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人を、花や光と同じように撮る 【わたしのポートレート論】


凍てつく冬の、栃木県・湯ノ湖。手が悴み、頬が赤くなるほどの寒さの中、私は湖畔の森で、ひとりの女性にカメラを向けていました。

風が、細かな雪を運んできます。その雪が彼女の髪に舞い降りた瞬間、私は心の底から「美しい」と感じ、息をするのも忘れて、一心不乱にシャッターを切っていました。

いま思い返しても、二度と巡り会えない一瞬でした。

育実ちゃん @hagu_dayo

——「人をどう撮ればいいか、わからない」。ポートレートを撮りはじめた頃、私もそう思っていました。相手が緊張してしまう。表情が固い。自分が何を撮りたいのかも、うまく言葉にできない。

でも今は、人を撮るときに、ひとつだけはっきりと信じていることがあります。その確信は、凍える湖のほとりで訪れた、あの一瞬から始まりました。


私が信じていること

私は、人と花と建物を、まったく同列に見ています。どれかが特別で、どれかが背景、ということはありません。すべて等しく美しい。だから私は、人を「特別に飾り立てる対象」としては撮りません。花や、光や、水の輝きと同じように、世界の一部として撮ります。人だけを世界から切り離すのではなく、その人が世界の中にちゃんと存在している、その様子を撮りたいと思っています。

そしてもうひとつ。人は、深い自然の中でこそ、本来の姿を取り戻すと感じています。自然の中に人が立つと、その存在は強くなり、環境と一体になって、エネルギーを放ちはじめる。日の光、木々の色、木漏れ日、水の輝きや反射——そうした、自然だからこそある環境が、人のまなざしを際立たせるように感じます。スタジオにはスタジオの良さがあると思います。ただ、自然の光にしか届かない場所も、きっとあるのだと、私は思っています。

アサイヒナタちゃん @asai_hinata_

この記事では、その考えにまつわる三つのことを書きます。私にとって最高だった撮影体験。私が普段、どのように撮っているか。そして、人を撮るのに困ったとき、どうしているか。順番に書いていきます。


私の最高の撮影体験

私には、忘れられない撮影体験があります。冒頭に書いた、あの湯ノ湖の一日です。

2020年の冬、栃木県の湯ノ湖。被写体は、りろんちゃん育実ちゃんの二人で、一緒に撮るのはそのときが初めてでした。二人がおりなす空気感と、姉妹のようなまなざしには、純朴で無垢な雰囲気がありました。

その一瞬は、湖畔の森の中で、育実ちゃんをひとり、ピンで撮っていたときに訪れました。風花が吹雪きはじめ、舞った雪が育実ちゃんの髪にそっと降りて、まるで髪に化粧を施すようだったのです。

その瞬間、彼女のまなざし、まわりの環境、光、天候すべてが、その一瞬のために息を合わせたようでした。

そして、彼女のまなざしからは、すべてへの愛を感じました。それは私に向けられたものではなく、私を通り越して、世界そのものに向けられた愛だったと思います。

ままならないからこそ、揃った

あの日、思い通りになるものは何ひとつありませんでした。凍える寒さも、こちらの都合などおかまいなしに舞う風花も。

でも、今になって思うのです。もしすべてが思い通りだったら暖かくて、風も自分で操れて、光も完璧だったらあのまなざしは、生まれていなかったと思います。

あの瞬間は、奇跡的にすべてが揃った一瞬でした。ままならない自然の中で、たまたま、いえ、必然のように、すべての条件が重なった。だからこそ私は、恒久的な一瞬を永遠に残る一枚を切り取ることができたのだと思います。

自然の「思い通りにならなさ」は、邪魔ではありませんでした。それは、あの美しさが生まれるための、欠かせない条件でした。

撮られた側も、同じ一瞬を「永遠」と呼んでいた

じつは、この記事が生まれたきっかけも、育実ちゃんにあります。

あの日撮られた育実ちゃんは、この湯ノ湖での撮影のことを、彼女自身の言葉で記事にしてくれていました。もう6年も前のことです。私はその記事を、元気が出ないときに、いまでもよく読み返しています。今回こうして書こうと思えたのも、あの文章に、もう一度背中を押してもらったからでした。

