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データというヒールをベビーフェイスに仕立てる科学の言い訳を聞こう。

この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:現役科学者の読者Hさんが、僕が何気なくかついい加減に使った「データドリブン」という言葉に反応してメッセージをくれた。現代におけるデータとサイエンスとは相矛盾する存在、つまりプロレスでいうと、ヒール(悪役)とベビーフェイス(善玉)。しかし両者は密かに「共犯関係」にあった?武智先生も登場する。トップ画はハラダ画伯の手になる「極悪大王ミスター・ポーゴ」。データを極悪ポーゴになぞらえた。

データサイエンスって何

以下、Hさんのメッセージです。


後、「データ絶対主義」って言葉があるけど、それと並行して出て来た「データサイエンス」も、自分も含めて科学の分野では??の対象で、今は「データドリブンサイエンス」に言い換えられている。

データを利用してサイエンスを進めましょう、という意味です。

この2語には大きな違いがあって、後者は主語は科学技術者で、データは手段です。

 詰まりデータに絶対性はなくて、科学技術者の信念から見てどの程度尤もらしいかでデータは選択される、選択の対象にまた戻っています。

一方で、データが爆発的に増大する事で、我々がどの様な信念を持つかが問われています。

その信念のアップデート、更新を、進歩と呼んでいます。


ちょっと補足すると、Data drive science.をそのまま捉えていなくて、あくまで人が主体で、データがそれに加担する、かな

唯、データが教えてくれる事も多いけど、データの影響力が凄い。

だから人が主体的に考えを深めて来なかった分野では、データに絶対的に支配されるのは、そうかもしれない。


データドリブンサイエンスの話しだけど、野呂さんがいう様に本来サイエンスはデータドリブンと言う接頭語を必要としていないかもしれない。


確かに、データは自然を測って人間がつくるものだから、曖昧さで満ちている

しかし、その曖昧さの中から、あらゆる努力を払い、尤もらしい真実の断片を見つけ出して、科学技術者の信念を鍛えるのも、科学の大切な役割と、考えています

科学とデータの共犯関係は許せる?

Hさんの考察を拝見して、僕は「データとは絶対的なものではないが、ある程度の精度と信頼を具備すれば、それを使ってサイエンスという絶対の事実を作ってもいい、という科学界の暗黙のルールがある」というふうに解釈しました。

Hさんのいうように、「確かに、データは自然を測って人間がつくるものだから、曖昧さで満ちている」のです。

つまり、データとは客観じゃなくて主観。

もうその時点で科学とは相容れないはず。

しかし、科学は真実探求のことだから、データは介在する余地がそもそもない。

でも、そうやすやすと、真実が見つかるわけもないから、科学界は自然にある種の妥協を強いられた。

ポイントはHさんのこの言葉です。

「詰まりデータに絶対性はなくて、科学技術者の信念から見てどの程度尤もらしいかでデータは選択される」

科学に哲学が必要な理由

もとより、絶対的客観性などは存在しない。

しかし、完全なもの以外を排除する態度は、行き過ぎであり、完全でないデータの中に真実が眠っているかもしれない。

だから、妥協が必要だ、ということになったのだ。

それは科学的と言うより、哲学的な営為やもしれぬ。

その妥協とは、データをジャッジする世間に科学者と認められた集団が「このデータは真実に近いから認めよう」と言ったら、そのデータを真正な、つまり、科学的ものと認めようとする態度である。

データサイエンスなどという言葉自体、自己矛盾だ、というのはわかる。

だって、今いったようにデータはそもそもサイエンスじゃないもの。

データドリブン・サイエンスはどうか。

これは科学界じゃない、一般のもっともらしい、武智倫太郎先生の言う「人をカタカナで煙に巻くトリック」に過ぎない。

データがそもそも真正じゃないのに、それが科学を主導するなどは、矛盾だ。

データサイエンス、データドリブンサイエンス、という言葉については、英語の原語そのものに自己矛盾があり、それをカタカナにすると、わかったような、わからないような曖昧さが増大するにすぎない、ということだろうか。

Hさんと武智先生の解説で、データとサイエンスが少しわかったような気がした次第です。

野呂 一郎
清和大学教授

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