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欲の向こう側にある命

人の欲とは、どこまでが生きるためのもので、どこからが何かを壊していくものなのだろう。 そんな問いが、ある時から私の中に残り続けている。

食べたい。眠りたい。守られたい。愛されたい。 それらは人間だけのものではない。 動物にもある、命としてごく自然な欲だと思う。 子どもが親を求める気持ちも、動物の子が親を求める本能に近い。 守ってくれる存在を失うことは、幼い命にとっては生死に関わる。 だから、その欲は悪ではない。 むしろ、生きるために必要なものだ。

自然界に生きる動物を見ても、それは同じだと思う。 食べ物を独占する。 縄張りを守る。 子を守る。 危険を避ける。 安心できる場所に身を置く。 人間の目には時に荒々しく、欲深く見える行動であっても、その多くは生き残るための自然な働きなのだと思う。 そこに善悪をそのまま当てはめることは、少し違う気がする。

けれど、人間はどうだろう。 人間にも、もちろん生きるための欲がある。 食べたい。眠りたい。安全でいたい。誰かに必要とされたい。愛されたい。 そこまでは自然なものだと思う。

けれど人間は、ある程度成長してから、ただ生きるためではない欲を覚えていく。

子どもの頃、テレビの中にはきらびやかな世界があった。 楽しそうな家族。 大きな家。 新しい車。 流行りの服。 きれいな人。 成功している人。 誰かに拍手され、誰かに羨ましがられる人生。 それらを見て、最初はただ憧れた。 ああなりたい。 あれが欲しい。 あんな生活ができたら幸せだろう。 そう思うこと自体は、きっと悪いことではない。

けれど今になって思う。 私は、知らないうちに欲望を教育されていたのではないか。 それも、かなり幼い頃から。 「あれを持てば幸せ」 「ああなれた人が勝ち」 「人より劣ってはいけない」 「もっと欲しがることが前に進むこと」 「足りない自分を、何かで埋めなければならない」 そんな考えが、気づかないうちに心の中へ入ってきていたのかもしれない。

最初はただの憧れだったものが、いつしか自分を測る物差しになる。 持っていない自分は足りない。 届いていない自分は負けている。 認められない自分には価値がない。

欲は、静かに姿を変えていく。 生きるための欲から、比べるための欲へ。 安心したい欲から、人より上に立ちたい欲へ。 愛されたい欲から、誰かを独占したい欲へ。 満たされたい欲から、足りなさを他人で埋めようとする欲へ。 そして気がついた時、人はその欲に侵されている。

これは他人事ではなかった。 自分の人生を振り返った時、私は自分の中にもその欲があったことに、うっすら気がつき始めた。 見栄。 承認されたい気持ち。 誰かに分かってほしい気持ち。 自分の価値を確認したい気持ち。 置いていかれたくない気持ち。 損をしたくない気持ち。 それらを完全に否定することはできない。 人間である以上、欲はある。 けれど、その欲がどこまでなら自分を生かし、どこから先は自分や他人を壊していくのか。 その境界線が、ずっと分からなかった。

私は、幼い頃から自分で考える時間が多かった。 両親はいた。 けれど、両親は自営業で夜遅くまで働いていた。 私は小学二年生頃まで母の実家に預けられ、日々の時間を幼いながらに自分で消化していた。 親と遊んだ記憶は多くない。 親から何かを教わった、導かれたという感覚もあまりない。 自分がどんな立場に置かれていたのかも、当時はよく理解できなかった。

だから私は、いつしか自分で考えるようになった。 何が正しいのか。 何が間違いなのか。 自分の何が人と違っていたのか。 何が足りなかったのか。 何を学び、何を大切にし、どうすれば心を維持できるのか。 誰かがはっきり教えてくれたわけではない。 自分で考え、自分で迷い、自分で傷つきながら、少しずつ探すしかなかった。

その中で、私にとってかけがえのない存在がいた。 人ではない。 言葉を話すわけでもない。 けれど、私のそばにいて、私の心を何度も支えてくれた存在だった。

その子は、私にとってただの飼い犬ではなかった。 生活の一部であり、心の支えであり、日々をつなぐ理由でもあった。 一緒に歩く時間、こちらを見上げる目、そばにいる気配。 それらは、派手な幸せではなかったけれど、私にとっては確かに生きるための時間だった。

そして、その子の最後が近づいた時、私は自分の欲と向き合うことになった。

大切な存在には長く生きてほしい。 これは自然な気持ちだと思う。 できることがあるならしてあげたい。 治療できるなら治してあげたい。 まだ一緒にいたい。 もう少しだけ時間がほしい。 それは愛情だ。 間違いなく愛情だと思う。

けれど、その愛情の中に、自分の欲が混ざっていないと言い切れるだろうか。 失いたくない。 寂しくなりたくない。 後悔したくない。 何もしなかったと思われたくない。 まだ自分のそばにいてほしい。

その気持ちは、愛情ととても近い場所にある。 だからこそ見分けるのが難しい。

動物医療について考えた時、私はそのことを強く感じた。 たとえば、歯石取りひとつを考えても、人間と動物では意味が違う。 人間なら局所的な麻酔で済むことでも、動物の場合は暴れることを防ぐために全身麻酔が必要になることがある。 それは決して軽いことではない。 命のリスクが伴う。

もちろん、医療は大切だ。 痛みを取り、苦しみを減らし、生活の質を上げるために必要な治療はある。 医療そのものを否定するつもりはない。

けれど、そこで私は考えてしまう。 それは本当に、その子が望んでいることなのか。 それとも、飼い主である人間が安心したいだけなのか。

長生きしてほしい。 健康でいてほしい。 きれいでいてほしい。 できることは全部してあげたい。 その思いは優しく見える。 けれど、そこに人間の欲が入り込むことはないだろうか。

