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小説『言って良いこと悪いこと』

  「言っていいこと悪いこと」

              野間 栄子


 真冬の銀座は外国人観光客だらけで、原くんは顔を顰めた。日本に来ている外国人観光客が嫌いなわけではないけれど、これから妻と離婚の話をしに弁護士事務所に向かって歩いている身としては、楽しそうな老若男女の姿を見て、面白くない気持ちになるものである。

原くんはお調子者のあまり深く物事を考えない、愛嬌のある男であった。

そういう男というものは大抵の場合、要領もよいのだった。千葉県貝輪市の公立の高校を出た後、学校推薦で入った東京の私立の名門大学で『麻雀ばかりやっていた』くせに、そんなところが大企業の採用担当のおじさんに気に入られて、高倍率の採用試験をあっさり勝ち抜き、原くんは現在テレビ局の番組編成部で働いている。時代は平成初期、バブルが弾けたとはいえ、名門大学を卒業した若い男の子はそれだけで日の当たる人生を約束されていた。

順風満帆の人生。大学の同級生の妻は税理士で、8歳の女の子もいて、ちょっとした浮気にも事欠かない環境に身を置いている。『勝ち組』という言葉はあまり好きじゃないけれど、原くんは自分が間違いなしに『勝ち組』であることを信じて疑っていなかった。妻が家を出ていくまでは。


弁護士事務所の会議室は意外と広かった。大きなテーブルが置かれていて、原くんの座るところには【JOHANNES BRAHMS】と書かれた小ぶりの彫像が飾られていて、黒々とした重そうなブロンズ像(原くんはジョハネスと名付けた)は虚な目で天井を見上げていた。法律書が納められた本棚を睨みつけていると杉本が入ってきた。

久しぶりにあった同級生は相変わらずイケメンだった。『御幸通り法律事務所』の弁護士である高校の同級生の杉本は、一年生の時に同じクラスで、テニス部に所属し、とにかくモテた男だった。弁護士になった現在も、少し白髪が混じっているけれど、杉本は若々しく清潔感にあふれ、穏やかな物腰と親切そうな雰囲気を漂わせていた。

「杉本……忙しいのに、こんなこと頼んじゃってごめんな」原くんはそんなことを言った。

「まあ、何というか……大変だと思うけど」杉本は言葉を切った。「何とか頑張ろう」

「うん」

「確認するけど……俺が知らない情報はないよな?」

「うん」

「こういう時に……後から実はこんなことがありました……って言われるのが一番まずいんだ。お前のためにならない」

「うん」

「借金とか、DVとかないよな?」

「ない」

「浮気は二回、家事や育児に協力的だったとは言えない……でも生活費は渡していたし、暴力を振るうようなこともなかった。浮気の件は反省している」

「そう」しれっと原くんはそう答えた。

「夫婦としてもう一度、やり直すことを希望している」

「うんうん」原くんは勢いよく頷いた。

「オッケー」杉本は言った。「昨日、メールでやり取りした感じで……今日は特に何かを決めたりすることもないと思う。顔合わせと、条件面での……確認をして、お互いに妥協できるところは妥協するって流れになるんじゃないかな」

「俺、なんで離婚を切り出されたのか分からないんだよ」涙声で原くんは言った。「確かに浮気はしたけど、優香だって最初は笑って許してくれたんだ。それに甘えちゃって……もうしないよ。絶対にしない」

「そうか」

「確かに……仕事が忙しかったから……家のことは優香に任せっきりだったのは認める」

「そうだな」

「あいつも仕事と育児と家事と……まあ、キャパオーバーだったんだろうな。これからはあいつを手伝うよ。職場の方に事情を話して、家庭の方にもう少し、目を向けるようにする」 

