民俗学断簡 江戸時代の札仙広福
江戸時代の暮らしというと、握り寿司や天ぷら、蕎麦といった「江戸の食文化」が思い浮かびます。
しかしこれは江戸が人口百万人クラスの世界的大都市であり、幕府の記録や武家の日記、浮世絵、芝居の番付といった史料が豊富に残っているからこそ語れることです。
私たちが「江戸時代の暮らし」として思い描いているものの大半は、実際には「江戸の暮らし」です。
冒頭の外食文化について先に触れておきますと、握り寿司や天ぷらの屋台、二八蕎麦屋がそこら中にあったというのも江戸ならではの現象です。
江戸はそもそも参勤交代で家族を国元に残してきた武士や、明暦の大火の復興で集まった大工・左官といった独り身の男性が非常に多い、特殊な人口構成の街でした。
幕末の見聞録『守貞漫稿』によれば当時の江戸は男女比がおよそ1.8対1という、男性が著しく多い町だったとされています。
そうした独身男性たちのためにササッと食べられる屋台飯が発達したわけで、いわば「単身者向けファストフード」が爆発的に普及したのが江戸の外食文化、その土台の一つだと言えます。

同じ『守貞漫稿』は、江戸と京・大坂(京坂)の違いも記録しています。
京坂の繁華街では飲食店が「4〜5区画に1軒」程度だったのに対し、江戸では「どの区画にも1軒はある」というほどの密度だったというのです。
京坂は同じ三都の一角でありながら、江戸ほど外食需要が高くなかったということになります。
ちなみに好まれた麺も対照的で、江戸は蕎麦、京坂はうどんという土地柄の違いも記録されています。
つまり百万都市という規模だけでは説明がつかず、人口構成の歪みこそが江戸の外食文化を異常な密度に押し上げていた、ということがうかがえます。
ただし京坂も江戸と並ぶ三都の一角ですから、これはあくまで「同じ大都市同士」での比較に過ぎません。
江戸時代中期から後期には商業地や城下町などに店が開かれていますが、その数は町場に1~2軒というものだったようです。(千葉県立中央博物館(体験博物館「房総のむら」)「商家の町並み そば屋」)
一方、江戸では幕末に3,763店という異常な数に達していますから、この差は歴然。
地方の城下町は家族で住む武士や町人が中心だったため「家で食べるのが当たり前」で、外食需要そのものが薄かったと考えられます。
やはり江戸の生活形態は、例外中の例外。
では、地方の城下町で人々は何を楽しみに生きていたのでしょうか。
その手がかりとして、現代において位置、規模的に地方の核とされる札幌・仙台・広島・福岡、いわゆる「札仙広福」を例に調べてみました。
ただし札幌については、この時代まだ都市と呼べる段階には達していなかった点を先に断っておきます。
(歴史にお詳しい方ほど、その時期に札幌は都市じゃないだろうとお思いでしょうから)
ここで最初に立ちはだかるのが「史料の差」という壁です。
江戸は幕府の所在地だったため行政記録がきっちり保存されましたが、地方の城下町の記録は各藩の文書頼みで、廃藩置県の混乱や空襲によってかなりの史料が失われてしまいました。
エンタメの題材として江戸以外があまり扱われないのも、きっとこの史料の差が原因でしょう。
そのため「絶対こうだった」と言い切れない部分も多いのですが、分かる範囲で見ていきたいと思います。
札幌 まだ街になっていなかった
江戸時代を通じてほとんど記録の存在しない土地なので、まず番外編として札幌の話を。
地名の「サッポロ」自体はアイヌ語由来で、もともとは豊平川流域を指す川の名前でした。
乾いた大きな川を意味する「サッ・ポロ・ペツ」の略とされ、江戸後期の探検記録にもその表記が出てきます。
当時このあたりは松前藩の和人地ではなく「蝦夷地」とされ、現在の札幌市域にもアイヌの人々の生活圏がありました。
経済的には「場所請負制」という仕組みのもとにあり、現在の札幌・石狩周辺は「イシカリ場所」という交易圏の一部でした。
和人の拠点として石狩川河口の運上屋などが置かれていましたが、都市と呼べる規模ではありませんでした。
一方、現在の札幌市域にはアイヌの集落が存在していたことが記録から伺えます。
藻岩山の山裾あたりに、「サッポロコタン」と呼ばれる集落があったとみられています。これが札幌の地名の直接の起源という説もあります。
ただこうした記録は和人の探検家や役人が残した日誌からの推定にとどまるので、江戸の城下町のような詳しい人口統計などは残っていません。
そして、江戸時代も終わりに近い慶応2年(1866年)に開発が始まります。
箱館奉行所の役人・大友亀太郎が幕府直営農場をつくるよう命じられ、現在の札幌市東区にあたる場所に「大友堀」という水路を掘削。
この水路は明治政府が札幌本府を建設する際の幹線水路としても使われ、今の創成川の一部にその痕跡が残っています。
江戸時代の札幌は、これから開拓する予定地として記録に登場し始めたばかり。
数百年続いてきた他の城下町とは、スタートラインが違う街でした。
仙台 官と祭りの街
仙台といえばまず仙台味噌。
これは伊達政宗が朝鮮出兵の際に持っていった味噌が、他藩のものより腐りにくいと評判になったのがきっかけです。
政宗は城下に軍用味噌の自給工場「御塩噌蔵」を作り、商人に製造・運営を任せました。
江戸藩邸に常駐する仙台藩士3000人分の食糧は仙台から運ばれていて、味噌もその一部。
江戸の庶民の間でも評判になり、伝手を頼って手に入れようとする人もいたとか。

