お小さい人の死
彼女の名前は未来ちゃんと言った。とても小さな女の子で、私は心ひそかに『お小さい人』と呼んでいた。
小太りの中年女である私はある時脳梗塞になった。薄れゆく意識の中、私は「もっと痩せていればこんなことにならなかったのに」とそればかりを考えていた。あんなにダイエットを誓ったのに、それなのに私は未だ小太りのままで、死にかけている!ああ、自分はなんと怠惰で愚かな人間だったのだろうか、と私は思っていた。
未来ちゃんとはリバビリルームで出会った。私は言語障害があったので、言語療法士の先生と一緒に言葉の訓練をしていた。例えば、金魚が描かれたカードを見て「きんぎょ」と言ったりするのだ。これがなかなか難しくて、私は苦労していた。金魚を見ても「きんぎょ」と言えないのだ。
その時、私は言語療法士の先生に言われて割り箸を口に咥えていた。口元の筋力が落ちていて、割り箸は何度も口からポロリと落ちてしまうのだけど、何度かやっているうちに成功した。私はリンゴを咥えた焼き豚のように、口に割り箸を咥えてガッツポーズをしてニンマリ笑った。
「あはは」
可愛らしい声がした。私の顔を見て車いすに乗った女の子が笑っていた。
「あたしも割り箸くわえたい!」車椅子に乗った女の子はそう言いながら笑っているのだった。「あれ、面白そう!あれ、やりたい!」
「こら!」
付き添っているのはお母さんなのかもしれない。お母さんは娘が他人に失礼なことを言っていることに動揺して、なんと言っていいのかわからないようだった。お母さんは女の子を叱りつけた。
間の悪いことは連続して起こるもので、突然私はくしゃみをして、名作漫画『まことちゃん』の主人公のような立派な鼻水が鼻からビヨーンと飛び出した!
「……」
女の子は一瞬真顔になり、それから狂ったように笑い始めた。私も笑った。言語療法士さんが慌てた様子でティッシュを持ってきてくれたけど、私はゲラゲラと笑い続けていた。割り箸を咥えて、鼻を垂らしてた小太りの中年女……私も女の子も笑いのツボが一緒だったらしくて、私たちはヒーヒー言うまで笑い続けた。
それ以来私と未来ちゃんは仲良くなった。
未来ちゃんは小学3年生で頭に大きな脳腫瘍があった。
「悪い病気が私の身長をパクパク食べちゃうの」
「そうなんだ」
「学校も行けないの」
「……」
入学式に出席しただけで、未来ちゃんはその後小学校を全て欠席しているのだった。外に出ることがほとんどないので、未来ちゃんの皮膚は透き通るように白かった。
でも、未来ちゃんはダジャレが大好きで、いちご味のグミが大好きで、コロコロコミックを愛読する生粋の日本の小学生なのであった。お小さい人ではあったけど、未来ちゃんはある種の巨大なエネルギーを持っている人だった。生きることに全力投球している立派な人であった。
未来ちゃんと私は音楽の話題で結ばれていた。
「栄子ちゃん!ねえ、なに聞いてるの?」
「?」
ある日のことだった。私は脳外科の待合室にいた。診察の順番を待っていた時に、車椅子に乗った未来ちゃんが私の肩を叩いた。未来ちゃんはいつもより青白い顔をしていて、ほっぺたはガサガサだった。車椅子を押していたお母さんが私に頭を下げた。
「んーと……ヴィヴァルディって人の『調和の霊感』って曲」
「ほら」お母さんが未来ちゃんに助け舟を出した。「あなた、ヴァイオリンの発表会でヴィヴァルディを弾いたでしょ」
「タ、タタタタ、タンララ、タンララ、タンララ、ランラン、ランランか!」自分が弾いた曲を思い出したのだろう、未来ちゃんが満面の笑みで言った。「あたし、幼稚園の時に弾いた!」
「おお、凄腕のヴァイオリン弾きとお見受けしますな、お嬢さん」
私は芝居がかった口調で言ったけど、幼稚園でヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲を弾くのはかなりの腕前であることを私は知っていた。
「幼稚園であれを弾くのはすごいですね」
私は未来ちゃんのお母さんに言った。お母さんは『ありがとうございます』と言って、悲しそうに笑った。
「ヴァイオリン大好き!栄子ちゃんは?」
「私はピアノの方が好きかな」
正直な気持ちを未来ちゃんに言うと、彼女は不満そうな声を漏らした。待合室は混んでいた。私と未来ちゃんの主治医はハムスターに似たハム君先生でとても良い先生だった。『野間さん』と先に呼ばれたのは私で、私は未来ちゃんとお母さんに手を振って診察室に入った。
私は退院した。
右足を引きずり、言葉の発音も不明瞭で、何よりも私が怖かったのが記憶障害だった。Facebookのタイムラインに出る人たちのほとんどが、私にとっては意味のない記号になった。アルバムをめくってもなにも思い出せない日々が続いた。これはとても怖いことだった。
ともあれ、私は家に戻り、脳梗塞後の人生を歩み始めた。多くの人が私の命を助けてくれた。家族はもちろん、私を病院に運んでくれた救急隊員さんたちのことを私は考えた。私はとても太っているので……みなさん、重たくて大変な思いをされたに違いない。救命医の先生や看護師さん、薬剤師のみなさん……時はコロナ禍で、私はコロナに罹患していた。感染の恐れがあるのに、皆様はペラペラの防護服一枚で私の面倒をみてくれたのである。皆様、ご家族も大事な人もいらっしゃるだろうに。
字も書けなくなった。手が震えるし、第一字が思い出せなくなった。本も読めなくなった。ピアノ?ピアノなんて弾けるはずがなかった。私はピアノの前で呆然と座るだけだった。なに一つ、できなかった。神様は私からいくつ奪えば気が済むのだろう、私はそう考えてため息をついた。
