「俺が買うたる」この世界は、酸素がひどく薄い【空蝉は鱗を抱いて】短編 一万字強
「空蝉は鱗を抱いて」あらすじ
初凪は夜の海で「甲斐さんちのドラ息子」と出会う。
見た目はヤンキー、方言バイリンガルの彼は意外にもやさしく、なぜか初凪を気に掛ける。
しかし初凪の秘密を知られてしまい――。
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『今までありがとう! 堂々、引退!』
レンタルショップの壁に、ついさっき貼られたばかりの大きなポスター。引退の文字とそこに写る女性の顔を交互に見る私に、バイト仲間は不思議そうに訊ねた。
「草壁ちゃん、こういうの興味あるの? なんか意外。最近はこの業界からタレントみたいになるケースもよくあるし、女の子だって興味ある人もいるだろうけど……って、ごめん。俺、きもいこと言っちゃったかな? まじでごめん!」
いつもてきぱきと仕事をこなし、新人アルバイトとして入ってきた私の面倒をよく見てくれる彼は、きっちりと両手を合わせて頭を下げた。その様子に私は軽く笑い、首を横に振った。
それでも彼が「まじごめん、ほんとごめん」と繰り返し謝るので、「じゃあ今日のゴミ捨て、かわりにやってくれませんか?」と冗談半分で持ち掛けてみると、彼は「おう、まかせろ!」と軽い足取りでバックヤードに向かった。
私はゆっくりとポスターに向き直り、指先でそっと撫でた。
よかった、戻ってこられて――。
鼓膜の奥で、波音がよみがえる。あの夏の夜の中、お兄さんと私は、さ迷っていた。どこまでも続く深すぎる青は、ほとんど黒に近かった。
「すみませーん、お願いしまーす」
女性客に呼ばれ、私はレジへ向かった。DVDを差し出す彼女の爪は、人魚の鱗のようにきらきらとゆらめいていた。
カラコロ、カラコロ――アスファルトを駆ける、乾いた下駄。
その男は、夏音を連れてやってきた。
「ここでなにしてるん」
月に照らされた彼の髪は、月よりも明るく、星よりも輝いていた。深い夜とのコントラストに目が眩み、言葉を忘れる。
砂浜へ続く階段に座っていた私は彼を見上げたまま、微動だにしなかった。目の前に広がる海だけが、呼吸するように波音を立てる。
「なにしてるのか、って訊いてるんやけど」
彼は少し苛立つように言った。慣れない言葉遣いに、寄せられた眉間の皺。私は金魚のように口をぱくぱくさせながら答えた。
「う、海を……。海を、見てました」
「真っ暗やん」
「あ、はい……。でも、あの、見えなくはないですし……」
しどろもどろに言うと、彼は軽く海を一瞥してから、すぐに私に視線を戻した。ぼんやりとして、だけどどこか、ささくれた鋭い瞳。
「ふうん……。このへん、変な奴もおるから気いつけて」
彼の雰囲気に気圧されて曖昧に頷くと、極彩色のシャツから出たたくましい腕が、とつぜん私に向かってのばされた。
びくりと身体を縮め、ぎゅっと目を瞑る。
だけどなにも起こらず、そろそろと瞼を開くと、目の前には透明のターコイズブルー。ちいさな泡たちは、しゅわしゅわと気ままに泳ぐ。
「これあげるから、はよ帰り」
躊躇いはあったものの、私はなすがままにそのラムネ瓶を受け取った。指先でなぞった凹凸に、懐かしさを覚える。
「えっと、ありがとうございます」
「うん」
相槌だけ打つと、彼はすぐにその場を離れていった。暗がりに向かっていく広い背中は、いまにも消えてしまいそうなくらいに脆かった。