事務所の応接室のドアが開いて、女性の秘書が顔を覗かせた。『杉本先生、先方の先生がお見えです』


 久しぶりに会った優香を見て、原くんは『やっぱりこの女と別れるのは惜しい』という気持ちを新たにした。

昔から優香は美人で連れて歩くと周りの男たちが羨ましそうに原くんを見るのだった。優香は頭も良くて、税理士事務所を開いてそこそこ稼いでいたし、娘の教育にも熱心だった。料理は美味いし掃除も洗濯もちゃんとやってくれた。親戚付き合いや近所付き合いもそつがなかった。

「当職の依頼人は『離婚を切り出される理由』について心当たりがない、と申しております。確かに複数回の浮気、家庭生活の維持について協力的ではなかった、ということは認めておりますが、依頼人は自分の非を認め、深く反省しております」

 杉本がそう言ったので、原くんは『うん』と大きく頷いた。

「……娘さんの教育費を含め、生活費等もきちんと渡しており、当職の依頼人は奥様からの離婚の申し立ては一方的であり、納得できないと考えております。したがって、依頼人といたしましては、婚姻の継続を求めておりまして、婚姻を継続するにあたっては、働き方の変更を含めて努力をしていきたい、そう依頼人は考えております」

杉本は話を締め括った。原くんは自分が依頼人でなければ杉本の仕事ぶりに対して立ち上がって拍手をしたいくらいだった。イケメンの弁護士がプロらしく仕事をしていると、実に説得力があるなあ、と原くんは思った。

 対する、優香の弁護士は、冴えない感じのメガネをかけた中年の女だった。化粧っ気もなくて、陰気な感じで、頭も悪そうだった。優香の奴、変な弁護士を連れてきたなあ、と原くんは呑気に考えていた。

「私の依頼人、優香さんですが」女弁護士は言った。「ご主人の原さんに、きちんと理由を述べて、ご自宅を出られて別居をスタートさせております。理由につきましては、原さんの方から杉本先生にご相談、もしくは情報の共有などはございましたでしょうか?」

「……もちろん……」

杉本はチラッと原くんの顔を見た。原くんは人畜無害な顔をしてジョハネスと同じように天井を見上げていた。

「ええと……同じ会社の20代職員さんとの浮気の件、飲食店勤務の30代女性との浮気の件を把握しており、あと家事育児に非協力的だったことを……」

杉本が説明を始めようとしたら、女弁護士はそれを遮って茶色の封筒をまるで手榴弾のように、テーブルの上に投げ捨てた。封筒はドサッと音を立てた。

「こちらをご覧ください」

「!」

 封筒を開けて中身を確認している杉本の顔色がだんだん悪くなった。

封筒の中身は写真の束で、今杉本が手にしているのは原くんが女性にフェラチオをされている破廉恥な写真だった。写真はたくさんあった。女性たちはたくさんいた。二人どころの騒ぎではなかった。写真の中で原くんは王様のように笑っていた。

「こちらは、優香さんと原さんが住んでいたマンションの寝室で撮られた写真です。原さんは複数の女性をご自宅に招いて、その方々と性行為をしておられます」

「……」

「優香さんが寝る、寝具の上です」

「……」

「優香!お前、カメラを仕掛けたのか!」原くんは激昂した。「何やってんだ、お前!」と、言いながら原くんは立ち上がっていつものように優香を殴ろうと拳を振り上げ、そしてそれを止めた。杉本も女弁護士も『信じられない』という顔で原くんを見上げていた。原くんはバツが悪そうな顔をして、拳を下ろした。優香は体の緊張を解いた。

「音声データもございます。ご参考までに」

女弁護士はテーブルの上にICレコーダーを置いた。非情にも女弁護士はそれを再生し、原くんの声が弁護士事務所の会議室に流れた。

『あいつは俺の言いなりだから』

『ひどーい奥さんのこと、そんな風に思ってるの?』

『思ってるだけじゃないよ。俺、あいつにそう言ってるもん』

『ドン引きー』

『最初が肝心なんだよ。自分の立場を分からせるんだ。いくら学歴があっても所詮女なんて子供を産む機械じゃん。機械が意思を持つなんてありえないだろうが。まあ、女は産む機械別名「喋るまんこ」だけどな、まんこのお喋りは拳で黙らせるんだよ』

