乃木坂の「復活」について考える
ずっと考えている。 全盛期を過ぎた乃木坂やAKBといった巨大アイドルグループを「復活」させる方法について。
最初に断っておくと、これは外野の冷笑ではない。 僕は2017年からオタクをやっている。もちろん濃淡はあるが、乃木坂の全盛期から今までを追ってきたつもりだ。今でもライブに顔を出し、ミーグリでアイドルから元気をもらう典型的な乃木坂オタクである。
曲が当たれば、何かがバズれば、5期生のような魅力的な新メンバーの存在が広く知られれば、もう一度風向きは変わるのではないかと本気で思っていた時期もある。 同時に、乃木坂というグループに対して、どこか全力を尽くしていないように見える運営の姿勢にやきもきし、「もっとやりようがあるだろ」と苛立ったことも一度や二度ではない。
それでも考え続けた末に辿り着いた結論は、あまりに身も蓋もないものだった。
結論から言えば、おそらく、ない。
そもそも論として、芸能人の命とは新奇性に他ならない。特に「若くてそれなりに容姿が整った女性タレント」の代替可能性は極めて高い。参入障壁が低い代わりに、市場に残り続ける難易度は異常である。 どれだけ高尚なコンセプトや「清楚」といったブランドイメージで粉飾しようとも、本質的な商業価値は「若さ」と「性的価値」にほぼ集約される。
確かに、乃木坂はAKBのカウンターとして誕生し、AKBに食指が動かなかった層へのリーチに成功した。だが、乃木坂オタクが推しメンに抱く感情や消費行動は、かつてのAKBオタクのそれと驚くほど相似形だ。器が変わっただけで、欲望の中身は全く同じようなものだ。
代替可能性の高さを、分かりやすく示す装置がある。年始の『芸能人格付けチェック』におけるアイドル枠である。 AKBから坂道へ、FRUITS ZIPPERへと移り変わるこの系譜を見れば、世間が求めているのは特定グループの固有性ではなく、「若くて一定可愛い女性の集合体」という機能そのものであることが透けて見える。
そこで「うちらには歴史がある」「文脈が違う」と叫んだところで、それは内輪でしか通用しない。外から見れば、役割を果たす主体が入れ替わっただけだ。
女性アイドルという形式そのものにも、構造的欠陥が指摘できる。 下積みを経て、ようやくスキルとキャラクターが完成した頃には価値の源泉である若さと新奇性はほぼ枯渇している。だから主要メンバーは、全盛期の終わり際に卒業し、ネクストキャリアへ向かう。そしてその瞬間、グループの全盛期は完全に終わるのである。
ちなみに、下積みやドサ回りを省略する裏技は一応存在する。AKBの姉妹グループ、乃木坂に続く欅坂や日向坂、あるいはFRUITS ZIPPERの成功を受けたCUTIE STREETのように、成功モデルを横展開し、最初から売れっ子の体裁で市場に投入する手法だ。 だが、これは寿命を前借りして時計の針を無理やり早回ししているに過ぎない。価値の源泉である若さと新奇性を、先人のブランドという「のれん」でドーピングしているだけだ。本来なら時間をかけて積み上げるはずだった物語をすっ飛ばして消費サイクルに放り込まれるため、彼女たちはデビューした瞬間から、通常より早いスピードで消費期限に向かって走り出す。 下積みをショートカットした分、飽きられるまでの時間も短縮される。先人の残り香を吸って、より早く燃え尽きるだけの構造だ。
一定以上売れた女性アイドルグループが辿る道は、突き詰めれば三つしかない。前例がなくほぼ不可能に近いが市場を制圧し続けるか、評価軸をずらしてニッチへ退くか、じわじわと衰退して消えていくかのいずれかである。
Perfumeやももクロは、確かに生き残った。しかしそれは勝ち続けたのではなく、トップアイドルという競争から降りた結果に過ぎない。成功の定義を長寿や文化的評価に置き換えた、最も賢い撤退戦である。