「ニーナちゃん、今夜はなに食べたい? おばさん、張り切っちゃうからなんでも言ってね。そのぶん、昼間はいっぱい働いてもらうけど」
豪快な笑顔で言った伯母に、私も笑顔で答える。
「ばりばり働くよ。ご飯、おかわりしてもいい?」
「もちろん。いっぱい食べてね」
食卓には焼き魚と玉子焼きに、ほうれん草のお浸し。普段の私の食事よりもずっと豪華で、ついついごはんが進む。とくにこのところは、ひもじい食事続きだった。東京を離れる前に空っぽにしなきゃと思っていた冷蔵庫は、意識せずとも空っぽだった。
「どおぞー」
伯母のむっちりと日焼けした腕が、お茶碗を差し出す。こんもり盛られたごはんは雪山のようで苦笑してしまう。
軽やかに鳴る、風鈴の音。ひぐらしは競うように鳴く。
「ニーナちゃんが来てくれて、本当に助かったわ。和子ったら、ぎっくり腰だなんてねえ」
「ね。私もびっくりした」
母の姉である伯母は、数か月前に離婚した。原因は伯父の不倫だった。長年住んでいたこの一軒家は取り壊し、土地を売りに出すらしい。私は母の代打として、伯母の引っ越しを手伝いにやってきた。
窓の向こうに目を向ければ、どこまでも広がる真っ青な海と、深い潮の香り。向かいの家の庭では、大きな向日葵が太陽に向かってピンと背伸びしている。
ここへ来たのは何年ぶりだろう。昔と変わらず、のんびりとした空気が街ぜんたいを包んで、時間を止めているようだ。
「ところで、東京の大学はどう? ちゃんとひとり暮らしできてるの?」
伯母が身を乗り出して訊いた。
「うん、なんとか。もう四か月経ったし、さすがに慣れてきたよ」
「でもちょっと、痩せすぎじゃない? ちゃんと食べてるの?」
「食べてる食べてる! 心配しすぎだよ」
まさか冷蔵庫が空っぽとは言えず、私はガッツポーズをつくる。
「ところで、ニーナちゃんは彼氏とかいるの?」
「いないよ」
「あら。和子には黙ってるから教えなさいよ」
「やだなあ。本当にいないよ」
「まったく。ニーナちゃんも佳祐も奥手ねえ」
「佳祐くん、元気?」
「たぶんね。あの子、ろくに連絡よこさないから。まったくもう」
従兄の佳祐くんは就職と同時にここを出て、一人暮らしをしている。伯母さんが引っ越しの手伝いを頼んでも、「繁忙期だから今は無理」の一点張りだったらしい。
正直なところ、私は伯母とふたりきりで会うのがこわかった。
離婚のショックで痩せ衰えていたらどうしよう。どんな言葉をかけたらいいだろう――あれこれ悩みながら、重い足取りでここへ来た。
だけど伯母は昔となにも変わらない笑顔で、「あらあ、ニーナちゃんったらきれいになっちゃってえ!」とお決まりの台詞と力強いハグで私を迎えた。
変わったのは、いつも左の薬指でささやかにひかっていた銀色のリングが、白い日焼け痕になっていたことだけだった。
「ニーナちゃん、麦茶飲む?」
「私が入れるよ。伯母さんも飲むでしょ」
畳から立ち上がって板の間を歩くと、足の裏にぺたぺたと夏の感触がした。水切りかごに並ぶ花柄のグラスも麦茶のガラスポットも、ちいさい頃から変わっていない。
伯母は麦茶をひとくち飲むと
「最近、このへんに変な人が出るみたいだから、ニーナちゃんも気をつけてね」
と言った。
「変な人……」
ふと、昨夜を思い起こす。
さすがに知らない人からもらったものに口をつけるのは……と思い、もらったラムネにはまだ口をつけていない。
あのもの悲しい背中は、どこへ帰っていったのだろう。
「ねえ。このへんで金髪で下駄を履いてる男の人って、伯母さんは知ってる? 関西弁、なのかな。どこかの方言でしゃべってたんだけど」
