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不適切保育とは?

「不適切保育」とは、どこからどこまでを指すのか

ここ数年、保育の現場では「不適切保育」という言葉が頻繁に飛び交うようになりました。
ニュースでは、明らかに許されない暴言や威嚇の映像も流れます。
それらはもちろん「不適切」と言うべき行為です。

ただ一方で、現場にいて、こうも感じています。

いま、どこからどこまでが「不適切」なのか──
その線引きが、少しおかしな方向にずれてきてはいないか。

たとえば、給食の場面。

  • 「デザートは最後に食べようね」

  • 「あとひと口だけ食べてみようか」

そんな、ごく当たり前だった声かけに対してさえ、
「それは不適切保育だ」「子どもの主体性を奪っている」と批判されることがあります。

では、ここで改めて問いたいのです。

本当に、これが「不適切」なのでしょうか?


「主体性」という言葉だけが一人歩きしていないか

「子どもの主体性が大事だ」と言われます。
私もその大切さには深く賛同します。

ただ、こんな疑問もあります。

いま語られている「主体性」は、本来の意味からずれてはいないか?

一般的な意味での「主体性」とは、

自分の意思や判断に基づき、自ら責任を持って行動する態度

のことです。

では、0〜5歳の幼児はどうでしょうか。

「今、デザートを先に食べたら将来の健康リスクがこうで、それでも自分で選んでいる」
そんなふうに“結果への責任”まで理解して行動しているでしょうか。

おそらく、多くの場合は、

「デザートが食べたい」
「嫌いなものは食べたくない」

それ自体は、とても正直な気持ちです。
でも、それを「主体性」という言葉で全部肯定してしまってよいのでしょうか。

大人であれば、
「甘いものを先に食べると血糖値が上がる」「栄養が偏る」などを理解した上で、それでも選ぶなら「自己責任」と言えます。

一方、子どもはまだそこまで分かりません。
だからこそ、大人が

  • 「デザートは最後にしようね」

  • 「ひと口だけ頑張ってみようか」

と声をかけ、「我慢」や「順序」や「ルール」を経験させているのではないでしょうか。


私たちは、どうやって育ってきたか

いま子育てをしている世代(おおよそ20〜40代)は、多くがこう言われて育ってきたはずです。

  • 「好き嫌いしないで、少しは食べてみなさい」

  • 「デザートは最後ね」

  • 「あとひと口、頑張ってみようか」

その声かけは、当時「不適切保育」とは呼ばれていませんでした。
それどころか、多くの大人は、

我慢する力を育てたい
最後まで頑張る経験をしてほしい

と願いながら、そういう関わりをしてきたはずです。

子どもだった私たちは、
「理不尽だ」「主体性を奪われた」と感じていたでしょうか。

むしろ、

  • 「もうひと口頑張ったら、デザートが食べられる」

  • 「えらいね」と認めてもらえた嬉しさ

そんな“経験”の積み重ねの中で成長してきた人も多いのではないでしょうか。


保育園は「家庭の延長」ではなく「集団生活の場」

もちろん、家庭それぞれに教育方針があります。

  • Aちゃんの家庭:「嫌いなものも、少しは食べてみよう」

  • Bちゃんの家庭:「無理して食べなくていいよ。好きなものだけでいい」

どちらが絶対的に正しい、という話ではありません。
家庭の価値観は、家庭の中で大切にされるべきものです。

ただ、保育園は「集団生活をする場」です。
個々の家庭方針を、100%そのまま園に持ち込むことはできません。

もしAちゃんだけが苦手なものも頑張って食べていて、
Bちゃんは好きなものだけ食べてよい、という状態が続けば──

「なんで私は嫌いなものも食べなきゃいけないのに、あの子はいいの?」

という“別の不公平”“別の不適切”が生まれます。

だからこそ園は、

  • 「みんなで同じルールを守る」

  • 「少し我慢してみる」

という経験を、集団として共有しようとします。

それを「うちの方針と違うから不適切だ」と断じてしまうと、
集団としての育ちの場が立ち行かなくなってしまいます。


「不適切保育」という言葉が、本当の不適切を生む皮肉

もちろん、本当に許されない事例もあります。
暴力的な言葉、人格を否定するような叱責、恐怖で子どもを従わせる関わり。
それらは、どれだけ現場が忙しくても擁護できません。

ただ一方で、何でもかんでも

  • 「最後のひと口を促す」

  • 「座るように声をかける」

  • 「ルールを守るよう促す」

といった、成長に必要な関わりまで
「不適切保育」と一括りにされてしまう風潮も出てきています。

その結果、現場の保育者は

「これも不適切と言われるかもしれない」
「クレームになったらどうしよう」

と萎縮し、本来必要な声かけすら控えてしまう…。

そうやって
“何も言わない・何もしない保育” が増えるとどうなるでしょうか。

  • 我慢が育たない

  • 椅子に座って話を聞く経験が足りない

  • ルールより“その場の気分”が優先される

結果として、のちのち小学校などで困難さが表面化する子どもたちが増えていきます。

これは、子ども自身にとっても、不幸なことです。


主体性は「何でも許される自由」ではなく、「経験の積み重ね」で育つ

私は、主体性そのものを否定したいわけではありません。

むしろ本当の主体性とは、

「ここは我慢した方がいい」
「ここは挑戦してみよう」

と、自分で判断できる力だと思っています。

そのためには、

  • 嫌だけれど、少しだけ頑張ってみる

  • 頑張ったら、達成感や喜びが返ってくる

  • ときには失敗したり、悔しい思いもする

そういった経験が欠かせません。

0〜5歳、そして小学校低学年くらいまでは、
その“土台づくり”の時期だと思います。

この時期に、

  • すべてを「不適切」と言って避ける

  • 子どもが嫌がることは一切させない

という選択ばかりをしていると、
子どもは将来「社会のルール」や「他者との折り合い」がつけにくくなります。


本当に問われるべきは、「誰のどんな行動が不適切なのか」

嫌いなものを一口食べてみようと励ますこと。
順番やルールを伝えようとすること。
椅子に座って話を聞く経験をさせること。

それらは、子どもの未来を考えた 「教育的な関わり」 です。

一方で、

  • 無理やり口に押し込む

  • できない子どもを侮辱する

  • 恐怖でコントロールする

これは、明らかに「不適切」です。
ここは、私も強く線を引きたい部分です。

大事なのは、

行為そのものではなく、「その意図」と「関わりの質」を見ること。

にもかかわらず、

  • 表面の一場面だけを切り取る

  • 「〇〇と言った=不適切」と単純にラベリングする

そんな風潮が、現場を追い詰めているように感じます。


最後に──「不適切」という言葉の前に、もう一度立ち止まってほしい

私は、保育園という場を「現代のインフラ」に近い存在だと思っています。
そこで子どもたちと向き合い、日々悩みながら保育を続けている保育者たちがいます。

皆のすべてが完璧な人間ではありません。
ミスもあれば、反省すべき点もある。

それでも、多くの保育者はこう願って働いています。

「この子が将来、困らないように」
「人との関わりの中で、自分を大切にできるように」

だからこそ、
「不適切保育だ」「人権侵害だ」という言葉を向ける前に、

  • それは本当に“子どもの未来”を守るための指摘なのか

  • それとも“今この瞬間の不快感”だけで判断していないか

を、ほんの少しだけ考えてみるべきではないだろうか。

本当に子どものことを思う大人が、
保育の現場と、もっと同じ方向を向けるように。

「不適切とは何か?」という問いを、
保育者だけでなく、社会全体で深く考え直す時期に来ているのではないかと、思っています。

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