あはは……と原くんの笑う声が聞こえた。女はちょっと笑えないようで、女のため息が録音されていた。

『こういう男とは結婚しない方がいいね』

『こういう男とこんなことしてるくせに』

……その後、うふんあはんという聞くに耐えない音声が続いたので、女弁護士はICレコーダーを止めた。

「この録音にありますように『拳で黙らせる』ことも多々ございまして、直近の3回の原さんから優香さんに対する殴打に関しましては医師からの診断書等の書面もご用意いたしております」

「……」

「録音につきましても、まあ……このように、原さんが優香さんを侮辱し貶める音声は他にも複数録音されています。こちらも今回のケースの資料として提示することができます。」

「……」

「また、こちらをご覧ください」

 まだあるのか、というように杉本がこめかみを抑えたのが原くんの方からも見えた。女弁護士はさらなる写真を取り出した。こちらには白いトートバックの中に手をツッコミ何かを探す老婆の姿が写っている。

「この女性は原さんのお母様で間違い無いですね?」

女弁護士が原くんに確認をとった。原くんは仏頂面で頷いた。

「写真を見るとわかるんですけれど、原さんのお母様は優香さんのカバンからお財布を抜き出して、お札を取り出し、それをご自分のポケットに入れています」

「……」

「他にも寝室に置いてあったアクセサリー、指輪1点とネックレス2点が原さんのお母様によって持ち出されていることがカメラの映像から確認できます。映像にはありませんが、優香さんのバッグ、コート、優香さんのお母様の形見のお着物なども、原さんのお母様に『持っていかれた』そうですが、ご返却の方はまだである、とのことです」

「……」

「私の依頼人、優香さんは配偶者である原さんの性依存ともとれるような不貞行為の数々、原さんのお母様の盗癖、さらに原さんからの身体的、精神的な暴力について……もはや甘受できず、さらにお子様への教育的な影響を懸念し、離婚を希望しております」

女弁護士はそう言って話を締め括った。


「……ここからの挽回は相当……相当厳しいものになる」

「……う、うん」

「お前の行動によっては、結婚生活を続けるどころか逮捕されてもおかしくない」

「逮捕?なんで?」

「お前、奥さんを殴ろうとしただろうが!」杉本は悲鳴をあげた。「次は相手の弁護士だってお前を通報する、って言ってたろ。そして俺は相手の弁護士を止めることは出来ない」

「通報?なんで?」

「分からないのか?原くん!お前、女を殴ろうとしたんだぞ!」

「殴ってないよ」

「殴るふりだって犯罪なんだよ!」

「へー」

「お前……」

 杉本はネクタイを緩めながら、力無く椅子に座り込んだ。優香と女弁護士は帰った後で、会議室には杉本と原くんだけが残されていた。ジョハネスも気の毒そうに天井を見上げていた。会議室のテーブルには女弁護士が置いていった写真や録音の音声を収めたデータが茶封筒に入れられて鎮座していた。

「お前は……本当に、心から……心から奥さんとの結婚生活を続けたいと思っているのか?」杉本が尋ねた。

「うん」原くんは元気よく答えた。「優香は美人だし、稼ぎもいいし、子供の母親だし」

「奥さんを愛してるのか?」

「俺、先月までに週に一回は優香を抱いてたよ。あれだって活用できるうちは活用しないと勿体無いからね」

「……あのな、あのな……俺の質問は」杉本は5歳の子供に説明するように、ゆっくりとした口調で原くんに言った。「お前が奥さんと一緒の家で食事をしたり子供を育てたり、一緒に年を取りたいのか、ということだよ。セックスの話はひとまずおいといて、お前は奥さんとやり直したいのか?」

