こっちの日本昔ばなし #25 舞姫
太田豊太郎は、ベルリンで「人間をやめる訓練」をしていた。
官僚として生きるには、心を持つことが最大の欠点になるからだ。
そんな彼の前に、碧い海の色をした瞳の踊り子・エリスが現れた。
彼女は言った。
「どんなに悲しいことも、わたしに伝えて」
その瞬間、豊太郎は悟った。
――この女は危険だ。
人の弱さを救うのではなく、弱さを増幅させる種類の優しさだ。
エリスは、泣きたい夜に宝石箱を開くように、
豊太郎の心の奥にしまい込んだ“人間らしさ”を見つけてしまった。
彼が必死に捨てたはずのものだ。
「あなたに逢うためだけに、生まれてきたと」
その言葉は、彼にとって呪いだった。
官僚は誰かのために生まれてきてはいけない。
国家のために生まれてきたことにしておかないと、出世の道が崩れる。
エリスは恋のために髪を切った。
少女のような純粋さを捨て、大人になる覚悟を示した。
だが豊太郎は、少女のままでいてほしかった。
少女なら、責任を取らずに捨てられるからだ。
彼はエリスの瞳を見返しながら、心の中で計算した。
「この女を捨てても、私は非難されないだろうか」
「精神を病んだことにすれば、同情されるだろうか」
「帰国後のキャリアに支障は出ないだろうか」
エリスの瞳は碧く澄んでいた。
その碧さは、豊太郎にとって“深海”だった。
落ちれば戻れない。
だから彼は、落ちる前に手を離した。
「私は、君に逢うためだけに生まれてきた男ではなかった」
その言葉は、彼の人生で初めての“正直な嘘”だった。
本当は、誰かに逢うために生まれてきた人間でありたかった。
だが、それを選ぶ勇気がなかった。
エリスは泣かなかった。
泣く価値すらない男だと悟ったからだ。
豊太郎は帰国し、出世した。
官僚として完璧な人生を手に入れた。
ただし、夜になると必ず思い出す。
宝石箱のようにひらく記憶の中で、
エリスの瞳が、静かに彼を見返している。
その瞳は、もう優しくなかった。
ただ、彼の人生の“欠落”を永遠に照らし続ける光だった。
