る“ズレ”でそれを更新し続けることで、僕たちの経験としての現実が立ち上がる」という見方である。この理論の適用範囲は視覚や聴覚といった日常的な認知にとどまらない。機能性障害やうつ病、プラシーボ効果、さらには身体の生理機能のコントロールにまで、その射程は深く及んでいる。
僕たちはつい「世界」というものを固定化された客観的な事実として受動的に受け取ってしまいがちだ。しかし、実際には、予測する脳のメカニズムに基づく僕たちと現実の、絶え間ない相互作用の繰り返しの中に、初めて世界は立ち現れてくるのである。
以下で詳しく見ていこう。
書誌情報
・タイトル:経験する機械(原題:The Experience Machine)
・著者:アンディ・クラーク
・訳者:高橋洋
・発行年:2024年
・出版社:筑摩書房
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僕たちは「コントロールされた幻覚」を見ている
あなたが今、スマホやPCの画面で見ているこの文章、手にある温かいコーヒー、窓の外の景色。僕たちは普段、それらを「目でありのままに受け取っている」と素朴に信じて生活している。しかし、クラークが本書で提示する知見は、そんな日常的な感覚に疑いを投げかける。
彼によれば、僕たちが「現実」として体験しているリッチな質感を持った世界は、外界からの情報をそのままカメラのように映し出したものではない。それは、脳が過去の経験に基づいて構築した「予測」の産物なのである。
「では、私がこの目で見ているものはなんなのか」と、思わず反論したくなるかもしれない。予測処理理論に基づくと、そうした目や耳から入ってくる感覚情報は、自らが立てた「予測」が正しいかどうかの答え合わせ(エラーチェック)に主として使われるという。
つまり、僕たちは外界からの光をキャッチして白紙のキャンバスにその都度映像を組み立てているのではなく、あらかじめ脳の中で予測を作り上げておき、それを目から得た情報に基づいて微調整することで初めて、世界を「見て」いるのだ。
クラークはこの状態を「コントロールされた幻覚(Controlled Hallucination)」と表現する。幻覚といっても、もちろん病的な意味合いではなく、僕たちの捉える「現実」というものが、幻覚と同じく“構成物”だが、外界の信号に強く拘束された構成物であるということだ。外界の信号によってその幻覚は適切に軌道修正されているが、その基盤にあるのは脳が能動的に作り出した構築物である、ということだ。
この「予測する脳」というメカニズムを理解することは、僕たちと世界の関係性を捉える上で、新たな視点をもたらしてくれる。世界は客観的な事実としてただ「向こう側」に鎮座し、僕たちがそれを受動的に受け取っているわけではない。僕たちは、予測というプロセスを通じて、今この瞬間の「現実」を世界と共に立ち上げている当事者なのである。
「予測する機械」としての脳と、身体への広がり
先にも述べた通り、本書の著者は、かつてデビッド・チャーマーズと共に「拡張された心(The Extended Mind)」という論文を発表したことでも知られている。「拡張された心」とは、「心は頭蓋骨の中に収まっている」という常識に対して、「スマホやノートも思考プロセスに不可欠な役割を果たしているなら(Parity principleを満たすなら)、それは心の一部とみなすべきだ」という主張である。
「拡張された心」の論文は、発表された当時賛否両論を呼んだが、現代では心の哲学の領域において広く参照され続けている。それは、心を身体の内側にとどまるものではなく、その外部へと文字通り「拡張する」ことを主張したものだ。本書で展開される「予測処理理論」は、ある意味でその考え方をさらに推し進めたものとも言える。