現実としてメンバーは老け、時代への適応力も落ちる。入れ替わりによって「創業メンバー」と紡いできた物語は断絶し、疑似恋愛という形式である以上、ファンの現実の恋愛やメンバーの熱愛によって応援は容易に放棄される。ファンの背中には、常に見えない消費期限のタグが付いている。
男性アイドルと比較すれば、この過酷さはより鮮明になる。年齢上昇が許容され、スキルやパフォーマンスが評価軸として機能する男性アイドルに対し、女性アイドルは常に若さを前提に消費される。構造的に、延命が難しい。
「女性ファンが増えているから大丈夫だ」という反論もあるだろう。だが、それは垢抜けや「アイドルで居続けるための努力」といった要素に時代と共にさらに付加価値が生まれただけの話だ。本質は変わっていない。称賛の眼差しが30代以上の女性アイドルには原則的に拡張されない時点で、このモデルの限界は明らかである。
一度全盛期を作ってしまったアイドルにはもうひとつの難しさがある。それは、人間は「勢い」を「価値」と誤認する生き物であることだ。 今が伸びているという事実が、未来も伸び続けるはずだという根拠のない確信を生み、その確信が対象の価値を実体以上に膨らませる。
売上や認知が10から35に伸びている成長期には、実数以上の熱狂が生まれ、世界を獲ったかのような錯覚に陥る。一方で、78から69へと推移している衰退期では、絶対数は成長期より遥かに多いにもかかわらず、そこには手詰まり感とオワコン臭が漂う。近年のAKBや乃木坂は、完全に後者のフェーズに入っている。
この段階に入ると、既存の価値をあえて言語化し直さなければならない。これが自己規制的なキラキラオタクたちの行動原理の源泉でもある。
かつての僕は、この路線にどこか期待していた。強い楽曲が生まれ、SNSで切り抜きが拡散され、5期生の魅力が一気に可視化されれば、停滞した空気は打ち破れるのではないかと。
だが、知名度が飽和しきった巨大グループに「伸びしろ」は存在しなかった。「何も知らないグループ」には新奇性が宿るが、「昔から名前だけは知っているグループ」にはそれが働かない。消費し尽くされたブランドに、再び初見の驚きは戻らない。
そして、これらを前提にして見ると、現在の乃木坂運営の戦略はメタ的には極めて妥当である。握手会を廃止してコストが低いミーグリにシフトし、多くの限定グッズでオタクから資金を吸い上げ、衰退の兆候をブランディングで覆い隠し、メンバーの語りでは全盛期からの連続性を強調する。
乃木坂は巨大なエコシステムだが、それでもソニーミュ ージックの一部門に過ぎない。他にも収益源がある以上、斜陽コンテンツと心中する理由はない。取れるうちに取る。取れなくなりそうなら、その前に回収しきる。実に合理的だ。
かつては運営が手を抜いていると憤っていた。だが今は違う。確かに全力を尽くしていないのかもしれないが、全力を尽くしても、構造上以前の水準を回復しがたい局面に入っているだけなのだ。
だが、この合理性はあまりにも残酷である。衰退を認められないまま、「頂点であり続ける乃木坂」の一員として必死に数字に抗おうとするメンバーたちの努力が、運営の冷徹な店じまい戦略によって空回りさせられているからだ。 TikTokやInstagramの反応を見れば、今が自分たちの時代ではないことくらいメンバーも勘づいているはずだ。
だからこそ、彼女たちは残酷な現実から目を逸らすかのように、あるいは現実を覆そうとするかのように、必死に「アイドル」を全うしようともがいている。 しかし、その生存本能に基づく必死のあがきを、運営が課す過剰なブランディングが阻害する。店じまいを美しく完遂するために、商品の鮮度を保つための「防腐剤」としてブランド規定が機能しているのかもしれないが、それは同時に、今を生きようとするメンバーの手足を縛る鎖でもある。