「え?うーん……」原くんはちょっとの間、悩んで言った。「離婚なんて面倒じゃん。慰謝料払うのも勿体無いし」

「……」

杉本はしばらくジョハネス同様、天井を眺めていた。これほどまで、仕事中に強い物を飲みたい気分になったことはなかった。しかし杉本もプロの弁護士である。やがて、杉本は考えをまとめて、それを依頼人に伝えた。

「原くん……不貞行為というのは、離婚の理由として認められているんだよ」

「まあね。でも、男なんてみんなそうだろ?」

「あのね、不貞行為は離婚の理由になるって法律にもちゃんと書いてある。慰謝料を相手に払う必要がある。男だろうが女だろうが、結婚している間に、配偶者以外の人間とセックスするのは……」

「別に逮捕されるわけじゃないだろう?」

「逮捕はされなくても、離婚の理由にはなる」辛抱強く杉本は言った。

「そうなんだ」

「あと、奥さんを侮辱したら、名誉毀損になる。これも離婚の理由になる」

「ふーん」

「原くんのお母さんが奥さんのお金やアクセサリーを盗んだり持ち出したら、場合によっては奥さんがお母さんを訴えることもできる」

「そんなことさせないよ」

「させる、させないという言葉は使えない」杉本は我慢強く話を続けた。「訴えるかどうかは原くんが決めることじゃない。決めるのは奥さんだよ」

「……」

「奥さんはお前と同じ権利を持ってるんだよ。嫌なことは嫌だって言う権利、暴力を振るわれない権利、ものを盗まれない権利……それはお前と同じなんだよ」

「そうなの?」

「そうだよ!」杉本は言った。「お前が『別れたくない』って言えるのと同様、奥さんは『別れたい』って言えるんだ。だから、お前はここにいるんだろ?」

「……」

「奥さんを言いくるめたり、騙したり、暴力で捩じ伏せたりは……もはやできない。まあ、もともとできないんだけどね。お前は奥さんの言い分を聞いて、悪かったところは反省して、改善できるところは改善して……」

「そんなの俺が優香よりも下って認めるようなものじゃないか!」

「なんで、上とか下とかの話になるんだよ!」


 もちろん、原くんだって大学教育を受けた立派な社会人である。杉本の言うことはちゃんと理解していた。ただ、8年間の結婚生活は原くんの感覚を完全に麻痺させていたのであった。

 原くんと優香は大学のロシア語のクラスで席が隣だったことから仲良くなり、やがて交際するようになった。

 優香は美人だった。原くんはこんな美人と付き合える自分はすごいんだ、と思った。優香は美人なだけじゃなくて、頭も良かった。在学中に税理士の科目試験に合格して、抜群の成績で卒業した。そんなところはちょっとだけ原くんのプライドを傷つけた。彼女が自分よりも優秀ってのはあまり、気分のいいものではなかった。

 でも、原くんはテレビ局に就職し、三流だけどそこそこ名前の知られている女優とか、モデルとか、盛りを過ぎたタレントとか、そんな遊び相手には事欠かなくなった。

「もう別れる」

 三流だけどそこそこ名前の知られた女優との逢瀬を写真週刊誌に撮られた時、優香は原くんに言った。優香は泣いていて、その弱々しい姿が原くんのプライドを大いに満足させた。まあ、美人で税理士をやっていると言っても所詮、一般の女である。女優に負けて悔しがってるんだな、と原くんは思って愉快な気持ちになった。