私が「恒久的な一瞬を切り取れた」と感じたその瞬間を、彼女はこう書いていました。

データが送られてきた時、私は写真を見て直感でこの写真は永遠だ、と思いました。小手先の見栄えや名声、虚飾など一切存在しないその場にいた人達の正直な感性だけで作られた純粋な作品。

冬特有の粛然に張り詰め、どこまでも澄み切った空気の透明さ、寒さに染めあげられた耳たぶの紅、レンズを見つめ返す真っ直ぐで透明な瞳。

撮る側の私と、撮られる側の彼女が、同じ一瞬を、別々の言葉で「永遠」と呼んでいた。彼女はこうも書いています。

世界に対して「美しい」と感じたことを素のままに「美しい」と言える大らかな空気、各自に感性を伝え合えることの素晴らしさ、尊さ。

私があの森で感じた「私を通り越して、世界に向けた愛」は、きっと彼女の側から見れば、この「世界に対して美しいと感じたことを、素のままに美しいと言える」空気だったのだと思います。


私がどのように撮っているか

ここからは、最初の問い「人をどう撮ればいいか、わからない」について、私なりに書いてみます。あくまで私個人のやり方で、正解というわけではありません。数ある撮り方のひとつとして、気楽に読んでもらえたら嬉しいです。私が意識しているのは、大きく三つ「構図、環境、シチュエーション」です。

構図——余白を大切にする

私のクセは、なによりも余白感を大切にすることです。人を画面いっぱいに大きく写すよりも、まわりに空間をたっぷり残して撮ることが多い。

なぜかというと、余白は「何もない空間」ではないからです。被写体を取り巻く自然の豊かさ、その人と世界との一体感それらは、余白があることでかえって強く立ち上がります。人を小さく、世界を大きく写す。そうすると、その人がひとりで際立つのではなく、世界の中にちゃんと存在している、その様子が写ります。人も、まわりの自然も、等しく美しい。その考えが、そのまま私の構図のクセになっているのだと思います。

りろんちゃんと育実ちゃん
越原小百合さん @sayurikoshihara

環境——手付かずで、奥深い場所へ

撮る場所は、なるべく人がいない、人工物のない、手付かずで奥深い自然を選びます。

人の気配や、作られたものが写り込むほど、被写体は世界から浮いてしまう気がします。逆に、まわりにノイズがないほど、その人の存在とまなざしがまっすぐ立つ。湯ノ湖の森が、まさにそうでした。

アサイヒナタちゃん @asai_hinata_
育実ちゃん @hagu_dayo
えみこさん @emiiiiiko_no5

シチュエーション——動きの中に、自然な姿がある

ポーズを「決めさせる」ことは、あまりしません。かわりに、その場で体が自然に動く状況をつくります。木に寄りかかってもらったり、しゃがんでもらったり、走ってもらったり、踊ってもらったり。時には、水辺に入ってもらったこともあります。

えみこさん @emiiiiiko_no5

表情も同じで、直接「笑って」とは言いません。想像しやすい情景を渡します。微笑んでほしいときは、「目の前に、大好きな人やペットがいて、その子に微笑みかけている感じで」。リラックスした表情がほしいときは、「朝方、気持ちのいい微風が吹く海を、ぼんやり眺めているときのように」。人は、指示された表情はつくれなくても、思い浮かべた情景の中でなら、自然な顔になれます。

アサイヒナタちゃん @asai_hinata_
あやのちゃん @ayano
ひかるちゃん
三橋 英夢ちゃん @emu_03_
越原小百合さん @sayurikoshihara
冬由ちゃん @fuyu.______

ポーズをお願いするときも、まず自分で先にやってみせます。言葉で説明するより、やってみせたほうが、早く伝わる気がするからです。根っこにあるのは、やはり同じ気持ちです。人を思い通りに動かそうとするのではなく、その人が自然にそうなれる状況を、そっと用意できたら。そんなふうに思っています。

自分が水に入って、深さや安全かどうかも確認します。
自分がイメージしているポージングを実際に自分でやって見せて、手や足の位置、どんなイメージなのかもなるべく言葉で伝えて、ポージングしてもらっています。

