がんが風邪薬を飲んだら治るようになってほしい
5年前のこと
5年前のことを、今でも覚えている。
会議室だったのか。
作業場だったのか。
細かい場所は、もう曖昧になっている。
でも、その人がそこにいたことだけは覚えている。
現在のゲノム解析プログラムを作ることになる、一人の人だった。
コードを書いていても、その先に患者さんがいた。
品質を考えていても、その先に患者さんがいた。
検査も、薬事も、設計も、会議も。
その人の中では、どれも一つの流れになっていた。
少なくとも、私にはそう見えた。
どこまで見えていれば、人はあんなふうに物事を作れるのだろう。
風邪薬のように
ある日、その人が、ぽつりと言った。
「がんが、風邪薬を飲んだら治るようになるといいな」
大きな声ではなかった。
誰かを励ますための言葉でもなかった。
ただ、目の前の仕事を見つめながら、そのずっと先を見ているような言葉だった。
私は、すぐには返事ができなかった。
風邪薬。
がん。
あまりにも遠い二つの言葉だった。
けれど、その人の中では、一本の線でつながっているように見えた。
私たちは、高度な解析を考えていた。
薬事を考えていた。
品質を考えていた。
安全を考えていた。
でも、そのすべては、たった一つの願いへ向かっていたのだと思う。
検査結果を待つ夜がある。
家族に何を伝えればいいのか分からない朝がある。
次の治療を選ぶために、何度も説明を受ける午後がある。
その時間が、少しでも軽くなればいい。
たぶん、その一言の奥には、そういう時間が入っていた。
本当に遠くまで届く願いほど、最後は子どもでも分かる言葉になるのかもしれない。
火が消えない場所
後になって、もう一つ気づいたことがある。
その人の力を、静かに支えていた人がいた。
一人は、火を持っていた。
もう一人は、その火が消えない場所をつくっていた。
火は、強い。
だから、ときには周りを焦がしてしまう。
でも、火が人を照らすためには、それを守る場所がいる。
私は、その二人を見ていた。
だから、あのプログラムは形になったのだと思っている。
そして、その火は、自分のためには燃えていなかった。
まだ会ったことのない患者さんへ向いていた。
検査結果を待っている誰か。
これから治療を選ぶ誰か。
その人たちの方へ、静かに向いていた。
才能とは、能力だけを指す言葉なのだろうか。
その火が燃え続けられる場所まで含めて、初めて形になるものなのではないか。
今では、そう思っている。
まだ来ていない未来
あれから、5年が過ぎた。
がんは、まだ風邪薬を飲むようには治らない。
2026年の今も、そうだ。
未来は、思っていたより、ずっと慎重に歩いてくる。
技術がある。
制度がある。
品質がある。
安全性がある。
その先に、人の命がある。
だから、急ぐことはできない。
もどかしいほど、ゆっくり進む。
それでも、人は遠くを見る。
まだ届かないと知りながら、その方角を見続ける。
「がんが、風邪薬を飲んだら治るようになるといいな」
その未来は、まだ来ていない。
けれど、その一言は、今も私の中に残っている。
あの日、その人は遠くを見ていた。
私は、その横で、その遠さに少しだけ触れた。
それから5年。
私は、ときどきあの言葉の方角を見る。
まだ届かない。
でも、そちらを向くことはできる。
あなたの中にも、今も残っている誰かの一言がありますか。
それは、どちらを向いていますか。
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