「まあ、相手も俺も遊びだから」

「遊び?そんなのはどうでもいいから」優香は言った。「私はあなたともう付き合えない」

「なんで?」

「浮気するような人は好きじゃない」

「俺はお前が一番好きだよ」

「私は好きじゃない。浮気をするなんて……」

「もうしないよ」

「信じられない」

「信じてよ」

「私は、あなたと別れると言ってるの」

「俺はお前が一番好きだし。愛してる」

「原くん?私の言ってること、わかってる?」

「もちろん、分かってるさ」機嫌よく原くんは言った。「俺はお前が一番だよ」

「……」

 優香は呆然と原くんを見つめていた。原くんはニコニコと優香を見返して笑った。

「もう浮気はしない」

「だから、私は……」

「優香のことを愛してるんだよ、俺は」

「……」

 そして原くんはどこまでも強運だった。優香が妊娠したのである。原くんは大喜びだった。これで優香は俺から逃げられない、と原くんはガッツポーズをした。腹に子供がいるんだろう?子供には父親が必要だし、優香はこれで俺と別れることはできない。


 二度目の話し合いも惨憺たるものだった。

 原くんは不思議に思った。優香が我慢すれば、全てが丸く収まるのになぜ、優香は我慢しないのだろう?妻として、母としての自覚が足りないのではないか……原くんはそう言った。

「自覚?奥さんは自覚とか、我慢とか……する必要は全くありませんから」相手の弁護士は冷ややかに言った。「なんで、奥さんがあなたの不貞行為を我慢する必要があるんです?あなたのお母様がお金を盗んだり、大切にしているお洋服を盗まれたりするのを優香さんが我慢する必要があるんですか?あなたからの暴力を我慢しなければならないんですか?」

 ああ、こいつはフェミだ!原くんは思った。全部男が悪い、と決めつけてるんだ。この女弁護士は結婚してるのか?どうせ、誰にも相手にされない干物女だろ?そんな女に男女の何がわかると言うのか?

「先生はご結婚なさってるんですか?」

原くんは挑発するように女弁護士に聞いた。女弁護士の目が泳いだような気がしたので、原くんはさらに畳み掛けた。

「結婚っていうのは」原くんは得意げに言った。「フェミニストさんが思うように、完全な男女平等の結婚なんて実現しないんですよ。先生、どうせ家具を組み立てたり、重いものを持ったり、電球を取り替えたり……そんなこと男に押し付けてるんじゃないですか?それと一緒ですよ。完全な平等なんてあり得ません」

