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この距離が恋になるまで|第1話 幼馴染の恋愛相談はいつも少しだけ苦しい

来栖日和(くるす ひより)、28歳
中堅食品メーカーの商品企画部 で働く一般社員

彼女には長年の癖がある。

三島陽(みしま よう)の前では気持ちを隠すことーー

陽とは幼稚園からの幼馴染。
同じ小学校、同じ中学校、
高校だけ別々になって大学でまた一緒になった。

就職してからはお互いの会社が都内で近かったから、
時々会っていた。

陽が「飲もう」と連絡してきたり
日和が「元気にしてる?」と連絡することもあった。

どちらが誘っても断ったことはほとんどない。

これまでも、これからもそういう関係だった。

陽は日和に何でも話した。

仕事の話も、愚痴も、職場の人間関係も。

恋愛についても。

日和はそれをいつも穏やかに聞いた。
笑顔で頷いて、ときどき的確なことを言う。

その都度、自分の気持ちを奥に押し込むことに日和は慣れていた。


その夜も、陽から連絡が来たのは金曜日の夕方だった。

「今日飲める?聞いて欲しいことあって」

日和は既読をつけてから、少しだけ考えた。

「聞いてほしい」というのは、
陽が何か悩んでいるときのサインだ。

長い付き合いで、LINEの文面を見ただけで想像がつく。

「いいよ、いつものとこ?」
と返すと、

「うん、19時でどう?」
とすぐに返信が来た。

日和はスマートフォンをバッグにしまい、
今日の作業を切り上げる段取りを頭の中で立てた。


いつもの居酒屋は、
駅から3分ほど歩いた所にある。

店の中は板張りのカウンターと小上がりが数席あるだけのこぢんまりした店だ。

陽はすでに来ていて、
カウンターの端の席でビールを飲んでいた。

日和を見つけると
「日和、こっちこっちー」
と軽く手を上げた。

「待った?」

「さっき来たとこ。レモンサワー?」

「うん」

陽は店員にレモンサワーと何品か食べるものを注文する。

陽は私の好きな唐揚げとだし巻き卵を頼む。

聞かなくてもお互いのことは大体分かっている。

日和はそう思いながら、陽の隣に座った。

冬の居酒屋は暖かかった。

揚げ物の匂い
誰かの笑い声
グラスが当たる音

この賑やかな空間が心も体も少し温まる。

日和はコートを脱いでレモンサワーを飲んだ。
炭酸の苦みが喉を通り疲れが少しだけどこかに飛んでいく。

「それで、どうしたの?」

単刀直入に聞くと陽は少し間を置いた。

陽が間を置くのは珍しかった。

いつもは思ったことはすぐ口にするのに。

「最近、気になってた人がいてさ…」

過去形だった。

「うん」
と日和は短く答える。

「プロジェクトでしばらく一緒だった子がいたんだけど。
ちゃんと気持ち伝える前になんか分かっちゃって。
その子に好きな人がいるって。
相手も俺じゃ到底敵わない完璧人間みたいな人でさ」

「……そっか」

「気づいてたのになんか引きずって。
すっきりしないっていうか、うまく言えないんだけど」

陽にしては珍しく言葉が滑らかに出てこなかった。

グラスを両手で持って中を見ながら話していた。

日和はいつも通り話を聞く体勢を作った。

陽が言いたいことを全部出せるように。
それがいつも通りの自分だから。

「ちゃんと向き合わなかった、っていう後悔がある気がして」

陽がそう言った。

「そうなの?」

「うん、なんかその子のことをちゃんと見てなかったっていうか。その子の気持ちに気づいてからは自分の気持ちを伝えるのに必死で」

日和は頷きながら、
グラス飲み口を親指でなぞった。

(また、聞く側だ)

