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今に残っていれば世界遺産だ 放射線は拳銃の弾ではない 原爆に耐えた町があった

 蓬莱の天津飯 陽気のラーメン タカキベーカリーのダニッシュペストリー 肉のますゐのサービスとんかつ(mittanさんのnote記事からいただきました 感謝です) これに 来頼亭のラーメン むさしのむすび ちからのうどん 長崎堂のバターケーキ が加われば1960年代の広島市民のちょっと贅沢な食事は完結する。必要のない情報です。上記のお店は現在も営業中です。古い地元民は蓬莱では「天津」陽気や庄さんでは「中華」とか「ソバ」とか「シングル」や「ダブル」言って注文します。料理メニューはラーメンしかないので。
 当時の広島の人口は約40万人、川の護岸にはバラックが建ち並び戦後を引きずっていた。このバラックとよばれた川沿いの住宅が無くなったのは1971年と記憶しています。爆心地からあるいて20分くらいのところに比治山がありました。ほんとうに小さな山です。山の中腹に防空壕が残っており、そこに数匹の犬と共に生活されている人もいました。遊び盛りの小学生の頃に、その犬に吠えられたのをよく覚えています。その小高い山の陰になり、原爆による爆風や熱線の影響が抑えられた段原地区がありました。ここでは一般人の住宅がほば残っていました。市場や映画館、商店街もありました。現在は立ち退きや再開発の都市計画による区画整理が実施されて、新しい街となって生まれ変わっています。爆風・熱線は小山のおかげで抑えられても、放射線は容赦なく影響を及ぼす。放射線はピストルの弾ではない。浴びた人がみんな死亡するわけでなく一種の確率現象なので、それはそれでまた難しい。原爆のことを地元では「ピカ」とか「ピカドン」と呼んでました。最初にピカっと光がきて、次にドーンと爆風・熱線がおしよせます。人間な感じられるのはこれだけです。忘れてはならないのは、同時に放射線も上空からあびせられることです。この放射線を浴びた庶民の町が1980年代までありました。今に残っていれば世界遺産候補である。戦争が始まり、原爆が投下され、戦後を生き抜いてきた。その中の人々の普通の生活の中に幸せがある。再開発が議論され始めた頃、便利な生活になるとの意見もありました。しかし今になってみると、立ち退きや取り壊しにのことに関して、何も行動できなかった自分が悔しく、後悔しています。原爆に耐えた町があった。
 

突然 西海岸です

 新しいものも作っていかなければならない。平安堂梅壺の柿羊羹  にしき堂の生もみじ  やまだ屋の桐葉菓  広島のりのかき醤油味付けのり  寺西の珈琲 頑張ってください。最後は小津監督や山田監督のようになったしまいました。住専処理の中坊公平氏もです。前にnoteに書きました。

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