命を延ばすことと、幸せを守ることは、いつも同じではない。 治療を受けるのは飼い主ではない。 麻酔を受けるのも、痛みを引き受けるのも、入院や不安を経験するのも、その小さな命自身だ。 人間が「してあげたい」と思ったことの重さを、本当に背負うのは人間ではない。

そのことを考えた時、私は立ち止まった。 私はこの子を助けたいのか。 それとも、私が失いたくないだけなのか。 私はこの子のために考えているのか。 それとも、自分が後悔しないために何かを選ぼうとしているのか。

答えは今も分からない。 私が選んだことが正しかったのか。 それとも浅はかな考えだったのか。 別の選択をしていれば何かが変わったのか。 その答えは、おそらく一生出ない。

けれど私は最後に、人も動物も、命あるものは自然の流れの中で生き、やがて旅立つのだと思った。 限りある時間を、できるだけ穏やかに過ごすこと。 最後に旅立つ最愛の存在を、こちらの欲で引き止めすぎず、見送ること。

それもまた、ひとつの愛情ではないかと判断した。

それは諦めではなかった。 何もしないという意味でもなかった。 むしろ、自分の中にある「まだ一緒にいたい」という欲と戦うことだった。 自分の寂しさを、その子に背負わせないようにすることだった。 命を自分の所有物にしないための、苦しい選択だった。

私は今も、その判断が正しかったとは言い切れない。 けれど、軽い気持ちで選んだわけではない。 その子の姿を見て、その子の時間を考えて、その子にとっての穏やかさを考えた。 少なくとも、私はそのつもりだった。

最愛の存在を失ってから、私はより強く人の欲について考えるようになった。

人は欲で生きている。 けれど、欲だけで生きてはいけない。

ふと今の現代に目を向けた時、私たちはあまりにも「今ある恵まれた生活を維持すること」や「もっと多くを求めること」に必死になりすぎているのではないか、と感じる。

本当に、これ以上の恵みが私たちに必要なのだろうか。 「もっと、もっと」と欲を膨らませ続ける影で、私たちは本来そこにあるべき大切な物や、穏やかな心を、自らの手で減らしてしまってはいないだろうか。

人間の膨らみ続ける欲は、ときには人の命、動物の命、そして自然のもつ美しさを壊している。

こんな個人的な場所で、こんなことを唱えても、世界の何かが変わるわけではないことは分かっている。 ですが、どんなに真面目に生きようとしても、私たちは生きているだけで、意図せず誰かを傷つけてしまうことだってある。その矛盾に、私たちはどう向き合えばいいのだろう。

大切なのは、欲を持つことではなく、欲に飲まれないこと。 多すぎる恵みを求めるのではなく、自分にとっての「ちょうどいい欲」の居場所を見つけること。

自分の欲が誰かを苦しめていないか。 自分の愛情が、相手の穏やかさを奪っていないか。 自分の寂しさを、相手に背負わせていないか。 そう問い続けることなのだと思う。

この話を人にするのは難しい。 重すぎると言われるかもしれない。 考えすぎだと言われるかもしれない。 そんなことを考えても仕方がないと言われるかもしれない。

けれど私は、考えずにはいられない。 なぜなら、私にとってこれは机上の話ではないからだ。 人生の中で、実際に大切な存在を失い、その最後と向き合い、自分の欲と向き合ったからだ。

そして今も、その子に教えられている気がする。 亡くなったから終わりではなかった。 いなくなったから、何も残らなかったわけではなかった。 むしろ、いなくなってからの方が、その子が残してくれた問いは深くなった。

何を大切にするのか。 何を手放すのか。 愛するとは何か。 見送るとは何か。 欲と愛情の境界線はどこにあるのか。 命の前で、人はどこまで踏み込んでいいのか。

その子は言葉を話さなかった。 けれど、そばにいた時間そのものが、私に多くのことを教えてくれた。 散歩の時間。 何気ない日常。 こちらを見ていた目。 そばにいるだけで心が落ち着いた気配。 そして最後に向き合った、限りある命の時間。 それらは今も、私の中で消えていない。

私はこれからも、欲に悩まされると思う。 人間である以上、きっと完全には逃れられない。 認められたい気持ちも、失いたくない気持ちも、寂しさも、後悔も、なくなるわけではない。

けれど、そのたびに思い出したい。 本当に大切なものは何か。 その欲は、誰のためのものなのか。

愛するとは、ただ自分のそばに置き続けることなのか。 それとも、相手の穏やかさのために、自分の欲を静かに下ろすことなのか。

最愛のパートナーは、もう隣にはいない。 けれど、私の中では今も生きている。 あの子が教えてくれたことは、悲しみだけではない。 命の重さ。 自然の流れ。 愛情の形。 そして、人の欲が踏み越えてはいけない境界線。

私は今も、その問いの中を歩いている。 きっとこれからも、答えは簡単には出ない。

それでもいいのだと思う。 大切なのは、答えを急ぐことではなく、問いから目をそらさないこと。 一部の隙もない正解を求めるのではなく、自分にとっての「ちょうどいい欲」の塩梅を、迷いながらも探し続けること。

そして、あの子が残してくれた時間を、自分の中で静かに生かし続けること。 欲の向こう側にある命を、忘れないこと。

それが、今の私にできる、最愛のパートナーへの向き合い方なのだと思う。