従来の常識的な見方では、脳はカメラやマイクのような受動的な装置だと考えられてきた。外界からの入力(インプット)を受け取り、それを処理し、行動(アウトプット)に移す。工場のベルトコンベアのような直線的なモデルだ。
しかし、クラークはこのモデルを大きく変転する。脳は、感覚入力が届くのを待ってはいない。予測信号を絶えず生成し、その帰結として身体の制御や環境への働きかけが組み合わさるのだという。
例えば、あなたがコーヒーカップを掴もうとするとき。脳は「手がカップに触れる感覚」や「カップの重み」を事前にシミュレーションしている。そして実際に手が動き、予測通りの感覚が得られれば(予測誤差が最小)、脳はプロセスが順調であると判断する。
逆に、カップが予想外に軽くて中身をこぼしてしまったとき、そこで初めて「予測誤差(エラー)」が発生し、脳は大慌てでモデルを修正する。「なんだ、空っぽだったのか!」と。
つまり、脳は常に仮説を立て、検証し続ける科学者のような働きをしている。現状維持のために予測を立て、誤差が出るたびに修正を行なっているのだ。
クラークの主張のポイントは、この「予測」の範囲が、視覚や聴覚だけでなく、痛みや感情、さらには身体の生理的機能にまで及んでいることだ。
医学的には怪我がないのに痛み続ける「機能性障害」や、理由もなく生じる不安。これらは、予測処理理論に基づくと、脳の予測機能が強力すぎて、現実の感覚入力を上書きしてしまった結果として説明することができるという。
「ここは痛いはずだ」という脳の確信が、実際の痛みとしてのリアリティを持ってしまう。原因がないから仮病なのではない。脳の予測という厳然たる機能が、そのような現実を構築しているのである。
さらに興味深いのは「アロスタシス(Allostasis)」という考え方だ。クラークはリサ・フェルドマン・バレットの議論を引きながら、これは従来のホメオスタシス(恒常性維持)を、予測的なシステムへと拡張したものとして捉え直す。
ホメオスタシスが「脱水状態になったから水を飲む」という常に特定の固定点に回帰しようとする傾向だとすれば、アロスタシスは「これから活動するから、事前に水を飲んでおく」というように、変化するニーズや環境に適応するために固定点それ自体を変更すること、つまり将来のニーズを予測して身体リソース(身体予算)を配分することとされる。
うつ病もまた、アロスタシスと身体予算に基づいて捉え直される。すなわち、うつ状態にあるとき、その人は身体予測の予測システムが過剰に防衛的になり、「エネルギー切れが予想されるから動くな」という指令が固定化された状態という形で説明しうる。
要するに、僕たちは「あるがままの世界」を受動的に見ているのではない。生存のために脳が予測し、編集した「役に立つ世界」を、能動的に生きているのだ。
心は「境界」ではなく「回路」でできている
本書を読んで興味深かったのは、「世界と僕たちは個別に分たれた存在ではない」という哲学的知見が、認知科学によって支持されつつあるという点だ。
通常、僕たちは「自分(主体)」と「世界(客観)」を分けて考える。世界というステージの上に、自分という役者が立っているイメージだ。
しかし、予測処理理論はこの境界線を溶かしてしまう。クラークが提示する新しい心象風景、それは「心は頭蓋骨の中に閉じこもった要塞ではなく、世界へと開かれた回路である」というものだ。
このことを理解するために、本書でも紹介されている「暗室の謎」という有名な問いについて考えてみたい。
もし脳の究極の目的が、予測エラー(驚き)を最小化することだけだとしたら、僕たちはどう振る舞うべきだろうか?
答えは簡単だ。変化のない真っ暗な部屋に閉じこもり、じっとしていればいい。そうすれば予測は常に当たり、エラーはゼロになる。
しかし、現実の僕たちはそうしない。なぜか?