それでも私は生きていた。私は未来ちゃんのことを考えた。あの子のように生きることに全力投球しなくては!と私は思った。できることからやって行こう。携帯電話の操作はできたので、私はTwitterに思ったことを書き始めた。短い文章でもいい、毎日投稿しよう!私はそう心に決めた。文章を綴るのは骨が折れたけど、私は頑張った。読んでくれる人たちもいて、その中には脳梗塞やがんの患者さんもいた。心筋梗塞で死にかけた人もいた。病気と戦っているのは私だけじゃない、ということを私は知った。それはとても大事なことだった。
主治医のハムスターに似ているハム君先生が私に言った。
「野間さんは未来ちゃんと仲良しなんですか?」
「そうですね」私は頷いた。「リハビリでよく一緒になったものですから……一度、屋上庭園でお茶したこともありますよ」
「この前、未来ちゃんが野間さんに会いたいって言っていて。なんかすごい動画があるから見せたいんだって言ってましてね」主治医は言った。「もしお時間があるなら……」
時間ならたっぷりあった。私は未来ちゃんの病室を訪れることにした。7月の半ばのことだった。
「栄子ちゃん、見て!これ、すごいよ!」
久しぶりに見た未来ちゃんの顔は浮腫んでいた。手も足もすごく浮腫んでいて、赤いパジャマの先から出ている手もパンパンに腫れていた。私はなにも気づいていない、大人だけができるずるい笑みを浮かべていた。未来ちゃんの具合が悪いことは一目瞭然だったけど、私はなにも気づいていないふりをした。
「おお!パールマンじゃない!」
お母さんが操作してくれた携帯電話の小さい画面の中で演奏しているのはパールマンで彼はものすごい勢いでハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲を弾いていた。私もこのCDを持っているが、確かにいい演奏である。
「ピアノよりもヴァイオリンがいいでしょ?ねえ、そう思うでしょ」
「うーん」
彼女の病状を考えれば『そうだね、やっぱりヴァイオリンだね』と言うのが良かったのかもしれない。でも、私は音楽愛好家として言わなくてはいけないことがあった。
「じゃあイスラメイで勝負しよう!」
「いすらめい?」
「ピアノ曲の中で難曲って言われている曲だよ。いろんなピアニストが弾いているから聞いてごらん。ハチャトリアンと同じくらいすごいよ」
「えー!」
未来ちゃんはお母さんに携帯電話を操作してくれるように頼んだ。お母さんはイスラメイを検索して私と未来ちゃんは聴き始めた。反田恭平さんのイスラメイの演奏を聴いて、未来ちゃんはちょっと感心したようだった。
「ははは!ピアノは奥が深いのだ!」私は悪の帝王のような声でそんなことを言った。
「……」
「ちなみにハチャトリアンはオイストラフもいいよ」
「おいすとらふ?」
「ロシアのヴァイオリニストだよ。ハチャトリアンのこの曲の初演はオイストラフが演奏したんだよ」
「へー」
子供に自分の知識を伝えるのは気持ちの良いもので、私はオイストラフの豆知識を未来ちゃんに語った。そういえばオイストラフも……小太りで、脳出血か何かで死んだな、と私は思い出していた。
「ヴァイオリンの先生になりたいな」
未来ちゃんが言った。
「元気な頃は練習が嫌いだったけど、今は練習がしたくてたまらない」
「そうだね」
「栄子ちゃんはピアノ練習してる?」
「まだ、弾けないな」
「手のリハビリしなきゃ」
「うん」
「頑張って。ちゃんと毎日やるんだよ」
「うん」
「サボっちゃダメだよ」
「う、うん」
「約束だよ」
「はい」
「約束ね」
「うん……」
お母さんから連絡をいただいたのは猛暑の真っ只中の8月のある日のことだった。一枚のハガキが私の家に届いた。ハガキには几帳面な字が書かれていた。
野間様
工藤未来の母でございます。○月◯日、娘が旅立ちました。最期は家族で見送ることができました。家に連れて帰ることができなかったのが残念でなりません。
野間様には娘が生前、大変お世話になり感謝しております。音楽の話ができてとても嬉しかったと娘ももうしておりました……
お小さい人は逝ってしまった。
私は妙に静かな気持ちで空を見上げた。東京の空は美しく澄んでいて、遠くの方に巨大な入道雲が見えた。この空のどこかで天使とヴァイオリンを弾いているお小さい人の姿が見えるようだった。今頃彼女はオイストラフにヴァイオリンの手解きを受けているだろうし、もしかしたらオイストラフと2台のヴァイオリンのための協奏曲なんかを演奏しているかもしれなかった。
彼女は最後まで勇敢に戦ったに違いない。自分の運命を恨むことなく、果敢に勝負を挑んで正々堂々と戦ったに違いない。お小さい人から学ぶことは多く、その姿は私を奮い立たせてくれた。
「そうだね……今日は練習、さぼらないよ。流石に今日はサボれない」
私は口の中でそんなことを呟いた。明日はわからないし明後日のことはもっとわからないけれど、今日はピアノの練習はサボることはできない気がした。次にあった時に、お小さい人の前で恥ずかしくないように、私はピアノに向かった。相変わらず指は動かなかったけど、それは私が泣いているせいだった。
神様は時として残酷なことをする。
私はそんなことを考えていた。こんな残酷な神の摂理に……私はなんと言えばいいのだろう?私にはわからなかった。
本当に私にはなにも分からないのであった。
