『書かれた顔』を観て考えた、演じることと越えること
ダニエル・シュミットの『書かれた顔』を観た。
スクリーンの明暗がゆっくりと揺れるあいだ、言葉はほとんど役に立たず、ただ身体の奥で何かが静かにざわめいていた。
坂東玉三郎の姿が現れるたびに、見ているのは人なのか幻なのか、その境が曖昧になる瞬間があった。
ふと、10代の頃に観た『外科室』の記憶が蘇った。泉鏡花の耽美な世界を玉三郎が演出していたあの映画。当時の私は、ただ息を呑んでいた。なぜ心を掴まれるのか説明できなかった。
けれど今回『書かれた顔』を観て、そのときの感覚とどこかが静かにつながった気がする。
物語や演技そのものではなく、“言葉を持たない感情”への共鳴。そう呼ぶのが正しいのかは分からないが、決して互いの想いを言葉にすることを許されなかった二人を見つめていたあのときの感覚。その沈黙の温度が、玉三郎の動きの奥に重なって見えた。
言葉を超えて、眼差しと呼吸だけで世界とつながっていく。その静けさの中に、生と死のあわいを往復するような気配を感じた。
この作品を撮ったダニエル・シュミットはスイス出身の監督だ。彼が見つめる日本には、どこか距離のある優しさがある。外から眺めることでしか掴めない日本という舞台の「型」や「演じる美しさ」への憧れ。
彼はきっとその外側の立場から「日本の女」という存在を通して、人が“他者を生きる”ことそのものを見ようとしていたのではないかと思う。
玉三郎の女形、大野一雄の舞、老いた芸者たちの佇まい。それらはどれも「演じること」の中に生きている。誰かを模倣するのではなく、演じることを通して他者と世界の境界を確かめているように見えた。
今の時代では「誰が誰を演じるのか」という線引きが語られる。男性は男性を、女性は女性を、トランスジェンダーの役はトランスジェンダーが。そうした正しさの声がある一方で、“越えること”への恐れも広がっているように感じる。
けれど玉三郎や大野一雄の身体には、その線引きの外でしか見えない自由があった。彼らは誰かを再現しているのではなく、身体を通して“変わっていくこと”そのものを引き受けている。それは倫理や制度の問題ではなく、もっと素朴な存在の探求に近いように思う。
映画の中で大野一雄が舞う姿を見ていると、老いという時間が透けて見えた。動きの一つひとつが祈りのようで、その奥に始まりと終わりが静かに寄り添っているように感じた。見ているうちに「母」という言葉が浮かんだ。
けれどそれは誰か特定の母ではなく、何かを抱きとめようとする力のようなものだった。外と内、男と女、老いと若さ、あらゆる境界を越えたところで、人が互いに触れ合おうとする瞬間。その気配が、大野の身体を通して静かに立ち上っていた。
彼らが演じる“女性”というのは、もしかすると“母”という存在がモデルなのかもしれない。
それは血縁や役割としての母ではなく、生命を受け入れ、抱きしめ、そして手放す存在としての母。
玉三郎の女形も、大野の舞も、その“包み込む力”の形を探しているように見えた。そこにあるのは性ではなく、受容の身体。世界を抱くようにして立つ“母”という原型がそこに見えた気がした。
ダニエル・シュミットの眼差し、玉三郎の身体、老いた芸者や俳優たちの静けさ。それらが交わる場所には、人が“他者になる”ことでしか辿り着けない自由がある。その自由は、すべてを抱きしめる母のような沈黙の中にあるのかもしれない。
言葉にできないものを抱えながら、それでも誰かに届くように生きる。
この映画を観ていると、表現とは特別な人のものではなく、日々の中で私たち一人ひとりが何かを“演じながら”生きているのだと気づかされる。
職場で、家族の前で、あるいは自分自身の前で。私たちは無意識のうちにいくつもの役を行き来している。その中で、ほんの一瞬でも他者を理解しようとすること、誰かを抱きとめるように言葉を選ぶこと、それが“演じること”なのかもしれない。世界と折り合いをつけながら生きることの美しさと痛みを感じる傑作だった。
ただ、同時に思うのは大野一雄も坂東玉三郎も、演じることを極限まで突き詰めた表現者だということ。その世界は私たちの日常の「演じる」とはまるで違う場所にある。そこには、人生のほとんどを芸術に捧げた人間だけが到達できる領域がある。
けれど、その圧倒的な距離を感じながらも、私たちはそこから小さな光を受け取ることができる。彼らの身体が示すのは、到達点ではなく「向かう方向」だ。その方向を見失わないこと、それだけが私に残された表現なのかもしれない。
大野一雄も、坂東玉三郎も、演じることを通して世界と関わり続けた人たちだ。彼らのように生きることは難しい。
それでも、これから自分がどう世界と関わっていけるのかを静かに考えていた夜だった。