それは、脳が短期的なエラー回避だけでなく、長期的な生存を見据えているからだ。未来の不確実性に備えるためには、あえて外の世界へ飛び出し、新しい情報を探索して予測モデルをアップデートし続けなければならない。
僕たちは、より良く予測するために、世界という「未知」を必要としているのである。
ここで登場するのが、先にも言及した「拡張された心」である。 予測エラーを減らし、世界を効率よく探索するために、脳は外部の資源を利用する。
本書によると、かつて物理学者のリチャード・ファインマンは、「紙に書かれた数式ではなく、紙に数式を書きなぐるプロセスそのものが仕事である」と語ったという。彼にとって紙とペンは単なる記録媒体ではなく、彼の思考プロセス(予測と検証のループ)に組み込まれた「外部ハードウェア」だったのだ。
認知症の患者が記憶を補うために部屋中にメモを貼るのも、リハビリとしてだけではなく、部屋そのものが「患者の心の一部」として機能し、予測の精度を支えている状態だと説明されうる。
つまり、僕たちの心は皮膚の内側で完結していない。 予測エラーを処理するために、僕たちは道具を使い、環境を整え、そして他者と関わる。
人間とは「脳」という単独の臓器で完結する存在ではない。
脳、身体、道具、環境、そして他者。これらが予測のエラーと修正という複雑なフィードバックループの中で絡み合い、ダンスを踊っている状態。その「ダンスの全体」こそが、人間という現象なのだとクラークは主張する。
「私」という存在は、孤立した個体ではない。僕の予測があなたに影響を与え、あなたの反応が僕の予測を書き換える。僕たちは世界という巨大なシステムの一部として、相互に予測し合い、相互作用しながら、初めて「私」を成立させているのである。
(※このあたりは、フッサールの現象学、とりわけ間主観性の議論を思い出させる。もちろんクラークは現象学の論法をそのままなぞっているわけではない。彼はあくまで、予測と予測誤差のループが脳・身体・環境にまたがって作動する、という機能的な立場に立っている。
言うなればフッサールが「共同世界はいかに成立するか」を意味の側から問うたとすれば、クラークはそれを「相互予測」というダイナミクスの側から描き直したのである。間主観性という古典的な問いに、認知科学が別の角度から光を当てたものとも言えるだろう。
フッサールの間主観性については、以前に投稿した書評でも少し触れている。興味があればご覧いただきたい。)
予測と経験のループへ介入する
さて、この壮大な理論は、僕たちの日常における「苦しみ」や「生きづらさ」に対して、どのような視座を与えてくれるだろうか。最後にこの点を見てみよう。
本書が提示するのは、即効性のある魔法ではないが、僕たちが世界とどう関わっているかという設計図を理解するための重要な手がかりである。
一つの大きな示唆は、「経験は、予測によって事後的に構成されている」という点だ。
例えば、緊張や不安を感じたとき。心臓がバクバクし、掌に汗をかく。脳は過去のデータから、この身体反応を「恐怖」や「脅威」の兆候だと予測しがちだ(これをアフェクティブ・リアリズムと呼ぶ)。
しかし、トップアスリートや熟練の交渉人は、同じ身体反応を「準備万端のサイン」や「興奮」として解釈する予測モデルを持っている場合がある。
重要なのは、身体反応(生データ)そのものは同じでも、脳が採用する「予測」が異なれば、立ち現れる主観的な現実はまったく別のものになる、ということだ。
同様にして、「プラシーボ効果」や言葉による暗示も、単なる気の持ちようではなく、脳の予測パラメーターへの機能的な介入として説明される。
「痛みは消える」「自分はできる」という言葉や儀式は、脳に対して強力な事前分布(priors)をセットする行為だ。脳がその予測を強く信じれば、実際に身体からの感覚信号の重みづけを変え(痛みを無視する、あるいは成功の証拠を優先的に拾う)、結果としてパフォーマンスや症状が変化する。
自己肯定や儀式は、スピリチュアルなものではなく、予測モデルのチューニング作業として捉え直せるのだ。
逆に、うつ状態や慢性的な不安は、ネガティブな予測モデルが過剰に強固になり、ポジティブな感覚入力(予測エラー)を受け付けなくなった状態(認知的免疫)として理解できる。
ここから抜け出すために、本書では瞑想の効果についても触れている。瞑想とは、精神統一というよりも、「予測の時間的地平を一時的に縮小すること」だという。
呼吸などの「いま・ここ」の感覚データに注意の重みを全振りすることで、暴走する「未来への悲観的な予測」を強制的に停止させる。そうすることで、凝り固まった予測モデルに隙間を作るのだ。
「病は気から」という言葉があるが、そうした「気の持ちよう」がどうして実際的な効果を持つのかという素朴な疑問に対し、予測処理理論は一定の回答を与えうるものと言えるだろう。
おわりに:世界とダンスする僕たち
僕たちは、自分の脳という自動機械の、単なる受動的な乗客ではない。 環境を変え、習慣を見直し、使う言葉を選ぶこと。それらはすべて、脳に入力されるデータや採用される予測モデルへの介入である。
世界そのものを即座に変えることは難しくとも、世界を構成する「予測」のプロセスには、僕たちが関与できる余地が常に残されている。
世界は、不動の他者としてそこにあるのではない。僕たちと踊りながら、現実を立ち上げていく、終わりなきダンスのパートナーなのである。
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