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【メモ】枯山水と見えない役者_布施アカデミア

このメモは、布施英利氏のオンライン講義「布施アカデミア」の個人的な咀嚼とコーポリアルマイムとの共通点を整理するために記す。

今回は7月に実施されたアーカイブ配信の内容を振り返ってのメモ書き。「龍安寺とデビット・ホックニー」と題して、枯山水で有名な龍安寺の石庭の紹介と、現代アートの巨匠デビット・ホックニーの写真作品が紹介された。

龍安寺の石庭は15個の石が配置されている。その並び方については、7つ一組、5つ一組、3つ一組の七五三配列や、扇形に並んでいることから末広がりとして縁起が良い、また「心」という字を表しているなど…様々な説がある。その中でも興味深いのが、鑑賞者がどこに座っても、一度に15個すべての石が見えない構図になっているということだ。真ん中に座ろうが、端に座ろうが、どこからしら石は別の石によって隠れて見えなくなっている。

龍安寺 石庭

もし一度に15個の石を一覧するためには上空からの鳥観図的な視点が必要である。もしくは、座る視点を変え、複数回の鑑賞によって全ての石を確認することもできる。この仕掛けは、「あらゆる物事は一面的な観方ではすべてを見通すことはできない」という禅の考え方に基づいているそうだ。多角的に、時には今いる場所からすっと客観的に見つめることで多くの事象が目に見えてくる。禅の概念を具現化したのが枯山水と言えるのかも知れない。

ホックニーの作品は、連続写真のコラージュによって、15個すべての石を一枚の絵に収めている。時間と空間を再構築することで、多角的な視点による現実では目にすることのできない枯山水の姿を表現したのだ。

David Hockney “Walking in the Zen Garden at the Ryoanji Temple, Kyoto. Feb. 21st 1983”

私がこの講義を聞いて初めに感じたことは、枯山水がまさに演劇の舞台上のように思えたのである。

コーポリアルマイムでは舞台面を3×3の9ブロックに分けて役者の配置(ディスプレイスメント)を考える。枯山水の15個の演者(石)は、そのブロックにおいて過不足ない配置がなされているようにも思えた(それは、舞台面のあるブロックに集積している訳でもなく、かといって均質化された無機質さでもない。ごく”自然”なバランスなのだ)。そして、レベル(高さ)の違いも絶妙である。身長の高い石、身長の低い石、中程度の石。奥行きとしての面白さだけでなく、2次元的に観たときのバランスも飽きないバラエティに溢れていると感じる。まさに舞台面としての調和の美しさが枯山水にはあるように思えた。さらに、周りの屋根が舞台の奥に行くほど低くなる視覚効果がなされている。これにより実際よりも深い奥行きを演出しているとのことで、非常に舞台的な仕組みだと感じた。

しかし一方で、「全ての石が一度に見えないという配置」はむしろ非演劇的なように感じた。基本的に舞台上に役者が複数人いる場合は、なるべく全ての役者が重ならないように配置することが演劇的なセオリーのように思われる(もちろん例外はあるだろうが、あくまでもセオリーとして…)。

小津安二郎・東京物語

しかしここで少し考えてみたい。仮に枯山水の演出を現実の舞台で応用した場合はどうなるのだろうか?役者があえて見えない位置にで芝居を行うことによって、上演には何が生じるのだろうか?そこで、仮に舞台上に1メートル四方の衝立を置いた舞台を想像してみよう。上手の端からも下手の端からも、客席からは中身が見えないと仮定する。その時、上演ではどのような効果が生じるのだろうか?

一つは観客が移動するという可能性。上演中に観客が好きな位置に移動することが出来れば、衝立に隠れた役者の身体を能動的に目にすることができる。それまで受動的であった鑑賞の姿勢を一転させる効果を生じることができるかも知れない。また観客の移動という新たな変数が生じることでより上演のナマモンとしての性質を高めることができるのかも知れない。

もう一つは、見えないことへの想像力への働きかけ。観客も移動ができない状況であれば終始、衝立に隠れた役者の芝居を目にすることはできない。しかし、実際にその衝立の裏でも役者は芝居をしているとすると、観客は無を前にしているわけではない。何かをしている。その事実だけでも、鑑賞者は隠れた何かを探そうと(想像しようと)するのではないか?それは戯曲や演出上であえてオミットするという選択とも近しいのかも知れないが、あえて表現しないことで、それを想像させる余白を生み出す効果を生じさせることができるかも知れない(オミットの単位が手や足、顔などの身体的な一部分で調整できる面白さがあるのかも…)。

などなど考えているうちに「あえて見せない演劇」というものを考えてみると、逆説的に演劇は人に見られることを前提としていることを改めて強く実感するわけでもある。見られているという状態をどこまで意識すべきかは、その演劇形態や演出方法によっても様々であり良し悪しを一概に言うことはできないが、少なくとも「見るー見られる」という関係性の中で演劇が行われていることは避けがたい事実なのだと、再認された。

コーポリアルマイム舞台芸術学校(大阪・鶴橋)


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