ちっとも寂しくないよ|人は、いなくなった人と暮らすことがある
畳の上に、西日がのびていた。
古い柱のささくれまで、薄い金色になっている。
窓の外で、どこかの家の雨戸が鳴った。
夏の終わりの、少し乾いた音だった。
ヘルパーの彼女は、玄関で靴をそろえた。
いつもの家。
いつもの夕方。
「こんにちは」
声をかけても、返事はなかった。
奥の部屋に入ると、おばあちゃんが座っていた。
背中を少しまるめて、両手で写真を持っている。
亡くなったご主人の写真だった。
壁ぎわのハンガーには、茶色の背広が掛かっていた。
少し肩の落ちた、男物の背広だった。
おばあちゃんは何も言わない。
ただ、親指で写真のふちをなぞっていた。
ゆっくり。
ゆっくり。
同じ場所を何度もたしかめるように。
彼女は、足を止めた。
掃除をしに来た。
薬の確認もしなければならない。
夕飯の支度もある。
いつもの仕事だった。
けれど、その日は、しばらく声をかけられなかった。
写真をなぞる指先だけが動いている。
かすかな衣ずれの音。
遠くで犬が一度吠えた。
それから、また静かになった。
彼女は小さく声をかけた。
「じいちゃんのこと、思い出していたの?」
おばあちゃんは、ゆっくり振り向いた。
目が合うまでに、少し時間があった。
それから、ほんの少し笑った。
「ちっとも寂しくないよ」
明るくも、暗くもない声だった。
強がっているようにも聞こえなかった。
彼女は、すぐには返事ができなかった。
おばあちゃんは写真に目を戻した。
「じいちゃんはね」
そこで、少し間があった。
「たくさん、残してくれたから」
彼女は黙っていた。
おばあちゃんの指が、また写真のふちをなぞった。
「私は、その中で暮らしてるの」
それだけ言って、おばあちゃんは湯のみの置かれた卓を見た。
彼女は台所へ向かった。
やかんの底がコンロに当たって、かん、と鳴った。
水を入れる音。
包丁の音。
湯が沸く音。
いつもの夕方の音が、少しずつ戻ってきた。
お茶を出すと、おばあちゃんは両手で湯のみを包んだ。
「熱いね」
そう言って、また笑った。
さっきの言葉は、それきりだった。
彼女も、もう聞かなかった。
帰るころ、外はもう青くなっていた。
夕日は沈み、住宅街の道に冷たい空気が降りはじめていた。
どこかの家から、味噌汁の匂いがした。
彼女は自転車を押しながら、何度も振り返りそうになった。
でも、振り返らなかった。
あの茶色の背広が、まだ西日の中にあるような気がした。
それから彼女は、ときどき、じいちゃんの話を聞くようになった。
どこへ旅行したのか。
植物園では、どの花の前で長く立っていたのか。
おみやげは何を買ったのか。
おばあちゃんは、少しずつ話した。
話す日もあれば、話さない日もあった。
彼女は、急がなくなった。
秋になると、彼女はあの日を思い出す。
夕日は毎年、同じように傾く。
窓ガラスを金色にして、畳の目に沿って伸びていく。
けれど、彼女の中に残っているのは、西日の色ではなかった。
写真のふちをなぞる、あの親指。
壁に掛かっていた、茶色の背広。
そして、
「ちっとも寂しくないよ」
という声。
あの言葉を、彼女はいまだにうまく持てない。
寂しくなかったのかもしれない。
寂しかったのかもしれない。
そのどちらでもなかったのかもしれない。
ただ、ひとつだけわかることがある。
人は、いなくなった人と暮らすことがある。
写真の中で。
背広の袖で。
毎朝使う湯のみの重さで。
ふとしたときに思い出す、声の調子で。
だから彼女は、今でも西日の部屋で写真立てを見ると、少しだけ声を落とす。
「こんにちは」
そして、急がずに、お茶を淹れる。
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