徐々に変わる兆しは見えてきているとはいえ、個人SNSは制限され、公式では他アイドルの流行音源を使わないといった、全盛期からのブランド規定だけは未だに死守される。このちぐはぐさが生む徒労感こそが、今の乃木坂を見ていて最も胸が締め付けられ、可哀想に思えてしまう部分だ。
改めて言おう。トップアイドルとしての成功状態を、メディアをジャックし、売上と動員でトップを走り続ける天空アイドルであることと定義する限り、このゲームは最初から詰んでいるのだ。
AKBや乃木坂という偉大なのれんがオワコンになりつつある中で、それでもあれだけルックスの良さや才能がある子たちが入ってきてくれたこと自体が、もはや奇跡に近い。 乃木坂オタクとしてこんなことを書くと冷笑系だと後ろ指をさされるのは百も承知だ。それでも、もう、この構造的な詰み状態を直視せずにはいられない。
さらに、この「詰み」の盤面において我々オタク自身が直視すべき事実がある。それは、かつて乃木坂が圧倒的覇者であった時代、その威光を背景に許されていた(あるいは幸福にもそう誤認できていた)オタクたちの「殿様仕草」が、知名度が縮小した現在においてはもはや通用しないという現実だ。
「カワラボ(KAWAII LAB.)なんてどうせ長続きしない」「あんなものは一過性のブームだ」と高を括り、奴らが自滅すればまた自分たちの時代が巡ってくる──そんな甘い幻想は、今すぐ捨て去るべきだ。 あの頃の全盛期のプレゼンスに戻れるはずなんてない。仮に、カワラボの勢いが衰える日が来たとしても、その空席を埋めるのは、悲しいかな、おそらく復活した乃木坂ではない。そこにはまた別の、その時代に即した「一定の可愛さと若さ」を備えた、全く新しいアイドルが座るだけだ。その座が、古びたブランドに返還されることは二度とない。
また、SNSで度々他界隈との衝突で発生する炎上騒ぎは、そうした現実を見ようとしない内輪の論理が、外の世界と摩擦を起こし始めている証左に他ならない。「全肯定こそがファン」という盲目さは、かつては熱狂の燃料だったかもしれないが、今や閉塞感を強め、外野からの視線をより冷ややかなものにする一因ですらある。グループのプレゼンスが低下している中で、ファンのプライドだけが肥大化したままであれば、それは応援ではなく、単なる緩慢な自滅への加担でしかない。
では、この絶望的な構造の中で「救い」はどこにあるのか。 それは、徐々に衰退していく局面を受け入れ、空虚な「全盛期への回帰」を願う亡霊のような応援スタイルから脱却することにある。
皮肉にもその生存戦略の答えは、かつて乃木坂がカウンターとして否定し、乗り越えたはずのAKBが現在示している姿にあるかもしれない。
今のAKBを見ればわかる。
「会いに行けるアイドル」というかつてのパブリックイメージに固執せず、流行のメイクや顔立ちのメンバーを積極的に採用し、個人のSNS活用も解禁するなど、なりふり構わず「今の市場」が求めるものにアジャストし続けている。
彼らはもう、「AKBだから売れる」という前提の価値にあぐらをかいていない。「若くて可愛いアイドルを応援したい」という市場のプリミティブな要求に真正面から答え続け、そこに「AKB」や「坂道」という看板を信頼の証としての「付加価値」として添える。主従を逆転させ、ブランドを「のれん」として最大限使い倒しながら、しぶとく大手アイドルグループの一つとして生き残る道を選んでいるのだ。
確かに彼女たちは、かつての「唯一無二の国民的アイドル」から「ワンオブゼム」になったのかもしれない。しかし、その系譜は途絶えることなく確かに繋がれている。
組織が死なず、場所があり続けること。トップを走り続けることだけが正解ではないと認めた先に、私たち坂道オタクに残された唯一の救いもまた、この「しぶとい生存」という泥臭い道にあるのではないだろうか。
