働く先に何を見つめますか?
おとうさん、きょうはおしごと?
ちいさな足を懸命に動かして寄ってきてこう言う。
その眼の奥に光るのは、期待のまなざしのときもあれば、寂しさの訴えのときもあった。
そんな姿をみながら、「働くってなんだろう」って、考えたことがある。
最初は親のためだった。
親の体裁のためだけに仕事につくことを決めた。どうせ就くならと、自分の専門領域から少し外した仕事を選んだ。
自分のやりたかったことに半分ウソをついた形だ。
そんな仕事が続くわけがない。自分でもそう思っていた。しかし大きく専門領域を外さなかったので、他人が行う「自分がやりたいこと」をすぐ傍で見つめながら仕事をした。
仕事という言葉はとても幅が広い。十人十色の解釈があるが、本当は十色もない。せいぜい2、3色だろう。
次は家族のために仕事につくことを決めた。どうせ就くならと、自分の専門領域からかなり離れた仕事を選んだ。
自分のやりたかったことをほとんど捨てた。
それでも不思議と仕事は続いた。これは予想外だった。守らなければならないものを背負ったから頑張れたのか。自分がやりたくもない仕事をやりたかった仕事のように仕事をした。
このころから、仕事という言葉は自分の中で意味が狭まってきた。
おそらく最後。自分のために仕事につくことを決めた。どうせ就くならと今までの自分の貯金をぜんぶ使い果たす仕事を選んだ。
自分が積み上げたものをぜんぶ出すわけだ。
この仕事は確実に日々続いている。予想していた通りだった。守るべきものは既に離れ、手には自身だけが残った。いまは自分が遺したいと思った視点から仕事をするだけだ。
こうなったいま、仕事という言葉はひとつだけの意味になった。
お父さん、働くのって大変だね、いまわかったよ。
いちばん聞きたかった言葉をまだ聞けていない。
でも、いつかどこかで、自分が働く背中を見た彼が、このことに気づいてくれればいいと思っている。
仕事は働き方なんて関係ない。仕事をする意味もほんとうはない。
ただただ、仕事を続けた先に何をみるのか。
親なのか。家族なのか。自分なのか。それとも他の何かなのか。
誰もが自分の最期に見つける。続けた先にしか見えない答えを。
後記:
働き方といえば、働くこと・その周辺のことにフォーカスした内容がほとんどだと感じます。こうすればいいとか、こうなればいい、とか。ワークライフバランスとかきれいな言葉で言っている。
けれど、働くって形はどうあれ自分の命を削っていることをみんなどこか忘れているようで、そんなんでいいのかなって。
仕事は食うためだとカッコよく言うけど、この日本で本当に食うための仕事なんかない。なぜなら日本では簡単に死ねないことになってる。いろんな意味で恵まれた国だから。
ほんとうに食うための仕事とは、今日食べるものすら、着るものすら、寝るところすらない状態で考える仕事が「食うための仕事」。五体満足で健康で、冷蔵庫にはなにか食べるものがあって、雨風しのげる部屋がある状態で食うための仕事と言うことは、私にとっては憚られる。
仕事とは生きるに直結すること。生きることは人と関係していくこと。人はひとりでは生きられないから、人と関係していくなかで仕事をいうものを考えるようになる。
仕事に意味を持たせようと頭を捻るのは、たぶん、無意味だろうね。
どうせ頭を使うなら考えた方がいい。
仕事の先に何を見たいのか。
