「note」が趣味なわけがない
先日、友人に「俺、趣味がないんだよね」と相談された。趣味なんて自発的に行うものである以上、私は「そうなんだ、いつか見つかるといいね」くらいしかかける言葉を持ち合わせていない。
「なんかいい趣味知らない?」と続けられたので、こちらはあれやこれやと提案するが、「ふーん、いいかもね」と、つれない返事をされ、後日聞いても結局何もやっていなかった。
彼は元より、何かを始めるには重すぎる腰を持ち合わせているため、何を言っても無駄なのだ。いつか自分の才能があるものや興味が湧きあがるものが、天からふと降りてくると、そう思っている。
ずっとソファーに座りながら動画を上にスワイプしていて欲しい。
趣味とは、収集性を持つものと、自己研鑽性を持つものの二種類に分けられると思っている。
切手やスニーカーを集めることは勿論前者に属するものであり、数を揃えたり、あまり出回っていないものを手に入れることで所有欲を満たす。これは別に形而下のものだけではなく、映画や小説など、知識や経験として記憶を収集するものにも当てはまる。何であろうと収集することは楽しく、脳が快楽物質を生成するのだ。
こうした趣味の楽しさには、常に知識欲が根幹にある。知的好奇心が更なる知的好奇心を呼び、それが連鎖的に繋がり、いつしか趣味として確立される。良いものを集めるためにも、体験するためにも、知識は必要なのだ。
実際私も、徹底的に調べた上でウイスキーやボードゲームを必死にかき集め、お笑いや漫画を観ることに躍起になっている。棚に並べられた酒と箱を見る度にうっとりとするし、それらの情報を仕入れるために時間は惜しまない。普段はめんどくさいとか疲れるとか思うような作業も、全く苦に感じられない。趣味とは往々にしてそういうものだ。
しかしそう考えると、別にTikTokやYoutubeの視聴だって、別に趣味として挙げても差し支えないはずだ。動画を視聴する経験は、知識として溜まっていく。収集性で言えば、他の鑑賞物と何ら変わらないとも言える。
小説やドラマ、漫画なんてものは一昔から考えれば低俗で、趣味として挙げると鼻で笑われるようなコンテンツだったわけで、ともすれば、数十年後TikTokのようなショート動画は胸を張って誇れる趣味となる可能性は十分ある。巷では、「TikTok脳」だとか言われて何かと危険視されているが、本来趣味とはドーパミンが生成されてなんぼのものであるので、自制が効けば何の問題も無い。
つまり、彼の趣味は「ショート動画鑑賞」であるわけで、それに費やす時間が既に彼の自由時間を埋めているため、他の趣味に手が回らない状況ともいえる。私がおせっかいにも並べた趣味に、食指が動かなくとも納得だ。
後者である自己研鑽性を持つ趣味についてだが、これは絵や裁縫、マラソン等のスポーツが当てはまる。
これらは自分のスキルの向上を目的として、成長欲求を根幹とした趣味である。達成感や自己実現感を得られるそれは非常に健全で、能動的だ。
しかし上記した収集性を持つ趣味とは違って、一定の努力が強いられる。地道な作業や、つまらないことをコツコツ行い、徐々に上達し、結果何かを成すことでやっと楽しさを得られる。始める人にとってこれは中々に敷居が高い。本来飽き性である人間がすぐに辞めるのも無理はない。
ただ、得られる楽しさは抑圧されていた分殊更で、収集的趣味よりも大きなものとなる可能性が高い。その味を知った人間はさらにその趣味に打ち込み、やがて中毒となっていくのだろう。
私もギターなんかは必死に練習して、一曲弾けたときにはとても嬉しいものだし、次はどの曲を弾こうかと考えている時間が楽しい。テクニックは無数に存在し、これからも習得していければいいなと思って定期的に弾いている。
この二種類の趣味に共通する点としては、まず一定の熱量が必要であるということが挙げられるだろう。趣味とは自然と頭をよぎるものであり、触れずにはいられない。誰に命令されずとも自発的に対面する時間を作り、それに没頭する。年に数回それをやるだけでは、趣味ではない。「断続的に続けてしまうこと」こそが趣味なのだ。その無意識的熱量が無ければ、ただの暇つぶしとしか言えない。
逆に熱量が高すぎると、それは専門家やプロと呼ばれる集団に属する。余暇の時間を費やすほどの熱量で、仕事とは区別される、「自分の好きなこと」が趣味であるわけだ。
つまり、個々人の好きなコンテンツは以下のマップのどこかに位置する。

