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バックミラーに消えていくもの --冬の箱根ターンパイクで考えたこと

冬の明け方、箱根ターンパイクへ向かった。

空気は動いていなかった。
フロントスクリーンの向こうに、白い息だけが流れた。

家を出るとき、温度計は7℃を示していた。
数字を見た瞬間、少しだけ手が固くなった。

都心を抜けるまで、頭の中はずっとうるさかった。
信号。テールランプ。誰かの排気音。
ヘルメットの中で、考えごとが勝手に増えていく。

山に入った瞬間、それが消えた。

対向車はいない。
先行車もいない。
後続車もいない。

朝日が、道の片側だけを白く照らしていた。
反対側には、まだ夜が残っている。

最初のカーブが見えた。

まだ握らない

コーナーの手前で、世界は急に小さくなった。

空も山もガードレールも、視界の外へ押し出される。
残ったのは、黒い路面と、白くかすれたセンターラインだけだった。

右手の指が、ブレーキレバーにかかる。

まだ握らない。

低い朝日は、路面の一部だけを強く光らせていた。
その奥が乾いているのか、濡れているのか。
一瞬、わからなくなる。

寒い朝は、ブレーキがいつもより早く効く気がする。
それが正しい感覚なのか。
ただ身体がこわばっているだけなのか。

判断がつかないまま、カーブは近づいてくる。

エンジンの音だけが低く続いていた。
ヘルメットの内側で、自分の呼吸が少し遅れて聞こえる。

ブレーキの入れ方。
視線の置き場所。
肩に残る力。
戻しきらない右手首。

誰も見ていない道の上に、下手な自分だけがいた。

倒すな。入れ

バイクは、言い訳を聞かない。

右足でリアを沈める。
指先でフロントを入れる。

タイヤが、いつもより硬く感じた。
冷えているせいかもしれない。
緊張しているだけかもしれない。

フォークが沈む。
フロントが路面をつかむ。
手のひらまで、アスファルトのざらつきが上がってくる。

速度が落ちていく。
同時に、選べる道も減っていく。

風の音はない。
エンジンだけが低く回っている。
それなのに、いつもよりずっと静かだった。

日陰のどこかに、まだ凍った場所があるかもしれない。

その考えが、頭の端に残っていた。
消えないまま、ブレーキを抜いていく。

ステップに体重を残す。
肩の力を抜く。
視線だけを、カーブの先へ逃がす。

車体が、すっと寝ていった。

倒した、という感じではなかった。
倒れていくものを、邪魔しなかっただけに近い。

まだ開けるな

旋回に入った。

ターンパイクのその場所は、ゆるい右カーブだった。
いつもなら、何も残らず通り過ぎる一本だ。

けれど、その朝は違った。

右手首を止める。

全閉でもない。
開けてもいない。
髪の毛1本ぶんだけ、当てている。

路面がまだ冷たいことを、身体のどこかが覚えていた。
頭で考えるより先に、指が待っていた。

出口の先に、朝日が反射している。
道は誰もいないまま、ずっと先まで伸びていた。

開けたかった。

でも、車体はまだ起ききっていない。
ここで雑に入れれば、後ろではなく前に力が残る。
曲がっているのに、前へ行きたがってしまう。

だから待った。

カーブがいちばん内側へ切れ込む場所を過ぎる。
視線が、出口の奥へ抜ける。
身体の中の固いものが、少しだけほどける。

右手首を入れた。

エンジンが低く吠えた。
後輪が路面を蹴る。
バイクが前へ出る。

傾いていた世界が、ゆっくり戻ってきた。

肩の力が抜けたのは、そのあとだった。

バックミラーに映る過去

立ち上がる。

速度が乗る。
冷たい風が、頬のあたりだけを細く刺した。

バックミラーを見た。

たった今抜けたはずのカーブが、そこに映っていた。
朝日を受けた黒い路面。
白線。
まだ日陰の残る場所。

もしかしたら、あそこは凍っていたかもしれない。

数秒前まで、私はそこに全部を置いていた。
指先も、足裏も、呼吸も、迷いも。
何を見るか。
どこで待つか。
いつ開けるか。

それが今は、ミラーの中で小さくなっていく。

過去は、案外はっきり見える。
ただ、もう触れない。

次のコーナーへ

前を見た。

もう次のカーブが近づいていた。

指がまたレバーに触れる。

まだ握らない。

視界が、少しずつ狭くなる。
山も空も遠のいていく。
路面だけが近くなる。

対向車はいない。
先行車もいない。
後続車もいない。

あの朝、誰もいない道の上で、私はずっと自分とだけ話していた。

うまく走れたかどうかは、よくわからない。
ただ、1つだけ残っている。

コーナーを抜けるたびに、少し前の自分がミラーの中へ行く。

私はまた前を見た。
次の白線が、朝日ににじんでいた。

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