民俗学断簡 みちのく遥か 鳴子温泉郷の歴史と文化
前回は伊達政宗を取り上げましたが、その過程で一つ心残りがありました。
政宗が仙台へ移る以前の拠点であった岩出山(現・大崎市)。その地にほど近い鳴子温泉郷です。
主題が政宗その人にあったので軽く触れるに留めましたが、ただ鳴子温泉郷と書かれても困惑したのではないでしょうか。
そこで今回は鳴子温泉郷の成立過程から近代以降の展開、さらに泉質と文化の関係に至るまでを改めてご紹介します。

歴史
鳴子温泉の歴史は東北地方でも特に古い部類に属し、その起源は平安時代の火山活動にさかのぼります。
現在の鳴子温泉郷は、鳴子・東鳴子・川渡・中山平・鬼首の五地区から成り、いずれも地熱活動によって生じた温泉を基盤として発展してきました。
成り立ち
鳴子温泉の歴史的起点として広く知られているのは、細部の年次には諸説あるものの承和4年(837年)の火山噴火です。
正史である続日本後紀には、この火山活動によって温泉が湧出した旨の記録が見られます。
鳴子周辺では、温泉は信仰の対象としても早期から認識されていました。温泉神や温泉石神を祀る社の存在は、その象徴です。
平安時代中期に編纂された延喜式に温泉石神社や温泉神社に関する記載が見られ、この地の温泉が朝廷の認識するところであったことを示唆しています。

鳴子温泉駅から車で10分
中世から近世への展開
中世に入ると、鳴子温泉は湯治場としての性格を強めていきます。
とりわけ鬼首温泉は12世紀末(寿永・文治年間)の開湯と伝えられ、その後、東鳴子・中山平・鳴子・川渡といった各地が順次開かれました。
16世紀から17世紀にかけてこれらの温泉地は一つのまとまりとして認識されるようになり、18世紀には「玉造十五湯」と総称されるに至ります。
これは泉質の多様さと湯量の豊富さを示す呼称であり、鳴子の特色をよく表しています。
江戸時代には東鳴子の湯が仙台藩の御用湯とされ、藩内外の人々に利用されました。
地理学者の林子平が訪れたとする伝承もあり、この頃にはすでに名湯としての評価が確立していたと考えられます。

明治以降の発展
明治期に入ると、鳴子温泉郷は従来の湯治場から近代的な温泉地へと転換していきます。
最大の契機は交通網の整備であり1917年に陸羽東線が開通すると、仙台・山形方面からの往来が容易になりました。
これにより従来の長期滞在型の湯治客に加え、短期滞在の観光客が増加し利用形態が多様化します。
大正から昭和初期にかけては、各温泉地がそれぞれの特徴を保ちながら発展しました。
鳴子は温泉街としての中心機能を担い、旅館や商店が集積します。

東鳴子や川渡は従来通り湯治色を残しつつ、地域住民と結びついた利用形態を維持しました。
中山平や鬼首は地熱資源の豊かさを背景に、新たな開発が進みます。

またこの時期、鳴子こけしに代表される民芸文化も確立します。木地師の技術と湯治客の土産需要が結びつき、地域文化として定着しました。

温泉地が療養の場に留まらず、文化的価値を持つ観光地へと変化した点は非常に重要です。
戦後になると高度経済成長とともに団体旅行が普及し、鳴子温泉郷も観光地としての性格をさらに強めます。大型旅館の建設や道路整備が進み、受け入れ体制が拡充されました。
一方で古くからの湯治文化も完全には失われず、自炊湯治宿などの形で存続します。
平成以降は観光需要の変化により団体客が減少し、温泉地全体が転換期を迎えます。
その中で鳴子温泉郷は「泉質の多様性」や「湯治文化の継承」といった本来の強みを再評価し、個人旅行や長期滞在志向への対応が進められてきました。
明治以降の鳴子温泉郷は、交通の発達を契機に「湯治場」から「観光地」へ、さらに「体験型温泉地」へと段階的に性格を変えながら発展してきたと言えます。

鳴子温泉郷の泉質
鳴子温泉郷の価値を語る上で外せないのは、国内で定義される10種の泉質のうち9種が集積するという、性質の異なる湯を体験できる点にあります。
その象徴的な対比が東鳴子温泉の黒湯と、中山平温泉の炭酸水素塩泉です。
前者は有機物と硫化水素系成分を含むことで黒く濁り、油臭を伴う重厚な湯であり、後者は無色に近く滑らかな肌触りを持つ、いわゆる「美人の湯」として知られます。
同じ地域にありながら感覚的には対極に位置するこの差異が、鳴子の特異性を端的に示しています。