そう言うと、伯母はとつぜん眉根をぎゅっと寄せ、不快を露わにした。
「ニーナちゃん、その人にどこで会ったの?」
「ああ、えっと、昨日ここに着く前にコンビニで見かけて」
深夜に出歩いたことを知られるのはよくないだろうと思い、咄嗟に嘘をついた。広がっていく淡い罪悪感。足の裏に熱がこもる。
伯母は大きくため息をつくと、肩を落とした。
「甲斐さんちのドラ息子よ」
「ドラ息子?」
「そう、甲斐さんちのドラ息子。東京でお笑い芸人になるって息巻いて家を飛び出して、けっきょくこっちに戻ってきて、親のすねをかじって……。ようするに根無し草ね」
ドラ息子。根無し草。元芸人。
なんだかあやしい単語しか並んでないな、と思っていると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。伯母さんから見えないように、テーブルの下でそっと画面をタップする。
『会ったばっかりなのに、もう新菜ちゃんに会いたいよ。夜、電話するね!』
八の字の眉の下で、大きな瞳をうるうるさせる絵文字の並んだメッセージ。真一くんのスマホは、いつだって私を『新菜』と呼ぶ。
私は冷蔵庫からラムネを取り出し、口元のフィルムを剥がした。
おもちゃみたいなピンク色をした玉押しをぐっと押し込むと、ビー玉は一瞬で落下し、立ち昇ってくる細かな泡を押さえる右手は、鈍く痺れた。
「なんでまたいるん」
昨日と同じ時間に海へ行くと、甲斐さんちのドラ息子は昨日と同じようにやって来た。
今日もまた、けばけばしい柄のシャツを着ている。ぱっと見た感じは、芸人というよりヤンキーだ。だけど彼のシャツを泳ぐ紫の蝶たちは、のびのびと気持ちよさそうで……。
「おまえ、あほか。昨日言うたやろ。変な奴がおるって」
「おまえ……」
つい小声で漏らすと、
「悪い。名前、知らんから」
彼はさっぱりと謝罪した。『お前』にも『あほ』にも、悪意はなさそうだ。
「ニイナです。草壁ニイナ」
「ニイナ……って、どんな字?」
「初めての凪、で初凪です」
「へえ。元日生まれか。めでたいな」
「え」
「違う? 初凪って、元日の海が凪いでることやろ」
はじめてだった。名前の由来を言い当てられたのは。
「で、なんでこんな時間に海に来よるん。昼間のほうがよく見えるやろ」
「……なんか、波の音が聞きたくなって」
真一くんとの電話は、短いものだった。
電話の向こうから聞こえてくる喧噪。昼よりも夜に輝く街が、真一くんの夢の舞台。
――夢が叶うときには、やっぱりニーナちゃんに隣にいて欲しいな。俺、まじでこの仕事にプライド持ってるし、もっと成功して、伝説つくりたいんだ。だからさ、応援してほしいな、俺のこと。誰よりも一番そばで、ニーナちゃんに支えて欲しい。
いつからだろう。真一くんの口から紡がれた言葉たちが真綿になり、私の首をおだやかに絞めるようになったのは。
苦しい――だけど、このロープが切れてしまったら、私はいよいよ消えてしまう。
「そういうもんか。俺なんかいつも聞いとるから、わざわざ波の音聞きたいとか思わへんわ。ざるの上で転がされとる小豆の音と同じやん」
そう言って彼は私の隣に座った。手にしたラムネ瓶を、今日も差し出される。
「いいんですか。今日ももらっちゃって」
「うん。俺はもう飲んだから」
「二本も持ち歩いてるんですか。ラムネ、好きなんですね」
「いると思ったから」
彼は自分の空になったラムネ瓶をカラカラと鳴らして言った。その言葉の意味がわからず、私は首を傾げる。
