「分不相応」という30秒
昨日、会食の途中で30秒ほど会話から離脱した。
もちろん、席を立ったわけではない。
ちゃんと座っている。
相槌も打っていたと思う。
たぶん笑ってもいた。
でも、何を話しているのか、突然わからなくなった。
原因はひとつ。
「分不相応」
という言葉を思い出したからだ。
この言葉を、ボクは母親から何度も言われてきた。
最初に言われたのは、たぶん22歳くらい。
まだ「会社ごっこ」と「放送作家ごっこ」をしていた頃だ。
仕事を始めて間もない頃、芸能人という人に初めて会った。
今なら仕事なので普通に話をするが、当時は違う。
テレビの中にいた人が、目の前にいる。
すごい。
若いボクは当然うれしくなった。
家に帰って母親に、
「今日、○○さんに会った!」
と報告した。
自慢だったのだと思う。
すると母親は、喜ぶわけでもなく言った。
「分不相応なんだから、気をつけなさい」
さらに、
「学も何もないんだから」
とも言われた。
なかなかパンチが効いている。
普通、息子が仕事を始めて芸能人に会ったら、
「すごいねえ」
くらい言ってもいい気がする。
うちにはなかった。
その後、会社の社長さんに会うようになったときも同じだった。
「今日、○○会社の社長に会った」
なんて話すと、
「偉いのは相手の人であって、お前じゃない」
と返ってくる。
その通りである。
さらに、
「お前は世間様のおこぼれをもらっているだけなんだから」
とも言われた。
おこぼれ。
もう少し言い方があるだろうと思う。
そして今になって、もう一つ気になる。
なぜ母親は「世間」に「様」をつけていたのだろう。
「世間様」。
神様、仏様、世間様。
うちの母親の中では、かなり上位の存在だったらしい。
でも、困ったことに、何十年経っても、この言葉がボクの頭の中に残っている。
「分不相応」。
食事をしているとき。
移動の車に乗っているとき。
すごい経営者に囲まれたとき。
テレビで見ていた人と普通に話しているとき。
突然、出てくる。
昨日もそうだった。
会食の席にいる人たちは、すごい人ばかりだった。
会社を大きくした人。
大きな仕事をしている人。
圧倒的な結果を出している人。
会話の中身も高尚だ。
そんな中で、突然、母親の声が頭の中に蘇った。
「分不相応なんだから、気をつけなさい」
そこで思ってしまった。
「そもそも、なんの取り柄があって、ボクはここにいるんだろう?」
こうなるとダメである。
みんなが話しているのに、言葉が頭に入ってこない。
30秒くらいだったと思う。
完全に会話を見失った。
一応、頭の中で自分を確認する。
「まあ、ご飯代を払うくらいの力はある」
意味不明である。
そんなことを確認したところで、分相応になるわけではない。
でも、昨日は「分不相応」という言葉を思い出して、むしろよかった。
30秒ほど会話から離脱したあと、ちょっとだけギアが変わった。
ここにいるのが当たり前じゃないなら、ちゃんと聞こう。
この人たちが何を考えているのか、もっと聞こう。
そして、ただ聞いて帰るだけじゃダメだ。
何か面白いことを言おう。
何か一つでも持って帰ろう。
何か一つでも相手に置いて帰ろう。
分不相応な場所にいるのなら、せめて、その時間を無駄にしない人でいたい。
そんなことを考えた。
考えてみれば、ボクの人生はずっとそうだったのかもしれない。
放送作家になったときもそうだ。
会社を始めたときもそうだ。
PRの仕事を始めたときもそうだ。
「自分にはまだ早い」
「そんな実力はない」
そう言っていたら、たぶん何も始まっていない。
分相応になるのを待っていたら、一生、その場所には行けない。
先に分不相応な場所に行ってしまう。
そして、そこで必死になる。
その繰り返しだった気がする。
だから「分不相応」は、悪いことばかりではない。
居心地が悪い。
緊張する。
自分の足りなさもよく見える。
でも、自分よりすごい人しかいない場所にいると、嫌でも成長する。
分相応な場所は安心する。
分不相応な場所は緊張する。
だったら、ボクは後者にいたい。
会食が終わって、移動の車の中から母親にLINEした。
「今日も分不相応な会食でした」
今朝になっても、まだ既読にはなっていない。
まあ、そのうち気づくだろう。
そして今日も東京で動き回っている。
朝からミーティングが始まる。
たぶん今日も、ボクには分不相応な人たちに会う。
22歳の頃から、ずいぶん時間が経った。
それなりに仕事もしてきた。
本も書いた。
テレビの仕事もした。
会社の社長さんたちとも普通に話すようになった。
それでも、不思議なことに「分相応になった」という感じはまったくしない。
むしろ逆だ。
歳を重ねるほど、分不相応な場所が増えている。
分不相応な人と会い、
分不相応な話を聞き、
分不相応な仕事を任される。
だったら、それでいいのかもしれない。
「ここにいていいのかな?」
そう思える場所に、まだ呼んでもらえている。
それは案外、幸せなことだ。
今日もまた、分不相応な時間が刻まれていく。
母親に言わせれば、
「勘違いするんじゃないよ」
で終わる話なのだろうけど。
最後を「幸せなのだと思う」で綺麗に締めず、お母様にもう一度登場してもらったのがポイントです。このほうが説教臭くならず、野呂さんのブログらしい余韻が残ります。