さらにこれに対し川渡温泉の単純温泉は刺激が少なく、湯治の「仕上げ」として用いられてきました。
濃厚な湯で体に負荷をかけた後穏やかな湯で整えるという利用法は、単一の泉質では成立しにくい文化です。
ここに泉質の多様性が、実際の利用に結びついている様子が見て取れます。
一方で火山性の性格を強く示すのが、鬼首温泉に多い硫黄泉や酸性泉です。
白濁し強い臭気を放つ硫黄泉は典型的な温泉像を体現するものであり、殺菌力の高い酸性泉とともに自然の力を直接的に感じさせる領域を担っています。
これらの間を埋めるように塩化物泉や硫酸塩泉、含鉄泉といった泉質が分布します。
塩化物泉は保温性に優れた「熱の湯」として寒冷地での実用性を持ち、硫酸塩泉は血行促進、含鉄泉は酸化による色調変化といった視覚的特徴を伴います。
重要なのはこれらが個別に存在するのではなく、近接した空間内で比較可能である点です。
したがって鳴子温泉郷の真の魅力は、九種の泉質を比較的短時間の移動で体験できる構造にあります。
黒湯と美人の湯の落差、強い湯と仕上げの湯の循環。この対比の連続こそが、鳴子温泉郷を一つの体系として成立させている要因といえるでしょう。

文化との結びつきと伝承の構造
鳴子温泉は文学・信仰・民間伝承が交差する、文化的空間としての麺もあります。
鎌倉時代の歌学書である八雲抄において名取(現 秋保温泉)や飯坂(福島市)と並ぶ名湯として言及されている点からも、早い段階で広域的な認知を得ていたことが確認できます。
また温泉の成立と同時に創建されたと伝えられる温泉神社の存在は、湯と信仰が不可分であったことを象徴します。

温泉は神意の現れとして受け止められており、その認識は続日本後紀や延喜式にも見られます。
こうした背景のもとで形成された鳴子の逸話群は、史実と伝承が重なりながら発展していきました。
最も古い層は、自然現象の記憶に基づくものです。
承和年間の火山活動に伴う轟音や噴気の印象から「鳴郷の湯」と呼ばれ、それが「鳴子」へと転じたとする地名由来は、自然の体験を言語化した語源譚といえます。
同時に温泉の出現を契機として神を祀ったとする伝承が成立し、温泉を神聖視する観念が早期に形成されました。
中世に入ると、これに人物伝説が重ねられます。
中心となるのは源義経に関する逸話であり、いわゆる「啼き子」説が広く知られています。
義経が奥州へ向かう途上、この地で生まれた子が温泉に浸かった際に初めて声を上げたことから「鳴子」の名が生まれたとする話です。
さらに姥の湯では郷御前と子の亀若が湯治を行ったとされ、個人的な感情や家族の情景を重ねた物語が展開します。
史実性はさておいて、これらは英雄の悲劇性や人間性を強調する役割を持っています。
近世になると温泉は、具体的な効能と結びついた霊験譚を伴うようになります。
伊達慶邦の夫人が湯治によって懐妊し、後に伊達宗基を授かったとする「子宝の湯」伝説はその典型です。
この種の逸話は、温泉の実用的価値を社会的に裏付ける役割を果たしました。
同時に東鳴子では湯殿山神社の神を勧請したとする伝承があり、修験道的な山岳信仰と温泉信仰が結びついていきます。
さらに時代を横断して語られるのが、壇ノ浦の戦い後の平家落人伝説です。
敗走した一族がこの地に至り温泉を発見したとする物語は東北各地に共通する型を持ち、土地に歴史的由緒を付与する機能を担っています。

味噌を青じそで包み油で揚げる、または焼く
甘辛い仙台味噌としその香りがたまらない
以上を踏まえると鳴子温泉郷の価値は、「泉質の多様性」のみに説明されるものではないといえます。
九種に及ぶ泉質が一地域に集積する点は確かに特異です。
ですがそれ以上に重要なのは、鳴子の温泉がいかに理解され利用されてきたかという歴史的・文化的過程です。
泉質の多様性はその一側面にすぎず、自然・信仰・伝承・実用の重なり合いにこそ本質的価値があります。
この構造的理解を踏まえることで、鳴子温泉郷の評価はより明確なものになるといえるでしょう。

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※本稿は私が勝手に思いつき、勝手に書きました。誰に依頼された訳でもありません。
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