【エッセイ】 小説家になることが目的なのか、小説を書くことが目的なのか

小説家になりたいという人は、小説家になることが目的なのか、小説を書くことが目的なのか、明確にしておいた方が良いと思う。

この2つは似て非なるものだからだ。

小説家になることが目的の場合

 目的:小説家になること
 手段:書くこと

小説を書くことが目的の場合

 目的:書くこと
 手段:小説家になること

これら目的と手段を取り間違えると、不幸になると思う。

どちらが優れた小説を書けるか、どちらが良いことなのか、という話ではなく、目的によって、両者でアドバイスの仕方が異なってくるのだと思う。

書くこと自体が目的の人に「売れる小説の書き方」をアドバイスしても仕方ないし、小説家になることが目的の人に「小説とは何か」と哲学的質問をしても意味がない。

読まれなければ書いても意味がない、という意見が賛否両論となるのは、そもそも小説を書く目的と手段が異なるのだから不毛な争いだと思う。

※※※

もともと「小説」は大説の対義語だった。

大説は、政治や社会問題など普遍のテーマを論ずることだ。
対して、「小説」は日常的、個人的な話を書いたものを指した。

だから、文化的に低俗なもの、とみなされ、明治時代では「小説を読むとバカになる」とまで言われていた。

バカになる、はまだ良い方の表現で、小説を読む人について、啓蒙思想家・教育者の中村正直は次のように評している。
  ・正人佳士(立派な人間)ではない
  ・労咳(肺結核)で死ぬ
  ・子供が盗み読んで破滅するか、早死にする
  ・悪い病気を持っている人が多い

ほとんど誹謗中傷とも思えるが、下品でロクデモナイモノ、有害かつ危険なもの、という認識だったようである。
(もし明治時代に小説投稿サイトがあったら、そこに集まる人たちは、頭のおかしい人と思われたに違いない)

それでも、多くの小説が書かれ、読まれるようになったのは、出自からして大衆のものだったからだろう。

小説家になるためでも、書くこと自体のためでも、意味があろうとなかろうと、低俗であろうとなかろうと、もともとからして小説は全ての人のためにあるのだと思う。