「いると思ったから、ニーナが」
そう言った彼の視線は、暗幕のように寄せては引く海に向けられていて、その冷めた表情からも抑揚のない話し方からも、感情が見えなかった。
ドラ息子のわりに、面倒見がいいのだろうか。
私は調子にのって訊ねる。
「お兄さんの名前はなんですか」
「お兄さん?」
彼の目が途端に丸くなり、こちらに向けられる。あまりにも真っ直ぐな眼差しは、そのまま胸に刺さった。
「えっと、なんて呼んだらいいか、わからなかったので」
慌てて言うと、彼の表情は、ふっとほどけた。やわらかな笑み。だけどそれは一瞬で消され、彼はまた表情なく、視線を海に戻した。
「教えてやらん」
「え?」
「お兄さんなんて、はじめて呼ばれたわ」
彼の声色が、わずかに笑う。
「ほんで、ニーナはどこの人? このへんじゃないやろ」
「東京です。もともと茨城に住んでたんですけど、大学進学で東京に」
「こっちには親戚でもおるん?」
「はい。伯母の引っ越しの手伝いに来たんです。お兄さんはどこの出身ですか」
「ない」
彼はきっぱりと迷いなく言った。
「どこも故郷や思われへん。うちの母親しょっちゅう男変えよるから、ガキの頃からあちこち住んどったんや。せやから、方言のマルチリンガルになってん」
聞き流せないような話を、彼はすらすら告げた。これまでなんども同じことを人に説明してきたのだろう。
「そうなんですか……。東京にも住んでたんですよね?」
「それ、伯母さんから聞いたん?」
「あ……」
話を繋げることに必死で、そこまで考えずに訊いてしまった。人づてに自分の話をされて、いい気分はしないだろう。浅はかな自分が嫌になる。
「どうせ悪い話ばっか聞いたやろ。ドラ息子とか穀潰しとか、クソとかカスとか。……ええん? 俺なんかと話してて。伯母さんに怒られるんとちゃう?」
淡々としているものの、ほとんど断定した言い方だった。そんな話は聞いていない、と嘘をついたところで、きっと彼には見抜かれるのだろう。
「でも、黙ってればバレないし。それに……」
それに――彼から漂う気配は、どこか破滅的だった。
干からびてしまった蝉の抜け殻のように、空虚で脆い。いとも容易く、くしゃりと手のひらで散り散りになってしまいそうな、そんな危うさが彼を覆っていた。
「それに、なに?」
「それに……ラムネをくれたから。悪い人じゃないかな、と思って」
「あほ。警戒心ゆるすぎやろ」
彼はすっくと立ち上がった。被さってくる彼の影は大きく、私の躰はやわらかな薄闇にのまれた。
「伯母さんち、どこ」
「え……」
「送ってったるわ」
「ニーナちゃん。この絵本、覚えてる?」
「わ、覚えてる! これ、ちいさい頃によく読んだなあ。伯母さんちにあったんだ」
お昼ご飯を食べたあと、伯母と私は押入れの片づけをした。布団や枕、たくさんのアルバムに古びた冊子。かすかなカビの匂い。
エアコンのついていない和室は扇風機を『強』にしても汗は絶えず、ふつふつとわき上がってくる。絵本に汗を垂らさないよう、タオルで額や前髪の汗を拭ってから、ぱらぱらとめくった。指先に懐かしいぬくもり。色褪せてはいるものの、じゅうぶん読める状態だった。
「これ、持って帰ってもいい?」
「もちろん。ニーナちゃんの絵本なんだから。ずっと気がつかないで押し入れにしまいっぱなしだなんて、悪いことしちゃったわね」
苦笑する伯母の目尻の皺を眺めながら、私は昨夜のお兄さんの言葉を思い出した。
――ニーナの伯母さん、大丈夫?