例えば、私にとってのギターを当てはめると、ベース(ギターでベースという言葉を使うとこんがらがるかもしれないが)は自己研鑽的趣味であり、尚且つギターや音を変えるためのエフェクターというものを集めているため、収集的趣味の要素も持っている。よって、アマチュアの枠の左寄りに位置するわけだ。こうして、どのコンテンツもどこかには当てはまるのではないのかなと思っている。
もう一つ二種類の趣味に共通する点は、「人を蔑むためのファクター」になり得る点だ。所謂マウントをとるというやつだ。
「こいつは○○も読んだことがないのか」とか「こいつは自分よりも下手だ」等、他者が劣っていると思えてしまうところが共通していて、悪質で、厄介だ。
初対面の人にウイスキーが好きなんて言うと、品定めされるように質問され、答えられないと鼻で笑われる、なんてことも稀にある。趣味なんてものは自己完結的で、自分が好きであればそれで良いのに、敵ではない人間を傷つけるための武器として使えるのがなんとも残念だ。しかしこれは誰でも行い得る。自分がそうならないように気を付けなければならない。
この話に付随して、「自分が楽しめればそれでよい」という自己完結的な要素は趣味にとって必要不可欠だと思っているのだけれど、どうなんだろうか。
というのも、最近は趣味と称して、(他者の存在に依存した)承認欲求や自己顕示欲を満たすためのツールとして利用するケースが多い気がするのだ。
例えばカメラやカフェ巡り。良い写真を撮り、オシャレを醸し、それをSNSに投稿する。そして反応を貰うことに喜びや楽しみを感じる。別にこれは、だから駄目だということではない。私にも承認欲求や自己顕示欲は多分にある。問題はどこに楽しみを感じているかという点だ。これだと趣味はSNSということになるのではないか。そう思うだけだ。
しかしそうすると、「SNSは趣味と言えるのか」という新たな問題が浮上する。私が論じた収集性も自己研鑽性も持ちえない、新たな趣味の形の台頭である。
ただ、「私の趣味はXです」と人に言えるかと言われればなんともいえない。それはなぜかというと、SNSの役割は交流することが主であり、あくまで趣味を共有できる仲間を探すためのサービスだからである。交友関係を趣味とは言わないように、それ自体を趣味とは言い難い。
では私にとって、noteは趣味と言えるのだろうか。
note公式はサービスについて、『noteは、クリエイターが文章や画像、音声、動画を投稿して、ユーザーがそのコンテンツを楽しんで応援できるメディアプラットフォームです。』※1 と表現している。
同様に、利用者同士で話し合いを行った記事では、『note社では、noteというプラットフォームを「SNS」と表現しています。』※2 とも書かれていた。(ちなみにnote公式が「noteをSNSだ」と述べた情報は調べた限りなかった。公演か何かで言っていたのだろうか。)
まあ公式がどう捉えているかは置いておいて、実際にnoteはSNS的な要素が強いように感じる。特にエッセイを書かれている方々の界隈については顕著で、交流が頻繁に行われている。お互いにコメントをしたり、仲良くなってオフ会をしたり、それぞれの立ち上げた企画に参加し合う。活発で、noteを盛り上げるための一端を担っていると言っても過言ではない。
では果たして、私はそのSNSを趣味として捉えているのか。記事を投稿するのは、承認欲求や自己顕示欲を満たすためではないのか。そう自問すると、そうなのだろうなと思う。文章を書くこと自体嫌いではないし、始めた当初は別に反応が無くても書いていけると思っていたが、読んでくれる人が一人もいないとなれば、とっくにnoteを辞めていたと今では思う。だから、「書く」こと自体の楽しさはあるにはあるが、それを持続させるほどの熱量は多分ない。noteがあるからなんとなく続けているだけだ。
つまりnoteは私にとって、「文章を書く」というコンテンツを、暇つぶしから趣味に押し上げるためのブーストなのだろう、ということだ。他の方の記事を読んで刺激を受けたり、反応を貰えるnoteは、「文章を書く」ことに付随して必要不可欠である。
そう考えると、前述したカメラやカフェ巡りも、きっと同じようにSNSを活用しているともいえよう。今までは言語化できない気持ち悪さがあったが、やっと腑に落ちた。私と彼らは、同じ穴の狢だった。
以上、私にとってnoteは趣味ではない。あくまで「文章を書く」ことが趣味だ。これからもその認識は変わらず、運営様に土下座しながら有難く使わせていただくこととする。
※1 noteの特徴、使い方、機能紹介 2014年 note公式
※2 noteはSNSのいいとこどり💛5つの機能 2023年 しもまゆ@note講師🍀思考整理コンサルタント🍀ライター