ちなみに笹かまぼこは政宗の家紋「竹に雀」にちなむと紹介されることが多いですが、実際は明治中頃のヒラメ豊漁を背景に生まれた保存食。
家紋に似ていたから後付けで名付けられたもので、江戸時代の食文化ではなく明治からというのを添えておきます。

仙台の菓子文化にも触れておきましょう。
現在「仙台駄菓子」と呼ばれている菓子文化の背景には、伊達家の茶の湯文化に伴って発達した菓子作りがあります。
黒砂糖やきな粉、水飴などを使った素朴な菓子が作られ、藩主から庶民まで甘味を楽しむ文化が育っていきました。

「仙台駄菓子」という名称そのものは近代になってから定着したものですが、その土台となった菓子文化は江戸時代からの歴史があります。
現存する老舗・玉澤は1675年(延宝3年)創業で、伊達家にも菓子を納めていた記録が残っています。
代表銘菓の一つ「しおがま」は江戸時代の名産品「南京糖(藻塩糖)」を原型とし、仙台藩主が鹽竈神社参詣の際にお茶うけとして献上した記録も残っています。

当時有名な祭事は、東照宮の祭礼(仙台祭)。
2代藩主伊達忠宗が始めたもので、1655年から1852年までの約200年間に114回も開催されました。
城下を一周する約10キロの行程を数千人規模の行列が渡御する、藩政時代を通じて仙台最大の祭りでした。
運営の中心は大町・肴町など商業上の特権を持つ「御譜代町」と呼ばれる8つの町で、神輿や山車を出すことが義務づけられていました。
祭りの運営自体が名誉と社会的地位の表明、町人たちの財力と趣向のお披露目の場にもなっていました。

七夕についても政宗自身が和歌を8首詠んでいるので、当時から行事として取り入れていたことがわかります。
代表的とされているのが
「七夕は 年に一たび 逢ふ夜なれば あらぬ別れを 誰も惜しむらん」
意 七夕は年にたった一度だけ逢える特別な夜であるから、織姫と彦星の(明日の)別れを、誰もが我がことのように惜しんでいるのだろう。
伊達男ですね。
ただし、現在の仙台七夕のように巨大な吹き流しが街を埋め尽くす形になったのは後世のことです。
仙台藩には城下から少し足を伸ばした場所に、もう一つの大きな顔がありました。
松島です。

寛永20年(1643年)。
儒学者・林春斎が著書『日本国事跡考』の中で陸奥の松島、丹後の天橋立、安芸の宮島を優れた景観として記したことが「日本三景」という呼び名の由来。
別稿で伊達政宗について取り上げた時にも触れましたが、政宗自身も松島整備に力を入れています。
戦国時代を経て衰退していた円福寺を慶長9年(1604年)から同14年(1609年)までかけて全面改築し、桃山様式の本堂を中心とする瑞巌寺として再興しました。
この建築群は今も国宝として残っています。
交通・経済の面でも、松島の道は奥州街道の枝線である浜街道に属し、塩竈神社や金華山参りに向かう人々が通る分岐点になっていました。
高城には荷の積み下ろしをする役人や商人が泊まる旅館・商人宿が並ぶ賑やかな宿場になっていました。
お土産には焼きハゼなどの魚介類のほか、こうれんせんべい(まだ作られています)、福浦島の竹で作った印鑑、そして松島焼という陶器まで。
特に興味深いのが”せっこく(石斛)”という蘭科の植物。

鉢植えの状態(花をつける前)で販売しており、江戸から来た旅人は松島から江戸まで持ち帰った、なんて噂話が当時は流れていたようです。
俳人・松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に瑞巌寺へ参詣したことも、後の松島の知名度を大きく支えました。
仙台藩は城下での祭礼や特産品とは別に、藩主自らが整備し演出した景勝地という資産を持っていたわけです。
歓楽街については、江戸の吉原みたいなものは仙台にはありませんでした。
今「東北一の歓楽街」と言われる国分町は、江戸時代は本陣を中心に旅籠が集まる宿場町的なエリアでした。
遊郭ができたのは1869年(明治2年)、官軍が仙台城に入城した際の要請がきっかけ。
藩政時代には大規模な公認遊興街はなく、城下の楽しみは御譜代町の商業の賑わいや寺社の祭礼・縁日、そして仙台祭のような年中行事に集約されていたようです。
仙台に限らず地方の城下町では、江戸三座のような常設の大芝居小屋は許可的、採算的理由から持てず、寺社の境内に仮設小屋を組んで興行するのが一般的でした。
(讃岐の金毘羅などのように、この仮設興行から常設劇場に発展した珍しいケースもありますが)
仙台でも東照宮祭礼に合わせて臨時の芝居などがあったのではと推測されますが、ここは仙台固有の具体的な記録までは見つけられませんでした。
江戸が日常的に消費できる娯楽が密集した都市だったのに対し、仙台は年中行事や名所に向けて街全体が盛り上がるというメリハリ型の楽しみ方をしていたようです。
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