家の前まで私を送った彼は、とつぜんそう言った。
なんのことですか? と訊くと、彼はそっと睫毛を伏せた。
――ここんところ、庭が荒れてるから。今までは、そんなんなかったのに。
ラムネ瓶の中でカランと鳴ったビー玉の音は闇に吸い込まれ、彼もまた、吸い込まれるように去っていった。
根無し草は水面でゆらゆら揺れながらも、そこから見える景色をしっかりと捉えていた。
「伯母さん」
呼びかけると、伯母は「なあに?」と軽く首を傾げた。
畳に積み重なったアルバムが、伯母と伯父の歩んできた歳月を物語る。この広い一軒家にひとり、伯母はどんな思いで過ごしてきたのだろう。
「引っ越しが落ち着いたら、たまには東京に遊びに来てよ。ほら、なんだっけ、伯母さんの推しのアイドルグループ。東京公演とかあったら、うちに泊まりに来なよ」
「えー……。そんな、コンサートだなんて。この年齢で……」
伯母は困ったように眉を下げる。
「大丈夫だよ。きっと伯母さんくらいの年齢の人だっているよ。私が一緒に行ってもいいし。ペンライト、振ってみたかったんだよね。そうだ、おすすめの曲とか教えてよ」
ね? と後押しすると、困り眉の下の頬が、ふっくらとばら色に染まった。
「そうね……。たまには、行ってみようかしら」
「うん。いつでも来て」
伯母がほほ笑み、私もほほ笑んだ。窓からは、ぬるい風がゆるりと吹き抜けた。
下駄の音は、お兄さんの音。耳を澄ませばすぐにわかる。
「また小豆の音、聞きに来たん?」
頭の上から降ってきた声に、小豆じゃないですよ、と笑って返す。
今日の彼のシャツは大胆な虎柄で、電車で隣に座られたら緊張してしまうような風貌だった。だけど私は彼がこうして隣に座ることに抵抗はなく、むしろがちがちに固まっていた身体は、じんわりとほぐれていった。
『お金、月末までにどうにかなりそう?』
真一くんからのメッセージが眼裏に焼きついて離れない。
どうにもならない。なるわけない――なんて正直に伝えたら、どうなってしまうかなんて、馬鹿な私でもわかる。
私は失ってしまう。唯一の、そばにいてくれる人を。
「なに読んでるん。絵本?」
「はい。ちいさい頃に読んでたものを、伯母の家で見つけたんです。いろんな童話が載ってて、お気に入りだったんです」
そう言いながらページをめくると、お兄さんが「人魚姫か……」と呟いた。
「好きなんですか、人魚姫」
「まさか。いちばんあほくさい話やろ」
「あほくさい?」
「ほれた男に近づくために自分の声あげて、最後には身投げまでして。いいところなんか、いっこもあらへん。自己犠牲の塊やん」
お兄さんは海の向こうを睨んだ。その眼差しはあまりに痛々しく、睨むことで彼の傷がよりいっそう深いものになるような気がした。
ラムネを飲む彼の喉ぼとけが、感情を押し流すように大きく上下する。
「あのっ、お兄さん、芸人さんだったんですよねっ」
彼は勢いよくラムネを吹き出した。げほげぼと全身で咳き込み、首から耳まで赤く染まっていく。
彼の睨む対象は、海から私へと変わった。
「なんで知ってるん」
「なんてコンビ名だったんですか。それともピン芸人ですか」
「教えるかボケ」
「教えてください」
「嫌や」
「人の絵本にラムネ飛ばしておいて、名前も教えてくれないんですか」
彼がむせた拍子にできた、わずかなシミを指差して抗議した。彼の傷が深まっていくのを止めたかっただけで、無理に聞き出すつもりなんてなかったけれど、口に出したら止まらなくなった。
観念した彼が、口をひらく。
「洋式和式」
「洋式和式って……。それって、どういう意味で?」
「トイレや、トイレ。トイレの洋式和式以外になにがあるん」
「えっ。なんでそんな名前にしたんですか? 芸人なのに縁起悪くないですか?」
「縁起が悪い?」
