民俗学断簡 芦屋道満 悪役に「された」陰陽師
あなたの知っている「道満」は、本物でしょうか。
悪者。邪悪な陰陽師。安倍晴明に敗れた宿敵。
芦屋道満という名前を聞いて、多くの方が思い浮かべるのはそうした姿ではないでしょうか。
しかし、その人物像の多くは史実ではありません。
史料の中の道満
「芦屋道満」という名前は現在では広く知られています。しかし平安時代の史料には、この呼び名は見当たりません。
史料に現れるのは、「道満」あるいは「道摩法師」という人物です。
『古事談』や『宇治拾遺物語』にも登場しますが、「芦屋」という姓を冠した呼び方は見当たりません。
現在の研究では、「芦屋道満」という呼称が広く定着するのは中世以降と考えられています。
実在したとみられる術者に各地の伝承や説話が結び付き、後世の物語の中で現在知られる人物像が形成されていったとみられています。
道満は古くから播磨国、現在の兵庫県西部との関わりが伝えられてきました。
南北朝期に成立した播磨の地域史料『峯相記』にも播磨との関係を伺わせる記述があり、後世の伝承でも播磨は道満ゆかりの地として語られています。
播磨は古くから畿内と西国を結ぶ交通の要衝であり、大陸文化の流入する玄関口でもありました。
また山岳信仰や修験道が盛んな地域としても知られ、呪術や霊験に関する伝承が数多く残されています。
こうした土地柄が、在野の術者に関する伝説を育んだ可能性は考えられます。
ただし播磨が民間陰陽師の中心地だったことや、道満がその代表的人物だったことを示す明確な根拠は存在しません。
政争と呪術
道満が生きた平安中期は、藤原道長が権力を掌握していく時代でした。
当時の人々は病気や災害、突然の死や政変の背景に、怨霊や呪詛といった目に見えない力が働いていると考えていました。
そのため陰陽師や僧侶は国家や貴族社会の安定を支える重要な役割を担っており、呪詛はしばしば政治や権力闘争と結びつく問題でもありました。
道満が歴史と結び付けられるのは、藤原道長をめぐる呪詛の説話です。
寛弘6年(1009年)2月、とある呪詛が発覚しました。
背景には当時権力を握っていた藤原道長と、かつて権勢を誇った藤原伊周(定子の兄)との対立がありました。
伊周は長徳の変で一度失脚しており、この事件で疑われたのは伊周の縁者たちです。
源方理・高階光子(佐伯公行の妻)らが犯人として浮かび上がりました。
尋問された法師陰陽師の円能が自白したところによると、前年12月に伊周の叔母である高階光子・佐伯公行夫婦と、伊周の義兄である源方理から呪符の作成を依頼されたとのことです。
呪詛の対象は彰子・敦成親王・道長。
源方理の妻は源為文の娘で、高階光子の父は高階成忠、姉には高階貴子がいました。
貴子は道隆(道長の兄)の妻で、伊周・隆家・定子の母です。つまり関係者は皆、伊周側の人脈でした。
事件発覚後、光子は捕縛前に逃亡し検非違使が屋敷に向かった時にはすでにいませんでした。
関係者は官位を剥奪され、伊周も朝参停止の処分を受けています。とはいえ伊周が本当に指示したのかどうかは、はっきりしません。
取り調べの記録は主に『政事要略』に残されており、『小記目録』(『小右記』の抄録)には円能が道長を呪詛したという短い記述が見えます。
一方で道満(道摩法師)が道長を呪ったという話は『宇治拾遺物語』などの説話集に語られるのみで、道満がどこまで実際に関わったかは史料からは判然としません。
道満はこうした説話集に登場する程度の存在に留まっており、実像を推測する資料は乏しいと言わざるを得ません。
雑話 法師陰陽師の術
法師陰陽師たちは、実際にどのような術を用いていたのでしょうか。
まず挙げられるのが「厭魅(えんみ)」です。
相手の名前や髪・爪などを人形に託し呪文を唱えて呪物とし、相手の住居の床下などに埋める、あるいは隠すという手法でした。
律令ではこの厭魅と「蠱毒(こどく)」が呪詛の代表的な手口として禁じられており、発覚すれば重罪とされました。
一方で呪詛をかけるだけでなく、かけられた呪いを打ち消す「解除(げじょ)」も法師陰陽師や官人陰陽師にとって重要な役割でした。
安倍晴明が藤原道長や藤原実資のために行ったとされる祓えの多くも、この解除にあたります。
呪詛と解除は表裏一体のものであり、陰陽師たちは攻めと守りの両面を担っていたことになります。
用いられた呪文や真言についても、陰陽道以外に道教・密教・修験道に由来するものを組み合わせて用いていたと考えられています。
