コロッケを愛と言わずして何と言おうか
クリスマスまで残り一か月と差し迫り、より一層寒々しい空が覆っている。街は所々ライトアップされており、早くも年の瀬のそわそわとした感覚が立ち上り始めている。私の手には、コロッケが握られていた。
言葉やスキンシップ、贈り物等、愛情表現には様々な形がある。その形は現代多岐に渡り、ここで全てを言えるものでもない。しかしまあ、大まかに言えば、私たちは時間や労力、金銭を貢ぐことによって愛を表現する。「あなたを愛しています」と、説得力を持って発信するためにはコストを支払わなければならないのだ。これは、人に産まれた以上切っても切り離せない重要なファクトであると存ずる。いっそのこと猫や犬であれば身体を擦り付けたり、喉をゴロゴロと鳴らしたり、腹を見せるだけで済んだのにと、私は人に産まれたことを少し後悔した。とはいえ、愛情表現として虫の死骸をプレゼントする猫もいればゲロを口移しで流し込むインコもいるわけで、そう考えると、動物の世界もあまり変わらないのかもしれない。
愛情表現にリターンは無い。対象の喜ぶ顔が見たい。ただそれだけが行動原理である。一切の見返りを求めてはいけない。愛を伝えることをもって愛情表現は完結するわけで、逆に、それを対価として、卑しくもあれこれ考えることはご法度である。
つまり何が言いたいかというと、男性が愛情表現と称して行う性行為ないしスキンシップは愛情表現足り得ないということだ。性欲解消が確実に付随する以上、それはリターンであり、愛情表現の性質とはかけ離れると私は考えている。セックスで男の愛を確かめることはできない。
ちなみに女性のことは知らない。私が語る女性論は全て「らしい」と付け足さざるを得ない聞き伝手の情報でしかないので、語れる程の説得力を持たない。
では、何が最も崇高で、確実な愛情表現なのか。
それは、コロッケを作ることだ。
家庭料理の代表の一つとして挙げられるこの料理には、とんでもない愛が詰まっている。
芋を洗い、茹で、皮をむき、つぶし、玉ねぎを刻んでひき肉と炒め、それを芋と混ぜ、冷まし、成形し、衣をつけ、揚げる。この異常な工数を経ることで、やっとコロッケが出来上がる。
揚げるだけでも処理が億劫で気が滅入るのに、タネを作るにも労力と時間がかかる。たかが一食作るために。
さらに言えば、ご飯に合わない(合わせ難い)のもコロッケのいじらしい特徴だ。これだけではきっと愛する人はコメが進まないだろう。そう思って、結局もう一品追加で作る必要がある。コロッケを作ることは、コロッケを作ることだけでは済まされない。想像するだけで気が狂いそうだ。
準備も後片付けもとんでもなく大変で、メインディッシュには心許ないコロッケ。それが何の因果で長年家庭料理としての地位を確固たるものにしているのか。紐解くと、やはりコロッケこそが愛だからだとしか考えられない。愛する人の笑顔が見られれば、多少の手間など惜しまない。愛する人が「キャベツはどうした?」と茶化して文句を言ってきても、仕方ないなと笑って追加の千切りを用意する。これが愛だ。私に愛する人が出来た際、いの一番に、一生懸命コロッケを作ろうと思う。
コロッケを作るのは最上の愛情表現であり、コロッケは愛そのものであると言っても過言ではない。コロッケを愛と言わずして何と言おうか。
ふと、私の中でいくつか曲が再生された。
コロッケを込めて花束を 大袈裟だけど受け取って
コロッケにできることはまだあるかい
コロッケをください wow wow コロッケをください
なんともぎとぎとで、それでいて感慨深い歌詞である。胃もたれしそうだ。
私は手に握るそれをまじまじと見た。
ヤオコーの北海道産キタアカリコロッケ。調理されてから時間が経っているのか、衣はしなしなで、紙袋には油が染みている。30パーセントオフのシールが雑に貼り付けられた、売れ残りのコロッケ。
それでも、それは私にとって、確かな愛だった。
現状、私を一番愛しているのはヤオコーである。ヤオコーは幾度となく私に愛をくれた。一方で、私は何もしてあげられていない。せいぜい、週に数回金を落とすだけだ。
いつか、ヤオコーにコロッケを作ってあげたいな。そうやってコロッケを作り作られ育むことが、平等で健全な関係構築なのだから。
私はトースターに愛を一つ入れ、暖め直した。
