窓枠で切り取った天色の空
リビングに寝転び空を見る。今、彼はこの空を見上げているだろうか。
きっとあの日もこんな空だったのだろう。
彼は、東京で一人暮らしをする勉強も部活も真面目だが、熱量低めの大学生。もちろん、遊びも恋愛も程々に経験しながら大学生活を謳歌していた。
そうして過ごした大学生活も、残すところあと一年。これから始まる大イベント『就活』に向け、彼は意欲満々で動き始めた。
しかし、大学生活の集大成とも言えるそれは、彼の想像以上の過酷さだった。落とされ続ける書類選考、また運良く通った書類選考後に待ち受けるダメ出しだらけの面接など、人間としての尊厳をも見失いそうになりながら、それでも彼はひたすら突き進んだ。
だが、結果の出ない毎日。すでに内定を勝ち取った友人の噂と書類選考すら通らなくなりつつある自分を比べては、日に日に前進する意欲を削られていった。
それでも、辞めることができないのが就活。彼は、吐き気を抑えワイシャツのボタンを留める。用意したネクタイを手にしたとき、彼の中で張りつめていた糸が切れた。その音は彼の中で大きく響き、ベットに座り込むと立ち上がることが出来なくなった。
それからの彼は、鉛のような体を起こすことも出来ず「決めなくてはならない就職」と「うまくいかない就活」の狭間で身動きが取れなくなった。
そうなると、就活だけの問題ではなくなった。友人から届いた「このままでは卒業も危ういのでは……」との心配の声。就職を決められない今、卒業だけは死守せねばと、彼は体に鞭を打ち大学へ向かう。
そうして向かった大学で何とか授業をこなすと、少し自信を取り戻した。足取り軽く階段を降りると、そこにある学生相談室に目が留まる。だが、その時の彼はそれを気にせずに帰宅した。
帰りの電車で彼は、大学に行くことがこんなにも気持ちを軽くしてくれるのだと実感した。ただ大学に行っただけだが、昨日までの悪夢は消え去り、あとは全てうまくいくように思えたから。
しかしそう簡単ではなかった。翌日、目覚めるとそこには鉛のような体があるだけだった。信じられずにしばらく昨日の自分を探してみるが、それはどこにも居ない。訳が分からなくなり、もう自分一人ではこの沼から抜け出せないのだと、彼は沼の淵でもがくことさえ辞めてしまった。
しばらく彼は思うようにならない体と過ごしたが、そのうち誰かに助けを乞わなければと思うようになった。すると、大学で不意に目に留まった学生相談室を思い出す。藁をも掴む思いで大学ホームページを見るとそこには、
『上手く言葉にできないことでも大丈夫』とあり、それを目にした彼は迷うことなく電話をかけた。
電話に出たカウンセラーは、彼の言葉少なげに話す様子を察して
「会ってゆっくり話そうか」と言い、大学まで来られるかを尋ねると、
「自信がない……」と彼が答えた。するとカウンセラーは、
「ダメな時は連絡をくれれば大丈夫、待ってますね」と優しく言って電話を切った。
彼は久しぶりに人の優しさに触れ、溢れた涙に気づくとそれをそっと拭った。
そして迎えた学生相談室への朝、また彼は吐き気が止まらない。相談室に行き、全てを吐き出してしまいたい気持ちとは裏腹に、そうすることで就活から逃げることになる弱い自分を許せない。だが、このジレンマに陥ったままでは何も変わらないと、彼は自分に言い聞かせるとドアにカギを掛け駅へと向かった。
やっとの思いで相談室に着くと、もうカウンセラーは待っていた。促され相談室に入ると、カウンセラーは彼にゆっくりと話しかける。しかし、下を向き黙り込む彼。それでもカウンセラーは、彼の胸の内を引き出そうと根気よく話しかけ、彼もまたそれに応えるようにぽつりぽつりと話し始めた。
そうして彼は、溢れる涙を堪えながら彼の中の全てを吐露したのだった。
彼の話を聞き終えたカウンセラーは、
「就活を一時停止して、心療内科の受診をしてください」と静かに言った。
彼は、就活の一時停止が現実になれば楽になると信じていた。しかし実際は全く逆で不安が募り、それにも増して病院受診という想定外のことも起こりパニックになった。
でも、この機会を逃せばまたあの沼に飲み込まれると思い、この足を止めてはいけないと大学を出ると、そのまま心療内科へ向かった。
心療内科では、カウンセラーと同じく「就活の一時停止」と薬を処方された。ただ彼が驚いたのは、カウンセラーの時とは違い、医師の言葉はすんなりと受け入れられたことだ。
但し、実家に帰ることを勧められた時だけは家族に知られたくないと彼が渋った。すると医師は「病気ですから」とキッパリと言い、まっすぐに彼を見た。そのまっすぐな視線はどんな言葉よりも説得力があり、彼はそれを受け入れるしかなかった。
もう悩むのはやめようと決め、病院を出るとすぐに母親に連絡をする。しかし連絡はしたものの、就活の動向にヤキモキしている母親になかなか言い出せない。上の空で話を聞いていると、タイミングよく帰省の話が出た。彼は、今しかないと思うと病気について重い口を開いた。
彼の母親は少し驚いた様子だったがあっさり受け入れ、
「お父さんには私から話すから」と言い、心配せずにすぐに帰って来るように言うと電話を切った。
あまりにもトントン拍子に話が進み、拍子抜けした彼は安堵とともに笑みが溢れたが、自分を取り巻くしがらみが無くなりつつあるこの機会を逃がしてはならないと、部屋に戻り取る物も取り敢えず実家へ向かった。
彼が実家に帰ると、家族は腫物に触るように接した。それはとても居心地が悪く、帰省を早まったかと思ったが、翌日にはいつも通りになり、それからはのんびりした時間を過ごした。そうして彼は少しずつ彼らしさを取り戻し、夏休みも終盤を迎える。
その頃、両親から後期の大学はどうするのかを聞かれた。彼は不安であったが「就活はしなくとも大学だけは卒業を……」と願う両親を察して、東京に戻ることを決めた。
そして彼が東京へ戻る日。その日は素晴らしい快晴だった。
前日にまとめた荷物を持ち、彼は車に乗り込む。駅までの間はいつも通り「ちゃんと食べる」だの「夜更かしはしない」だの母親の小言と、「辛い時はいつでも戻ってきなね」という母の想いを聞いた。彼はそれに黙って頷き車を降りると、重い荷物を引きずり下を向いたまま歩いた。
彼は、振り返ることなくエスカレーターに乗ると、ゆっくり吸い込まれるように東京へと運ばれていった。
いつかテレビで芸人がこんなことを話していた。
「人間、辛い時って不思議とずっと下を向いて歩くんだよね。でも、何かの拍子に上を向くとさ、そこには青い空があって。その空を見た時、思ったんだよね。『オレは犯罪者じゃないんだし、何とかなるんじゃないかな』ってね」
そう言って、自分が一番辛い時を乗り越えたのだと。
その通りだと思った。今、下を向き歩く彼は何も悪くない。彼はただ思い通りに人生が運ばないだけなのだ。本来、人生なんて思い通りに運ぶことの方が難しいのに、そういう時に限ってそのことに気づけない。
もし、彼がそのことに気づけば、きっと彼の人生は上手く回り始めるのだろう。
「遠回りも悪くない」と彼が空を見上げれば、きっとそこには「天色の空」が広がっているだろうから。