「そうですね」女弁護士は言った。

「でしょう?」女弁護士が同意したので、原くんは嬉しくなった。

「不貞とか、暴力とか、全然平等であるとは言えませんからね、原さんのケースは特に」女弁護士は面白い冗談を言うようにそんなことを言った。原くんはムッとした。

「……」

「これ以上、お話し合いをしても……お互い時間の無駄だと思われます」女弁護士は杉本に言った。

「当職も……同意いたします」

「公式に調停をして……調停の結果次第ですが……裁判を……」

「はい」

「おい!」原くんが優香に向かって叫んだ。「なんで、お前黙ってるんだよ!」

「……」

「こういう大事な話は夫婦でちゃんと話すべきだろ?二人きりで!他人抜きで!俺はお前のそういう小狡いところが許せないんだよ!」     

杉本が『落ち着け』と原くんに言ったけれど、原くんに耳には杉本の言葉は全く届いていなかった。

「……」優香はただ、ため息をつくだけだった。

「なんで離婚なんだ?今までお前、そんなそぶり、全然見せなかっただろうが!なんで急に離婚なんだよ」

「……」

「おい!」

「あなた……」優香は言った。「私は何度もあなたに離婚したい、って言ったわよ」

「そんなの聞いてない」

「あなたが聞かなかっただけでしょ」

「じゃあ理由はなんだ?男か?男ができたんだろ?!お前、男が出来たのか?」

「あなたと一緒にしないでよ」疲れ切った口調で優香は言った。

「じゃあなんで……」

「……真理の誕生日に、あなたが真理に言ったことがきっかけだよ」ゆっくりと優香は言った。

「何それ?」原くんは首を傾げた。「俺、真理に何か言ったか?」

「あなたは8歳の誕生日を迎えた娘に『お母さんはお前を殺そうとした』って言った」

「そんなこと言ったか?」

「あなたは真理に『お母さんはお前を中絶しようとしたけど、産婦人科の前で気が変わって、お前を産んだんだよ』って言ったじゃない」

「それ?それだけ?」原くんは言った。「そんなの、単なる冗談じゃないか」

「だから私はあなたが嫌いなのよ」優香は言った。

「ねえ、世の中には言っていいことと悪いことがあるの。それがわからない人とは一緒に生きていけないの」

「……」

「……単なる冗談って言ってしまえるあなたが嫌いなの。私が傷ついても『単なる浮気だから忘れろ』って言う。私が嫌がっても『俺は嫌じゃない』って言う。私が痛いと言っても『それはお前が悪い、お前が俺を怒らせたからだ』……」

「だからなんだよ?」

「同じことをあなたは娘にしようとしているの。分からない?真理がどんなに傷ついても『冗談だ』『俺は面白いと思う』『傷つくのはお前が悪い』って言う……私にしたように、真理を傷つける」

「……」

「なんであなたに傷つけられて、軽く流されて、それで納得しなきゃいけないの?私が欲しいのは言い訳じゃない、謝罪の言葉と反省と、あなたの行動が変わることだよ」

「じゃあそうするよ」原くんは言った。「謝罪もするし、反省もするし、行動も変える。それでいいんだろ?お前はそれで満足するんだろ?」

「自宅の寝室に女の人を連れ込む人の言葉は信用出来ない」

「それは……」原くんは言葉に詰まった。それを見て、優香はせせら笑った。

「いつもみたいに私を殴ればいいじゃない」優香は笑いながら言った。「あなたは悪いことをしても、悪いことをしてる自覚がない無神経な馬鹿で、私とその問題を話し合うことも出来ないノータリンで、謝罪をする気持ちもやる気もない、自分に勝ち目がなくなるとすぐに手が出る暴力男じゃん。だから離婚したいの」

「なんだと!」

「もう、あなたにはうんざり」優香は言った。「口だけは達者で、やることは最低、都合が悪くなると殴る……もううんざり!」

「……なんだと!」

「弁護士さんたちがいるから、暴力をふるえない臆病な男でさ、ホテル代がもったいないから、自宅に女を連れ込むケチな男でさ、母親は泥棒じゃん」

「なんだと!」

「そんな男とこれからも一緒にいたいとは思わない……」

「原くん!やめろ!」

 原くんはカッとなった。

 テーブルの上にはジョハネスがいた。原くんはジョハネスを引っ掴んで優香に殴りかかった。女弁護士と優香は悲鳴をあげて逃げ出した。ほら、この通り!結局、女ってのは腕力では勝てないんだから大人しく男のいうことをきいていれば良いんだ!大人しく!原くんはそんなことを考えていた。原くんはジョハネスを優香の頭に叩きつけるつもりで振り上げて、それを……

「ゴン!」

「キャァ!」

悲鳴が上がった。ジョハネスは杉本の顎に当たり、杉本が変な姿勢で崩れ落ちるのを原くんはみた。どうやら、杉本は優香を庇ったようである。原くんは『やばい』と思った。杉本を殴る気はなかったのに。

「ごめん!ごめん!杉本!」

「……」

 杉本の顎がみるみるうちに腫れ上がるのを見ながら、原くんは言った。原くんが震える手で携帯電話を取り出し、救急車を呼んでいる時、女弁護士か優香か事務所の事務員か……誰かわからないけれど、警察を呼んだのだろう、屈強な警察官が二人、原くんを逮捕するためにやってきた。原くんの手には手錠がかけられて、呆然としている原くんに警察官は『署までご同行いただきます』と言った。原くんは警察官に従うしかなかった。