「だって流されちゃう」
彼はまた吹き出した。笑うと左頬にえくぼが現れることに気づく。
「ググったら出ますか」
「は?」
『洋式和式 芸人』とスマホの検索画面にタップした。彼の顔が赤から青へと変わっていく。
「やめろ」
「いいじゃないですか」
「やめろ」
「今やめたって、どうせ後で見ちゃいますよ」
「やめろ。それは本当にやめ……」
私のスマホを覗き込んでいた彼の目が、なにかに驚いたように大きく見開かれる。
「なんですか。検索、出ちゃいましたか」
わくわくしながらスマホを覗くと、高揚感はたちまち消えた。
画面上部に表示されたアプリの通知メッセージは、少しでもそれについての知識があれば、じゅうぶんに意味の通じるものだった。
押し寄せてくる後悔と絶望の波。足元をすくわれそうになりながら、私は立ち上がる。
お兄さんが「おい」だとか「ニーナ」だとか叫んだけれど、私は走りだすしかなかった。
息が。息が、うまく吸えない。酸素が足りない。
ビーチサンダルと足の裏の間でざらざらと擦れる砂が、ますます私を削っていく。
『大人3でどう?本当にこういうこと初めてなのカナッ?』
短文で、だけど明確に欲の満ちたメッセージ。
お兄さんはきっとわかってる。私がいったい、なにをしようとしているのかを。
「ニーナ!」
背後から手首を掴まれ、ぐんと引っ張られた。振り返ればお兄さんの両の瞳に捕らわれ、もうどこにも逃げ場はなかった。
「は、離してっ」
「3って、三十万?」
彼はとても落ち着いた様子で言った。
ざわざわと、波が胸を揺さぶる。私は視線を落とし、きれいに整えられた彼の爪先を見つめながら言った。
「三十万なんて、まさか……。三万です」
「そんなら倍。六万。それならいいやろ」
「いいって、なにが……」
顔を上げると、彼は私を引き寄せた。シトラスの整髪料。シャツから立ち昇る煙草の香り。かたかたと震える膝が、頽れそうになる。
浅い呼吸を繰り返す私に、彼が告げる。
「俺が買うたる」
妙な光沢のピンクのシーツに、甘ったるい芳香剤。森のなかにひっそりと佇むホテルは、いかにもだった。
「はよ脱いで」
飴色の照明が、お兄さんのつめたい瞳を照らした。
「脱いでって……」
「着衣でするのは好かん」
お兄さんは丸いベッドにどかっと座り、私を見上げた。
値踏みするような、粘ついた視線。Tシャツ素材のワンピースが、とたんに頼りなくなる。どうしてこんなぺらぺらした服を着てしまったのだろう。
「先に……。先に、シャワーを浴びさせてください」
「は? シャワーなんて浴びてどないすんの。どうせこれから汗だくになるんに」
ニーナはあほやなあ、と彼は私の腰を引き寄せた。ぐらついた身体はシーツに溺れ、さっきまで私を見上げていた瞳が、私を見下ろす側へと回った。
掴まれた手首から伝わる彼の体温に、胸がひゅっと凍える。
「ほんなら六万分、楽しませてもらうわ。俺、あんまりやさしくないから堪忍な」
遠慮も躊躇いも、情緒もなかった。
ワンピースの裾から潜り込んでくる、大きな手。首筋にざらりと舌が這う。肩を竦めて両膝をかたく閉じれば、俺、ニーナのこと買うたんやけど? と冷ややかに告げられた。
そうだ。私は私を売った。六万で、私を売った。
ねちねちと耳や首筋を舐められようと、力任せに身体をこじ開けられようと、文句なんて言えない。そういう取引をしたのだから。
目蓋の裏が、黒よりも暗い。噛み締めた唇がじんじんと痺れる。
だけどそうすることくらいしか、逃避する術がない。
「俺さあ、ゴム嫌いなんよ」
まるで他愛のないおしゃべりの延長のように、無邪気に言われた。たちまち全身が固まり、唯一動いている心臓の存在感が増す。
「ええよな、別に。買うたんやし」
身体が。口が。声が。なにも動かない。