そう思いながら日和は笑顔は崩さなかった。

これまで崩したことは一度もなかったーー


それから2時間ふたりは飲んだ。

陽の話が一段落してからは他愛のない話になった。

お互いの職場のこと
共通の友人のこと
年末の予定

陽のペースが上がってきたのは3杯目あたりからだった。

「陽、今日ペース早くない?」

「大丈夫大丈夫。日和といると進むんだよな、なんか」

「どういうこと」

「そういうこと」

陽は4杯目を頼んだ。

日和は苦笑いをしながらお通しの枝豆を口にした。

陽が楽しそうな顔をしていると思った。

さっきまでの少し曇った表情が晴れてきている。

日和は来てよかったと思う。

それが癖になっているのだと日和は知っていた。

陽が楽しそうだと日和も安心する。

それがずっと日和にとっての「当たり前」だった。

5杯目が来た頃、
陽の話し方がゆっくりになってきた。

「日和ってさ…」

「うん」

「なんでそんな、俺の話聞いてくれんの?」

「幼馴染だから」

「それだけ?」

日和は1秒だけ止まった。

「……それだけ」

「ふーん」

陽はそれきり黙った。

グラスを持ったまま目を閉じた。
そのまま何も言わなくなった。

日和は陽の横顔を、しばらく見ていた。

相変わらず綺麗な顔してるなと思った。
幼い頃から知っているのに…

大人になってからの陽の顔をこうして見ると、
知らない部分がまだあるような気がして不思議だった。

「……陽?」

返事がなかった。

肩が規則正しく上下していた。

寝ていた。


日和は小さくため息をついた。

呆れているわけではない

昔からそうだ
陽は限界まで飲むと急に落ちる
大学の頃から変わらない

日和はそれを知っているから驚きもしなかった。

それから陽を見つめた。

カウンターに腕を置いて、
その上に顔を埋めるようにして眠っている。

少しだけ前髪が乱れていた。

日和は手を伸ばした。

そっと陽の髪に触れた。

撫でるように一度だけ。

いつもはこんなことしないのに自然と手が動いた。

陽の前髪が、指の間をすり抜けた。

(陽、飲み過ぎだよ)

そう思い手を引こうとした。

そのとき陽の目が少しだけ開いたーー


ゆっくりと、薄く開く陽と目が合う。

完全に覚醒しているわけではなかった。
でも陽の目は開いていた。

日和は固まった。

とっさに陽の頭から手を離す。

陽は何も言わなかった。

ただ、日和を見ていた。

普段の気さくで明るい陽の目ではなかった。

静かで
真剣で
日和がこれまで一度も見たことのない目だった。

日和の心臓が大きく跳ねた。

「……起きてた?」

動揺して声が少し震えた。

陽は何も言わなかった。

日和の顔をただ見つめていた。 
何かを確かめているようだった。

ずっと近くに居たのに見えていなかった何かを。

今夜初めて見つけたような
そういう目だった。

日和はうつむいた。

「ごめん、髪にゴミついてたから…」

「……うん、ありがと」

陽の声がいつもより少し低かった。

日和には分からなかった。

本当は起きていたのか
いつから見ていたのか

日和はグラスを持って残りを飲み干した。

頬が熱かった。

お酒のせいにしようと思った。

陽のあの目が脳裏に張り付いて離れなかったーー


店を出たのは、22時を少し回った頃だった。

冬の夜風が火照った頬を冷ましてくれる。

陽は酔いが少し覚めたのか
足取りもしっかりしていた。

でもいつもより静かだった。

日和は前を向いたまま歩いた。

陽も何も言わなかった。

ふたりの足音だけが駅の方向へ向かっていった。

改札の前で、陽が立ち止まった。

「日和」

「ん?」

振り返ると陽が日和を見ていた。
いつもの陽の目でーー

「今日はありがとう」

「いつものことでしょ」

「そうだな」

陽は頷いた。
それから少し間を置いて、「またな」と言って改札を通った。

日和はその背中を見送った。

(いつものことでしょ)

自分で言った言葉を、頭の中でもう一度言った。

ーーいつものこと

これまでずっとそうだった。

陽の話を聞いて相槌して、
それが日和にとっての「当たり前」だった。

なのに今夜は、帰り道の足が少し重かった。

陽のあの目が、まだ胸の中に残っていた。

いつもと違う目だった。

まだ陽の知らない部分があるんだ——

日和は首を振った。

考えすぎだ
陽は酔っていた
半分眠っていた

あの目に特に深い意味なんてない

きっとそうだ

そう思うことにして改札を通った。

ホームに出ると冬の風が吹き抜けた。
遠くで電車が来る音がした。

日和はマフラーを直しながら
もう考えないようにしようと思った。

そう思いながら陽の前髪が指の間をすり抜けた感触を
まだ右手に感じていた。


【第2話へ続く】幼馴染の知らない顔 ——翌週、陽から連絡が来た。「今日時間ある?」それだけなのになぜかいつもと違う気がした。



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