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翠雨がすき

濡れた葉の匂い。

庭に出た。

雨が降っていた。

葉に手を伸ばす。

冷たかった。

触れた瞬間、葉に溜まっていた雨粒が落ちた。

小さな音がした。

その音を、私は今でも覚えている。

子供だったころの記憶だ。

四百の名前

日本語には、雨を表す言葉が四百以上あるという。

多いと思う。

でも、不思議とは思わなかった。

四百という数は、雨の数ではない。

雨を見つめた人の数なのかもしれない。

誰かが立ち止まり。

見つめ。

名前を与えた。

「小糠雨」も、そうして生まれたのだろう。

誰かが見つけた一瞬が、言葉になり、残ったのだと思う。

覚えることと、使えること

翠雨という言葉がある。

青葉に降る雨のことだ。

新緑の葉に細かな雨が降る。

濡れた緑は少し深くなり、空気まで色を帯びたように見える。

辞書を開けば意味はわかる。

読み方もわかる。

覚えることもできる。

でも、その音はまだ、自分の声になっていなかった。

五月の午後。

雨が降り出して、その景色を見ながら、

「ああ、これが翠雨だ」

と思えるかどうかは、別の話だ。

辞書には載っている。

でも、体にはまだ載っていない。

型が落ちる日

能に興味があって、長いあいだ舞台を見たり、稽古を見学したりしてきた。

型を覚える。

動きを覚える。

何度も繰り返す。

それでも、まだ型はその人のものではない。

翠雨という言葉も、今の私にはまだそうだ。

ある日、ふっと変わる瞬間がある。

考えるより先に、体が動く。

その日がいつ来るのかは、誰にもわからない。

稽古の年数だけでは測れない。

翠雨という二文字が、体の中へ落ちる日も、きっとそんなふうに訪れる。

五月の雨の中を歩いていて。

濡れた葉の匂いを吸い込み。

雨粒が葉を打つ音を聞いた、その瞬間。

「ああ、これが翠雨だ」

すいう、と声に出してみた。

その音が、自分の中で少し濡れた。

そのとき、言葉は辞書の中から、自分の中へ移る。

母の後ろ姿と、京都の数分

私の中にある雨の言葉は、まだ三つしかない。

翠雨。

春雨。

時雨。

春雨は、母から来た。

三月の終わり。

庭の沈丁花が咲くころだった。

細い雨が降り始めると、母は傘を持たずに庭へ出た。

「春雨だから、濡れてもいい」

そう言って笑っていた。

私はその後ろ姿を見ながら、濡れてもいい雨があることを知った。

時雨は、京都だった。

十一月。

東山を歩いていると、晴れていた空から短い雨が降った。

数分で止んだ。

軒先では、地元の人が少し立ち止まり、

「時雨やなあ」

と言った。

誰も急がない。

誰も驚かない。

その数分が、そのまま時雨だった。

私は観光客だった。

それでも、その日から時雨という言葉を見るたびに、京都の空気まで一緒によみがえる。

消えていくもの

雨の日になると、稽古場の外へ出る人がいた。

濡れた庭で、何度も同じ型を確かめていた。

足袋が濡れることを気にする様子はなかった。

いつの間にか、その姿を見なくなった。

型の名前は残っている。

動きも映像に残っている。

でも、あの日、あの人が何を感じながら足を運んでいたのか。

その時間だけは、どこにも残っていない。

残るもの、残らないもの

言葉は残せる。

型も残せる。

記録も残せる。

けれど、その言葉が体に落ちた瞬間や、その型が自分のものになった日の感覚までは、簡単には残せない。

それは、誰かから渡されるものではなく、自分で出会うものなのだと思う。

私の場合

四百の雨を、すべて知ることはできない。

でも、ひとつかふたつ、自分の中で息をしている言葉があれば、それで十分なのだと思う。

翠雨。

春雨。

時雨。

私には、その三つがある。

これから先、もう一つ増えるかもしれない。

その日もきっと、辞書ではなく景色の中で出会うのだと思う。

その言葉が生まれる場所は、まだ見たことのない雨の中にある。

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二毛猫 虹をありがとうございます。