「大丈夫、大丈夫。うまくやるから」
「やっ……」
私のわずかな抵抗なんておかまいなしに、彼はベルトを外しはじめた。カチャカチャと金属音が響き、恐怖が一気にせり上がる。
「や、やだっ……。やめてっ!」
ぐちゃぐちゃになった声が天井で跳ね、すぐに散った。熱くてつめたい人肌が、そっと離れる。
短いため息をついた彼は、片頬だけで笑った。
「六万ごときで人生売るな、ボケっ」
さっきまで私の身体を這っていた手が、わしゃわしゃと髪を撫でた。
あほ。ボケ。あほんだら。お
罵る言葉とは裏腹に、私を撫でる手は、やわらかに乱暴だった。
私は赤ちゃんのように声を上げながら、泣いた。
「ほんで、なんでパパ活なんてやろうとしたん」
涙が渇いてきたころ、お兄さんが訊いた。ごろんとベッドに寝そべった彼の横顔は、軽蔑しているわけでも呆れているわけでもなさそうに見えた。
もう、なんだっていいや。
半ば投げやりに、だけど解放されるように私は言った。
「彼氏が、ホストで」
「ホスト?」
「はい。アプリで知り合ったんです。私、東京には話せるような人がいなくて。大学にいても、なんか浮いちゃって。彼氏とか、そういう人がいてくれたら、救われるような気がしたんです。それにはじめてお店に行ったときは、そんなにお金もかからなかったんです。彼も、彼のお店の人もみんなやさしくて。また来てね、待ってるねって言ってくれて。ああ、私ここにいてもいいんだ、彼の役に立ってるんだって、そう思えたんです。でも……気づいたら貯金もなくなって、バイトを掛け持ちをしても追いつかなくて。馬鹿ですよね。向こうの目的なんてわかってるのに。ぜんぶ、彼の仕事なのに……。お兄さんは、なんでこんな馬鹿につき合ってホテルまで来てくれたんですか?」
そう言って笑ってみたら、頬が引きつった。笑う振りすら、うまくできない。
「ニーナみたいな奴、知ってるから」
「私みたいな?」
「気づいたのはずっとあとで、もう遅かったんやけどな。馬鹿やら利口やら、正しいやら正しくないやら。そういう言葉でぶった切るのは簡単やけど、本人にとってはそんなもんちゃうやろ。そうやって白黒つけて、それ通りにただしーく生きられるんやったら、世の中もっと平和やろ」
せやけど、ニーナにパパ活は向いてへんな。やめとき。お兄さんは天井に向かってゆっくりと言った。その瞳は硝子のように繊細で、なにかを悼むようだった。
「さっきの、遅かったって。私みたいな奴って……。もしかして、お兄さんの恋人ですか?」
彼は哀しそうにかすかに眉を寄せ、私に背を向けた。
シャツの背面いっぱいに描かれた虎が、大きく口を開けて周囲を威嚇する。泣き声に似た咆哮。
「芸人になるなんて言うといて、一番そばにおる奴が笑ってへんことに気づかれへんなんて、ほんまクソやろ。そんなん、浮気されて当然やんな」
細い、細い、かろうじて聞き取れる、糸のような叫び。
彼の人魚姫は、すべてを捧げてしまったのだろうか。やさしく甘い言葉をかけてくれる、唯一の理解者のような顔をした王子様に。
私は腕をのばし、爪をむき出しにしている虎を、まるごと抱きしめた。男の人をこんなふうに抱きしめるのははじめてのことで、自分を売ろうとした私のような人間に、そんな資格はないような気がした。だけど、そうせずにはいられなかった。
お兄さんの肩が、ぴくりと上がる。私はありったけの力を腕に込めて、背中に顔を埋めた。
「世界中がお兄さんのことクソだって言っても、私は言いません」
くぐもった声で言うと、彼は「世界中って、えげつないな」とわずかに笑って、私の手に口づけた。
ありがとう、と囁くように、やわらかい唇が指先を食む。ちいさく息を漏らせば、互いの熱と香りが、とろとろと混ざりはじめた。
嵐のように騒ぐ鼓動。絡み合った四肢がやさしく私を縛る。なんて穏やかな拘束だろう。
