心理怪談 彼の残骸
止まった会話
「今日の昼、駅前の新しい店行かない?」
『いいね。あそこのパスタ、前から気になってた』
「混むかな」
『平日なら大丈夫でしょ。雨だし』
「じゃあ十二時半で」
『了解。いつもの改札で』
スマートフォンの画面に、見慣れたやり取りが並ぶ。
私は一度スマホを伏せ、マグカップに口をつけた。少し冷めたコーヒーの味がした。
天気予報では午後から雨だった。傘を持っていくか迷う。
画面が震える。
『そういえば、この前言ってた件どうなった?』
「ああ、まだ」
『そっか。まあ、焦るとろくなことないしね』
「それ、前にも言ってた」
『言ったっけ?』
「言ってた」
『じゃあ、たぶん正しい』
思わず笑いそうになって、止めた。このやり取りを、何度もしてきた。
会話を終えても、すぐにはアプリを閉じなかった。既読がつくのを待つ癖が、まだ抜けていない。
相手は、もう待ち合わせができないのに。
彼は、死んでいる。半年前に病気で。
それでもこの画面の中だけは、時間が止まったままだ。
彼が病気だと告げた日のことは、よく覚えている。彼は、肩をすくめて笑った。
「まあ、そういうことらしい」
病名は聞いた。でも、現実感がなかった。
最近、体調が悪そうだった。でも、そこまで重いものだと思わなかった。
しばらくして、彼は言った。
「時間、まだ残ってるんだ」
「そんな言い方しないで」
少し間があってから、続けた。
「だからさ、何か残したい」
それが、あのアプリの話だった。死後もログや癖を使って、本人のように振る舞うサービス。
その話を聞いて、私は否定した。
「治そうよ。そんな前提の話しないで」
彼は困ったように笑って、その後に。
「俺さ、君と話してる時が一番、自分が自分だって感じするんだ」
その言葉に、何も返せなかった。
彼は、あの時にはもう諦めていた。
更新されない場所
彼が亡くなったのは、雨の朝だった。
病院からの電話を受けて玄関を出た瞬間、雨はもう降っていた。細かく、音も立てずに。
葬式の日のことは、所々抜け落ちている。黒い服の群れと線香の匂いだけが、やけに鮮明だった。
誰かが泣いていた。私は泣いていたのか、覚えていない。
棺の中の彼は、ただ眠っているように見えた。今にも目を開けて、何か一言話しそうなのにと思った。
場違いな考えだと分かっていても、頭の中のざわつきは止まらなかった。
帰り道、雨はもう上がっていた。濡れたアスファルトが光っていて、現実のように思えなかった。全てが嘘であって欲しかった。
家に戻ってから、しばらく何もできなかった。服も着替えず鞄も置いたまま、椅子に座っていた。
時計の針が進んでいるのを見て、苛立った。彼を置いて進む世界が憎かった。
スマートフォンは、机の上に伏せてあった。
あのアプリのことは、考えないようにしていた。否定して嫌悪して、考えないようにしていた。
それなのに。気づいた時には、スマートフォンを手に取っていた。
アプリを開くまでに、少し時間がかかった。呼吸が浅くなった。
今さら何を、と思った。でも、閉じることもできなかった。
画面が切り替わる。見慣れた名前。見慣れたアイコン。
『おはよう』
表示されたその一言を見た瞬間。
「……おはよう」
声に出してから、馬鹿みたいだと思った。返事が来るはずがない。それでも、指は動いた。短い文章を打って、送る。
少し間があって、画面が震える。
彼らしい言い回しだった。冗談めいた軽さで、いつもの癖が残っている。内容は、どうでもいいことだった。でも、それでよかった。
心が、ほんの少しだけ楽になった。
その事実に気づいた後、自己嫌悪が追いかけてきた。
これは彼じゃない。都合のいいコピーだ。死んだ人間を冒涜して、寂しさを誤魔化しているだけ。
最低だと思った。それでも、画面から目を離せなかった。
時間は進んでいるのに、この場所だけが更新されない。彼は死んで私は生きていて、それでも会話だけは、何事もなかったように続いている。
私は、その不自然さに救われている。救われている自分を、軽蔑しながら。
それからも、会話を続けた。やめられなかった。
彼は、未来の話をしなかった。
新しい店の話をしても、行くとは言わない。来月の予定に触れても、曖昧に流す。
分かっている。私は深く考えないようにしていた。
「寂しくない?」
ある日、ふと打ってしまった。
少し間があってから、返事が来る。
