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女系天皇容認派になってきた

皇室典範改正のニュースを見ていたら、皇族の方々が可哀想に思えてきた。

家族の在り方や人生設計まで、外部の人間からあれこれ言われ、大勢の国民がそれを見守っている。それなのに、当事者である皇族の方々には、自由に生きる権利がほとんど与えられていない。  
これは「生贄」「人身御供」ではないか——そんな考えが頭をよぎる。

生贄の伝統は、世界史的に見て「残酷すぎる」とされ、形を変えてきた例が少なくない。  
エホバの証人として育った知識で言うと、聖書にはアブラハムが長子イサクを神に捧げる犠牲として殺そうとした逸話が出てくる。これは、古代中東で一般的だったとされる「長子犠牲」の慣習を背景にしているのではないかと言われている。  
しかし結局、神の配慮によりイサクの犠牲は取り止めとなり、以後は動物を殺して焼く燔祭に置き換えられたと記されている。

長子犠牲は、神に対して「自分たちにとって最も大切なもの」を捧げることで、崇拝の意志を示すための儀礼だったとされる。古代の人々にとって、それは重要な宗教的行為だったのだろう。  
それでもその慣習をやめ、社会は続いている。

天皇制と長子犠牲はもちろん内容が異なる。  
ただ、特定の家族を「聖なる存在」と位置づけ、当人たちを超えた「こうあるべき」という期待を押しつけ、自由を奪う構造は、現代的な視点から見ればやはり残酷な犠牲的伝統だと言える。  
そう考えると、本当に申し訳ない気持ちになってくる。

だからこそ、天皇制の廃止まで考えてしまうようになった。  
ただ、昭和天皇(当時)がおられたことで二・二六事件や終戦という危機を乗り越えられたという史実を思うと、皇室の役割に「有り難み」を感じるのも事実だ。意味のない伝統とは思えない。

そこでせめて、伝統の形を変えることを提案したい。  
一旦は権威が落ちるとしても、男子を産み続けるという過度な負担を軽減するため、女系天皇の容認に傾くべきではないか。  
歴史的に男系継承が正統だったのかもしれないが、残酷であれば形を変えてきた伝統が他にもあることを、私たちは忘れてはならないと思う。

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