式神を操る逸話は安倍晴明と共に伝えられますが、法師陰陽師一般がどこまで式神を用いたとされているかは、記録の上では確かめようがありません。
こうした呪詛や祓いは貴族からの依頼を受け、報酬を得て行われる仕事でもありました。
先に触れた円能法師らによる藤原道長呪詛事件は、法師陰陽師が誰に依頼され何を目的に呪詛を行ったかを具体的に伝える数少ない事例です。
道満自身がどのような呪法を用いたとされているかについては不明ですが、占いと祈祷の間を行き来しながら貴族社会の不安と権力争いに深く関わっていたという輪郭だけは伝わっています。
創作が生んだ「芦屋道満」
史料から確認できる道満の姿はごく限られており、現在多くの人が思い浮かべる「芦屋道満」は、中世から江戸時代にかけて形成された伝説の人物像です。
中世には各地の伝承が結び付き、「芦屋道満」という呼び名が広く定着していきます。
出自についても『峯相記』は播磨国を、『簠簋抄』は薩摩国を伝えるなど諸説あります。
実在したとみられる術者に土地の伝説や民間信仰、播磨の陰陽師伝承が重ねられたと考えられます。
道満は実在がうかがえる人物でありながら、生涯の大半は史料の空白に覆われています。
史料の空白が大きい人物ほど、創作者は自由に物語を作ることができます。
中世から江戸時代にかけては、善悪が明確な勧善懲悪の物語が広く好まれました。
そうした作品世界の中で、道満は「主人公と対立する術師」という役割を担い、やがて「邪悪な陰陽師」という印象が定着していったのでしょう。
もちろんこれは文学や芸能の発展を踏まえた研究上の解釈であり、当時の作者がその意図を明言しているわけではありません。
近世に入るとこのような伝承は浄瑠璃に取り込まれ、17世紀後半以降は人形浄瑠璃・歌舞伎の題材として繰り返し脚色されました。
道満は英雄を引き立てるための敵役として、こうした作品群の中で完成度を上げていきます。
江戸時代に形作られた道満像は、その後も講談や歌舞伎、小説を通して語り継がれました。
そして現代では漫画、アニメ、ゲーム、映画などさまざまな作品に登場し、多くの場合は「安倍晴明の宿敵」「邪悪な陰陽師」として描かれています。
こうした人物像は創作として定着したものであり、史料から直接導かれたものではありません。
それでもこのイメージが長く受け継がれてきたのは、道満が「謎の多い術者」という史実と「英雄に立ちはだかる宿敵」という、ある種の魅力を兼ね備えた存在だったからなのでしょう。
一石を投じる者はいた
ただし、この悪役化の流れが一貫していたわけではありません。
享保19年(1734)の『芦屋道満大内鑑』は、先行する浄瑠璃・歌舞伎作品を集大成しながらも、従来の敵役像を改め道満をあえて善人として描き直すという大胆な翻案を加えています。
天文博士・加茂保憲が急死し、秘伝書『金烏玉兎集』の後継者として安倍保名と芦屋道満のどちらを選ぶかをめぐり、宮中で争いが起こります。
保名の主・小野好古と、道満の主・橘元方がそれぞれの弟子を推し、決着はくじによる神意に委ねられることになります。
この過程で東宮の妃をめぐる嫉妬や陰謀が絡み、六の君の失踪といった宮廷内の騒動も重なっていきます。
三段目では道満が主君元方の企てに巻き込まれながらも、父・将監の犠牲によってその陰謀を食い止め、忠義を尽くす姿が描かれます。
一方、保名は狐狩りの最中に助けた白狐と、許婚・葛の葉姫の姿を借りたその狐との間に契りを結び、一子をもうけます。
四段目「葛の葉子別れ」では正体を明かした狐が、我が子と保名に別れを告げて信太の森へ去っていく場面が描かれ、この段が今日でも最も知られた見どころとなっております。
この保名と白狐の間に生まれた子が、後の安倍晴明であるという出生譚を織り込みながら、物語は幕を閉じます。
しかしこの善人としての改変は、道満像全体の受容においては例外にとどまりました。
講談以降、そして近現代の作品では、再び「晴明の宿敵」という従来型の敵役イメージが引き継がれていくことになります。

芦屋道満という人物を振り返ると、史実として裏付けられる部分はごくわずかです。
史実の道満と、物語の芦屋道満。
両者は同じ名前を持ちながら、もはや同じ人物ではないのです。
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