「……俺、六万持ってへんけど」
「それ、冗談のつもりですか? 芸人だったなら、もっとおもしろいこと言ってくださいよ」
笑って言うと、彼は私の腕をほどき、さっきよりもずっと熱のこもった瞳で私を見下ろした。
「こんなときにおもろいこと言えるか」
お兄さんは、やさしかった。
反復運動でも排泄行為でもなく、まるで私が愛しいもののように、めいっぱい愛でてくれた。甘い言葉よりも、ずっと雄弁な無骨な指先で。
鼓動も呼吸も、汗も涙も、互いのすべてが一緒くたになる。
私はもう、戻らないだろう。
私欲の透けて見える腕のなかにも、虚しさを浮き彫りにするネオンの街にも。
カーテン越しの陽射しに目を覚ますと、お兄さんの姿はなかった。
テーブルの上にはホテルの代金と、きれいに畳まれた置き手紙。私はシーツに残された皺をなぞり、部屋を出た。
早朝の海岸は青白く、散歩をする人をちらほら見かけた。利口そうなゴールデンレトリバーが砂浜を駆け、飼い主にじゃれつく。
平和な光景。昨夜のことが夢か現実か、わからなくなる。私は手のひらの置き手紙を握り、夢ではないことを確認した。
家までの道のりは、さみしさはなかった。それどころか足取りはとても軽く、まるで細胞すべてが入れ替わったようだった。
太陽に手のひらをかざし、脈を感じる。ふいに走りたくなって駆け出すと、すぐに息が上がった。
手の甲で額の汗を拭いながら、私はお兄さんの左頬のえくぼを想った。
伯母さんはまだ起きていないだろうか。ひっそりと玄関の扉を開くと、見慣れない靴があった。一瞬ひるんだものの、靴はきちんと揃えられていて、泥棒にしてはずいぶんと礼儀正しい。
もしかして――と居間に進むと、大きな身体がのっそりと振り向いた。
「佳祐くん!」
「よう、ニーナ。ひさしぶり。なんとか仕事の休みとれたから高速乗って来たんだけど、こんな朝早くからどこ行ってたんだ?」
あぐらをかいた佳祐くんは怪訝な顔をした。
「ああ、目が覚めちゃったから散歩に行ってたの……。それにしても、ひさしぶりだね。最後に会ったのっていつだったかな」
「俺が就職する前だから、五年くらい前じゃないか? うちのこと、いろいろ手伝ってくれてありがとな。ほら、座って座って」
ホテルに行っていたことが、ばれたりしないだろうか。ひやひやしながら佳祐くんの向かいに回ると、手のひらから手紙がこぼれた。手紙に挟まれていた写真が机のうえを滑り、佳祐くんの腕で止まる。
「なんだ? このボロボロの写真」
「それは……」
「てか、これあの子じゃん。なんでニーナがこの子の写真なんか持ってるんだ? 知り合い……じゃないよな?」
佳祐くんはどこか不穏な面持ちで訊いた。
「佳祐くん、その女の人のこと知ってるの?」
「知ってるっていうか……。この子、あれだろ。AV女優だろ」
その日、ちいさな街には「甲斐さんちのドラ息子がまた東京に飛び出した」と噂が流れた。
――初凪へ
先に帰ってごめん。
初凪のおかげで、もう一度あいつと向き合ってみようと思ったわ。
ありがとう。
気いつけて帰って。
ピンぼけしたお兄さんの隣で、大きな口を開けて笑う、きれいな女の人。
写真には無数の皺が寄り、ちいさな切れ目がいくつもあった。
なんども、なんども。後悔するたび、お兄さんはこの写真を捨てようとしたのだろう。
どうしてお兄さんが私にこの写真を託してくれたのか、理由はわからない。
だけど私には、それは彼の一部を切りわけてもらえたような、ひそかにしまっていた宝物に触れさせてもらえたような――そんなふうに思えた。
彼も、彼の人魚姫も、どこかで穏やかにいられますように。
酸素の薄いこの世界が、絶望だけではないと信じたいから。
空蝉と鱗を抱き、私は祈る。
(了)
