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あの日の選択

結論から言えば、ケイ氏の人生は“昨日と同じ”だった。
ただし、彼自身は“昨日とはまったく違う人間”になっていた。

その変化に至るまでの道のりは、少し長い。
ここでは、その夜に起きた出来事を、より丁寧に辿っていく。

1. 居酒屋のため息

ケイ氏は、四十を過ぎた平凡なサラリーマンだった。
仕事帰りの居酒屋で、カウンターにひとり座り、ビールを口に運ぶ。

店内は、油の匂いと、会社員たちの愚痴が混ざり合っていた。
テレビでは野球中継が流れ、店主は慣れた手つきで焼き鳥を返している。

そんな喧騒の中で、ケイ氏だけが静かに沈んでいた。
「……あの時、別の選択をしていればなあ」

彼には、今でも胸を刺す二つの岐路がある。

  • 大学卒業時、役者の夢を追うか、安定を選ぶか

  • 三十歳の時、恋人と結婚して地方へ行くか、仕事を優先するか

どちらも、彼は「安定」を選んだ。
そして今、手元にあるのはやりがいの薄い仕事と、ワンルームの静けさだけだった。

そのため息に、隣の席の紳士が反応した。

2. 黒いスーツの紳士

「人生の選択肢に迷子になっているようですね」

紳士は、仕立ての良い黒のスーツを着ていた。
常に垂れ目で笑みを浮かべており、「オーッホッホッホッホッ」と笑うのが特徴。
胸ポケットから取り出したのは、小さなガラス瓶。
中には、無色透明の液体が揺れていた。

「これはパラレル・ドロップです。
一滴飲めば、“選ばなかった人生”を一晩だけ体験できます。
いえいえ、お代は結構です。
ただし、一度に一つの選択肢だけ。
翌朝には、必ず元の世界に戻ります」

紳士の声は落ち着いていて、妙な説得力があった。

ケイ氏は、心の奥にある渇きに抗えなかった。
「……役者の道を選んだ私を見せてくれ」

紳士は微笑み、グラスに一滴落とした。
ケイ氏は飲み干し、意識が闇に沈んだ。

3. 役者になった世界

目を覚ますと、薄暗い楽屋だった。
埃の匂い、古いソファ、散らかった衣装。
壁には、色褪せたポスターが貼られている。

「おい、ケイ! 何サボってんだ、衣装着ろ!」
怒鳴り声に振り向くと、劇団仲間らしき男が立っていた。

鏡を見ると、そこにはやつれた自分がいた。
髪はボサボサ、頬はこけている。
しかし、目だけは異様に輝いていた。

夢は叶っていた。
だが、現実は残酷だった。
深夜のアルバイトを掛け持ちし、家賃は滞納。
体は悲鳴を上げ、将来への不安が胸を締めつける。
舞台の光は美しいが、生活は暗かった。

「……これは、これで地獄だな」

朝、目を開けると、自宅のベッドだった。
ケイ氏は安堵した。
「夢を諦めたのは、正解だったのかもしれない」

4. 家庭を持った世界

その夜、ケイ氏はもう一滴を試した。
「今度は、彼女と結婚して地方へ行った人生を」

目覚めたのは、木の温もりあるリビング。
窓から差し込む朝日。
キッチンにはエプロン姿の妻。
庭では子供たちが笑っている。

完璧な幸福。
ケイ氏は涙が出るほど感動した。
しかし、昼を過ぎると胸に違和感が芽生えた。

地方の生活は、驚くほど単調だった。
地域の狭い人間関係、終わりのない家計の心配。
かつて恋人だった彼女は、現実的な「生活の人」になっていた。

「……ここも、私の居場所じゃないのか」
翌朝、ケイ氏は自宅で目を覚ました。

5. 最後の一滴

ボトルには、あと一滴だけ残っている。
役者の人生は過酷。
家庭の人生は窮屈。
今の人生は退屈。
「どれを選んでも、満足なんてできないのか……?」

ケイ氏は最後の一滴を水に垂らした。
「私が、これまでの人生のすべての選択において、
 何一つ後悔せず、100%満足している世界へ連れていってくれ」

そして眠りに落ちた。

6. 終点のホーム

「終点ですよ」

ケイ氏は慌てて電車を降り、改札を出た。
夜風が冷たい。
彼は自分のアパートへとトボトボと歩きながら、頭をひねった。
「おかしいな。
 何も変わっていない。
 私は相変わらず、しがない独身のサラリーマンだ」

薬は効かなかったのだろうか。
がっかりしながら部屋の鍵を開け、明かりをつけた。
見慣れた、散らかった狭い部屋。
冷蔵庫を開けて冷えた缶ビールを取り出し、一口飲む。
その時、彼はハッとした。

いつもなら湧き上がるはずの後悔が、どこにもない。

「この狭い部屋も悪くない。
 仕事は退屈だが気楽だし、ビールはうまい。
 独身は自由で最高だ」

薬は確かに効いていた。
“自分の過去の選択を、すべて肯定できる心”を持つ自分へと、生まれ変わっていたようだ。

「うん。私の人生、今日が人生最良の日だ」

世界で最も幸福な、しかし昨日と何も変わらない男が、静かに眠りについた。


🔸投稿するきっかけとなった元ネタ

なぜお祭りに参加するのか?そこにお祭りがあるからさ…


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