怪談 仕上がらなかったムカサリ絵馬
正月を迎える前の神社は、いつもより神聖なものに感じられた。
参道の落ち葉はすでに掃き清められ、拝殿のしめ縄も新しいものに替えられている。
それでも境内全体には清らかさとは別の、どこか宙に浮いたような空気も溜まっているように感じた。
今日は人の来ない時間帯を選んで、氏子の数人が呼ばれ掃除に駆り出されている。
俺と彼女も、親の代理として来ていた。
「あれが、そう」
彼女が拝殿脇の物置を指差す。あそこが担当箇所らしい。
普段は鍵が掛けられていて、年に一度この時期だけ開けられる場所だという。
扉を開けると、埃の匂いが押し寄せてきた。
「こりゃあ、ひどい。本当に出入りがないみたいだ」
「大したもの、なさそうだし」
彼女は淡々と言った。こういう場所に慣れているような口ぶりだった。
扉を開け放ち、少しでも空気が入れ替わるようにしてから、俺たちは掃除を始めた。
箒を動かすたび、乾いた音が天井に跳ね返る。
梁は低く、照明も裸電球がひとつ垂れ下がっているだけだった。用途の分からない空の木箱や、古い板が無造作に積まれている。
「マスク、持ってくればよかったね」
寒さと埃に気を取られながら、俺は黙って頷いた。
汚れが入り込む気がして、あまり口を開けたくない。
早く終わらせてしまおう。
未完成の絵馬
何時のものかも分からない蜘蛛の巣。
去年の担当者が手を抜いた証拠に、内心文句を言いつつ天井近くを掃いていた。
その時、箒の先が引っかかった。
見上げると板張りの天井の一部だけ、わずかに段差がある。表からは分からないが内側にもう一枚、古い板が重ねられているらしかった。
近づいてみるとその板は本来あるべき位置から、ほんの僅かに沈み込んでいた。
ずれというより重みに耐えきれず、内側へ落ちかけているように見える。
留め具だったはずの木楔は痩せ細り、触れてもいないのに軋む音がした。
板の裏には、小さな木箱のようなものが見えた。かなり古そうだ。
簡単には手が届かない、まるで隠すような置き方だった。天板の劣化がなければ分からない位置。
箱の蓋は閉じられていた。釘も打たれ封の紙も貼られている。ただ封紙の端は剥がれ、釘も明らかに腐っている。
取り出そうとは思わなかった。掃除だけでも面倒なのに、これ以上の厄介事は勘弁してほしい。
去年の人だって真面目にやってなさそうだし、この位はいいだろう。
なにも見なかったことにして、板を元の位置に戻すつもりで手を伸ばした。
その瞬間。
乾いた音が鳴った。長い時間、耐えてきたものが、限界を越えたときの音だ。
天井板ごと、箱が落ちてきた。
避ける間もなく衝撃が肩口をかすめる。箱が床に叩きつけられた重みが、拝殿裏の空気を震わせた。埃が一斉に舞い上がり裸電球の光が白く滲む。
遅れて、がたん、と低い音がした。
梁に沿って据え付けられていた木箱が天井板と一緒に落ち、衝撃で蓋が弾けて開いている。
古びた釘も封じていた紙も、やはり役目を果たしていなかったのだ。
箱の中身が、床に滑り出る。
それは、一枚の絵だった。
予想外のものが出てきて、思わず凝視してしまう。
木彫りではなさそうだ。古い紙。何度も塗り重ね、乾かしたものに近い感触が、見ただけで伝わってくる。
表面にはわずかな凹凸がある。筆の跡だ。下地の上にさらに何かを重ね、その上から描いている。無理に平らにされた痕が、そのまま残っている。
描かれているのは、婚礼の装いをした女だった。
赤い打掛。細かく描き込まれた文様。だが何故か、その中心にあるはずの顔だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
装束の描き込みが見事なだけに、顔の空白が異様に目立った。
「……ムカサリ絵馬?」
彼女が小さく言った。
さっきまでの調子とは違う。少なくとも喜色はない。
「なんだ、それ」
「未婚のまま亡くなった人のために描くもの」
彼女は絵から目を離さないまま言った。
「結婚できなかったまま死ぬと、成仏できないって考えられてた時代があってね。だからこうやって、絵の中で結婚させる」
俺はもう一度、女の姿を見る。顔のないまま、婚礼の装いだけが整えられている。
「……それで、顔がないのか」
「違う」
彼女は即座に否定した。
「顔がないのは、完成してないから。それに本当なら、相手も描く。架空の人物だけど。……これ、いい感じはしない」
確かに、描かれているのは新婦だけだった。
隣には男の輪郭がうっすらとある。書きかけというより下描きに近い。線は迷いなく引かれているのに、そこから先へ進んだ形跡がない。
「途中でやめたんだな」
俺がそう言うと、彼女は小さく首を振った。
「違うのか」
「ここまで描いて中止したなら、丁重に処分しないと。」
彼女はそう言って、絵から視線を外した。一瞬だけ、考えを整理するような間があった。
「描きかけをそのまま放置するのは、縁起が悪いってだけじゃなくて。役割が中途半端なまま残るから」
「役割?」
「目的は未婚で亡くなった人を供養すること。ここで止めちゃったら成仏できない、とか……そういうことになると思う」
表情は笑っていなかった。
「かえって成仏の邪魔に?ずいぶん極端だな」
「そこまで言う人もいた、ってだけ。だから、こんなの残しておかない筈なんだけど…」
彼女は視線を落とし、箱の中をもう一度確かめる。
俺は、顔のない女を見る。表情がないせいで、怒っているのか何も感じていないのかも分からない。
「絵の他は、何も入ってないかな」
「そうか。で、どうしよう?神主さんに正直に話した方がいいかな?」
「まあ、言うしかないよね。私達はもう関わらない方がいい」
彼女はそう言いながら、箱を閉じようとはしなかった。
天井裏から箱が落ちてきたこと、中に変な絵が入っていたことを神主に話した。
彼女の知っている細かい由来や呼び名は、こちらからは出さなかった。出したところで、面倒が増えるだけだと思ったからだ。
神主は一度だけ絵を見て、ぽつりと一言。
「……知らないなあ」
それだけだった。
「古いものが混ざってたんでしょうね。天井は、こちらで直しておきます」
俺達を責める様子はなかった。むしろ申し訳なさそうに、「掃除を頼んだのはこちらですから、お気になさらず」とまで言われた。
拍子抜けするほど、あっさりしていた。
絵は包み直され、他の古い奉納物と一緒に奥へ運ばれていく。
それで終わりだった。
境内を出ると、空気が一気に現実に戻る。参道の石は乾いていて、遠くで車の音がした。
「怒られなくてよかったな」
思わずそう言うと、彼女は小さく頷いた。
「ね」
大事にならなかった。歩きながら、肩の力が抜けていくのが分かる。
「正月前に天井壊したとか、洒落にならないもんな」
「ほんと」
彼女は前を向いたまま答えた。
言葉の少なさは気にはなったが、元からお喋りなタイプではない。
声の調子は、いつも通りだ。きっと疲れたんだろう。
そのまま、俺たちは帰路に就いた。絵のことは、話題にもしなかった。
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