「杉本!」

「ゴリラ、久しぶり!」

と、言いたかったけれど、杉本の顎は包帯で固定されていて、上手く喋ることができなかった。杉本はジェスチャーで『座れよ』というように椅子を指差した。ゴリラは椅子に座った。椅子はゴリラの体重を受け止めて『ミシッ』という嫌な音をたてた。

「具合はどうだ?災難だったな。これ、飲むヨーグルトなんだけど……まだ固形食は食べられないと思ってさ」

『ありがとう』

「冷蔵庫に入れとくよ」

『うん』

「顎の骨折だけ?脳は大丈夫?」

『大丈夫』

「歯の噛み合わせは問題ない?目の見え方とか……気になることがあるならドクターにすぐに言ったほうがいい」

『うん』

「この病院なら……大丈夫だから。よかったなあ、銀座で殴られて」

 杉本は笑った。ゴリラもホッとしたように笑った。二人は拘置所にいる原くんのことには触れないように、お互いの近況を話した。

「俺のところでしばらく居候していた奴がさ、なんと!俺らの高校の同級生の弟だったんだよ」

『へえ』

「そいつ、今〇〇っていう国の首都のバレエ団で舞台監督の助手みたいなことをやってるんだけどさ」

『バレエ?』

「うん」ゴリラは言った。「高校の一年の時の一ノ瀬さんって覚えてる?一ノ瀬茜……杉本と仲良かったよな?」

『……』

「一ノ瀬さんから『弟がキャビアを送ってきたから、ゴリラ君にお裾分けしたい』って連絡が来てね……嘘だろ!青くんのお姉さんって一ノ瀬さんだったんだ!ってびっくりしたんだよ」

『……』

「一ノ瀬さんは……美大に行って、今画家なんだって。絵本の挿絵とか描いてるんだって」

『……』

 知ってる……杉本は思った。

なんならタマちゃんが描いた絵本とか小説の挿絵とか、雑誌のインタビューとかは全部、持っていた。絶対に会うことはないけれど、彼女のことは忘れたことがなかった。

「一ノ瀬さん、何年か前に癌をやったみたいだけど……俺らの年齢もそういう歳になったんだよな、って思った」ゴリラは心配そうに言った。「寛解してるよ、とは言ってたけど……あまり元気そうに見えなくてね」

『……』


 病院を退院して、杉本は自宅に戻った。10年以上前に妻とは離婚していて、それ以来杉本は一人でこの家に暮らしている。

 不意打ちのように、初恋の女の子の話を聞いて、杉本はふんわりした優しい気持ちになっていた。ギブスを顎に巻いて、不自由な体ではあったけど、杉本は口笛を吹きたいような、そんな気分だった。まあ、口笛なんて吹いたら、折れた顎が痛いに決まっているけれど。

 会うつもりは無い。

 でも、もし……もし何かの偶然が重なって、タマちゃんと会うことが出来たなら、俺は胸を張って彼女の前に立つことができるだろうか?自分の生き様を……彼女は面白がってくれるだろうか?

 ベランダに出ると、月がとても綺麗だった。杉本は思った。タマちゃんに会わなかったら、俺は多分、原くんのようになっていたのかもしれない……自分の考えを押し付けて、責任も取らず、言い訳をして、暴力を振るっていたのかもしれない……相手が一人の人間であることを忘れて……自分の衝動をぶつけて……平気だったのかもしれない。

『あなたと一緒だと、私は自分のキャリアを築けない』別れた妻はそう言った。『あなたはとてもいい人だけど、私はあなたよりも自分が大切なの。自分が一番大切なの』

 タマちゃん、あのね……君の言う通り、俺は頑張って、愛する人を大切にしてきたんだけどね……愛する人は俺よりもキャリアを取っちゃってね……結局、俺は一人なんだよ。別にタマちゃんのせいじゃ無いけどさ、笑っちゃうね……

 傷が痛んだ。杉本は痛み止めを飲もうと、月に背中を向けて、そして温かい部屋の中へ戻っていった。

〈了〉



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