ガイジンに誤読か信仰の二者選択を迫る武士道マーケティング
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:武智倫太郎先生が本日アップされた『武士道マーケティング』から『誤読資本主義』へ――AI時代の信仰経済論は、人間ドリブンにまた新しい示唆を与えたすさまじい論考だ。卓見に乗っかって、駄文を連ねてみた。
武士道という化物
武智倫太郎がおっしゃっていましたけれど、海外で武道の型でもやって見せれば、ジャッキー・チェンが拳法のアクションをやってみせると同じくらい拍手喝采されるというのは本当です。
それほど、海外の人は武道に畏れと憧れをもっているのです。
それは、敬意を持って恐れおののかれるだけではありません。
アメリカが日本に二度も原爆を落とした背後には、武士道への過度な恐怖と警戒があったのではないでしょうか。
武智流にいえば「わるい誤読」です。
武士道を武道の精神的根幹と考えることは、空気として戦前から世界に漂っていました。
武道の肉体を超えた魂の強さの背後に、武士道という哲学があることは世界の共通認識でした。
「書物の記述や実技を超えた恐ろしいもの」、との「誤読」はもう100年以上も存在していた」のではないでしょうか。
小さい日本人に後ずさりするガイジン
空手が白帯の頃、組手の稽古で2メートルくらいのイタリア人と、対峙したときのことです。
日本人としても小柄の僕に、黒帯のそのガイジンが後退りしたのです。
「えっ?」と思ったのですが、先ほどの「誤読」で理解できるような気がします。
日本人に必要以上にある意味でおじけ、ある意味で気味悪がっているのです。
武士道の本はいくつかありますが、著者が武の実行者でないものが書いているのは、「誤読」と言ってもよく、武士道がまた、「こういうものだよ」と決めつけることもできず、武智先生流に言うならば「それでいいのだ!」となります。

原爆云々の話も、曖昧模糊とした武士道という概念が、古くから美化され一方で恐れられ、理解できないがゆえに敵視され、結果として「ばけばけ」のようなスピリチャルな怪物のように扱われてきた経緯があると思うのです。
へたな演武が喝采を受けるわけ
来月某国で経営講義とともに、演武をやるのですが、初段程度の僕の技でも拍手はもらえるはずです。
5,6回やった各国での演武がそうでしたから。
なぜか、それは申し上げたように、知識と理解不足からくる「誤読」のおかげ、なのです。
白帯くらいの技でも「日本人がやるんだから、すごいはずだ」との誤解が彼らの感覚に刷り込まれているのです。
この間スロベニアで、「型の応用を見せるから、かかってこい!殺す気で来い!」とハッタリを噛ましたら、2メートルの大男がビビっているんです。
この目に見えない威圧こそ、武士道への彼らの誤解の正体なのです。
武士道マーケティングから友好へ
空手はともかく、合気道はまだまだ世界に知られていません。

棒術もそうです。
しかし、海外の人々の武道に対する興味と関心は、衰えるどころか燃え盛る一方に思います。
勝手に誤解させて武道を神秘の枠に閉じ込めて、日本人をいい意味でミステリアスな存在にしとけ、これも一つの考えでしょう。
いくら演武や言葉で説明しても、誤解するのは自由だからほっとけ、それもあるでしょう。
でも僕は第三の道を提唱したいと思うのです。
武道をやっている人、武士道を研究している人は、それぞれの武道論、武士道論を持っていると思うのです。
それを海外の人と共有して、武道、武士道を通じて語り合い、理解を共有する中で絆を深めるのです。
今僕らは真剣に平和を実現すべき、局面に来ています。
武道や武士道という、海外の人々が日本の根源と考えるような概念について、あなたがご自分の言葉で説明すれば、それは彼ら彼女らの日本理解に、つながります。
対話こそ、平和の礎です。
勝手にガイジンの解釈が飛躍する誤読を、あなたがより正しい誤読に導いてあげましょう。
武道はその意味でとてもいい、これから日本が世界に愛され、理解されるきっかけを創るツールです。
別に武道をやってなくてもいいのです、その場合あなたは「日本社会における武道、武士道の位置づけ」などを語ればいいのです。
それも一つの立派な武士道論だと思います。
武智流武士道マーケティングはアートだ
それにしてもきょうアップされた武智倫太郎先生の武士道マーケティング論は、理論と実践を両方ものす先生ならではの、武士道と現代をつなぐ傑作でした。
エセ武士道マーケティングの代表としての、ベニー・ユキーデ、極真カラテの真実など、読み物としても超エキサイティングでした。
武士道を論考のテーマにとり、学術的な解説を画期的な面白いストーリーにまとめる手法はもはやアートです。
実戦の中に芸術がある、まるで武士道です。
野呂 一郎
清和大学教授