人を撮るのに困ったとき

「何を撮ればいいかわからなくなる」「手が止まってしまう」。撮っていると、そんな瞬間があるかもしれません。

そんなとき、私がいつも支えにしている考えがあります。同じ被写体でも、角度や状況を変えれば、撮れる絵は無限にある、ということです。目の前の一人から引き出せるものは、そう簡単には尽きない。そう思えると、少しだけ気持ちが軽くなります。

角度と状況を変えれば、無限に撮れる

その「無限」に手を伸ばすために、私がやっていることが三つあります。もし撮るものに詰まってしまったら、試してみてください。

ひとつめは、普段撮らないようなところへ行ってみること。いつもの場所、いつものアングルから一歩外れるだけで、見える世界が、ふっと変わることがあります。

育実ちゃん @hagu_dayo
アサイヒナタちゃん @asai_hinata_

ふたつめは、部分で撮ってみること。全身や顔だけでなく、手、髪、目、指先——体の一部分にぐっと寄る。全体では見えなかった表情が、部分に宿っていることがあります。

アサイヒナタちゃん @asai_hinata_

みっつめは、超広角で、至近距離から撮ってみること。思いきり寄って、広く写す。歪みや迫力、その人と世界がひとつに溶けるような感覚は、この撮り方ならではだと感じます。

清水 萌茄さん @moka._.shimizu
越原小百合さん @sayurikoshihara
冬由ちゃん @fuyu.______
冬由ちゃん @fuyu.______

どれも、被写体を変えなくてもできることです。角度と状況を変えるだけで、一人の人から無限の一枚が生まれる そう思えると、次の一枚に、自然と手が伸びていきます。


カメラやレンズ、ピントや露出は、そこまで重要じゃない

もうひとつ、撮ることに迷ったときに、私がよく思うことがあります。それは、道具や設定は、そこまで重要ではないのかもしれない、ということです。

高級なカメラ、高性能なカメラ、古いフィルムカメラ。銘玉と呼ばれるレンズ、希少なレンズ、安いレンズ。どれも、写真を撮るのに必要な道具です。たしかに、カメラやレンズによって、撮れる写真・撮れない写真は存在すると思います。ピントが被写体に合っているか、露出は適正か、といったさまざまな論争もあります。

でも私は、常々こう思っています。自分が撮りたい写真を撮れる道具と設定であれば、それでいい、と。それよりも、どれだけ写真を撮るか、どこまで出かけられるか、どれだけ審美眼を磨けるか。そちらのほうが、ずっと大切なのだと思います。

冬由ちゃん @fuyu.______
えみこさん @emiiiiiko_no5
越原小百合さん @sayurikoshihara

いちばん大切なのは、被写体さんの安全

最後に、この記事でいちばん大切なことを書かせてください。ポートレートで最も大事なのは、構図でも、機材でも、技術でもなく、被写体になってくれる方の安全だと、私は思っています。

近ごろ、盗撮やセクシュアルハラスメントといった、撮影にまつわる悲しい事件を耳にすることが増えました。だからこそ、はっきりと書いておきたいのです。被写体さんの精神的・身体的な安全は、どんな一枚よりも先に、守られなければならないものです。

写真は、撮る側が一方的につくるものではありません。撮る人と撮られる人が、一緒に作り上げていくものです。だからこそ、相手の意見をないがしろにしたり、安全を欠くような要望を押しつけたりすることは、決してあってはならないと思っています。

どんなに美しい一枚も、その一瞬を安心して分かち合える信頼の上にしか生まれません。撮らせてもらっている、その気持ちを、私はいつも忘れずにいたいと思います。


おわりに

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

うまく撮ろうと、気負わなくて大丈夫です。次にあなたが自然の中で誰かを撮るとき、少しだけ思い出してみてください。目の前の人も、まわりの花も、光も、等しく美しいということを。思い通りにならない風や光は、邪魔ものではありません。そのままならなさの中でこそ、撮る人と撮られる人がそろって「永遠だ」と感じるような、一生に一度の一瞬が、ふいに訪れるかもしれません。

その一瞬に出会えることを、同じ写真を撮る者として、心から願っています。

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