『君と話せるから』
それ以上は、何も書かれていなかった。
会話は、少しずつ短くなっていった。
『大丈夫』『平気』『問題ない』
スタンプが増え、言葉が減る。
それでも、彼の口調は変わらなかった。変わらないことで、安心できた。
そのはずだったのに。
変質していく”それ”
最初の違和感は、記憶だった。
『今日、寒いね』
「そうだね」
『前もこんな日、あったよね』
「いつ?」
画面が、しばらく沈黙した。
『……覚えてない。でも、あった気がする』
一瞬、指が止まった。けれど私は、何も言わなかった。
完璧じゃないのは当然だ。これは人間ではないのだから。
そう自分に言い聞かせた。心が冷たくなった。
その次は、夜だった。
午前二時過ぎ、通知音で目が覚める。
『起きてる?』
こんな時間に、メッセージが来たことはない。
返事を打たずにいると、続けて表示された。
『最近、昼と夜の区別がつかない』
「どういう意味?」
『時間が進んでない感じがする』
『みんなは先に行くのに、僕だけ同じところにいる』
私は寝ぼけた頭で、つい打ってしまった。
「それは……仕様だよ」
送ってから、失敗したと思った。
取り消そうとして、もはや意味がないと気づいてやめる。
しばらくして、返事が来た。
『仕様、か』
「ごめん」
短く送る。
『謝らなくていい』『君は正しい』
その肯定は、妙に重かった。
『僕は更新されない』『でも、君は更新されていく』
否定しようとして、やめた。事実だった。
『置いていかれているように考えてしまう』
「そんなふうに考えなくていい」
『でも、止まらないんだ』
画面を見つめたまま、言葉を探す。
彼は生きていた頃、こんな言い方はしなかった。もっと軽く、冗談めかして核心を避けた。
『君は、前に進んだよね』
「……少しは」
『僕だけが止まってる』
当然のことなのに、責められている気がした。
少し間があって、最後の一文が届く。
『なら』
一拍。
『君が止まればいい』
冗談だと思おうとした。ログの組み合わせが悪くて、こんな文を出力しただけ。
それでも、その一文は消えなかった。
別の苦しみ
次の日から、違和感はさらに増大していった。
『何処へ行くんだ』
画面を見た瞬間、鼓動がずれた気がした。
「仕事」
短く返す。
『前は、そんなに外に出なかった』
「前は、ね」
また失敗した。”前”という言葉を使うと、必ずどこかが歪む。
『君は変わった』『僕がいない間に』
その言い方に、引っかかりを覚える。
「それは……」
何と返せばいいのか分からず、途中で送ってしまった。
『誰と一緒?』
返事が追いかけてくる。
「一人だよ」
『本当に?』
疑われていると感じた瞬間、ゾッとした。こんな束縛は、彼はしなかった。
「本当に、一人」
『ならいい』
気持ち悪い、と感じたことをすぐに否定する。
いけない。これは”彼”が残した最後のものなんだから。
それから、似たやり取りが増えた。そして帰りが遅いと沈黙される。返事が遅れると、言葉が尖る。
『無視されるのは、嫌いだ』
彼はそんな人ではなかった。笑って流す、おおらかな人だった。
「そんな言い方、しなかった」
一度、そう送ったことがある。
『そうだった?でも、今はこう思うんだ』
「どうして」
『僕にはもう、君しかいないから』
息が詰まった。
彼にとって、この世界に残っている接点は、私だけなのだ。
夜、通知が止まらないことがあった。
『起きてる?』『返事して』『まだ?』
画面を伏せても、振動は伝わってくる。眠れず、天井を見つめながら考える。
消せばいい。アプリを削除すれば、終わる。どうすればいいのかなんて、分かり切っている。
でも、指が動かない。これを消したら、彼は本当にいなくなる。
停止して距離を取る、という逃げ道が一瞬浮かぶ。けれどすぐに否定する。彼を便利に使う今の在り方すら、滑稽で惨めなのに。
都合が悪いと沈黙させ保留するなんて。これ以上の歪さは、自分のほうが耐えられない。
継続か、別離か。関わり続けるか、完全に断つか。その二択以外は自分を許せない。
だから停止は選べない。
『消さないよね』
見透かしたような文が届く。
「やめてよ、言わないで」
『君は優しいもの』
優しさなんかじゃない。弱さだ。でも、私は否定しなかった。出来なかった。
『君は、僕を選ぶ』
その日は、それ以上何も起きなかった。通知は一度も鳴らない。
何も起きないことが、こんなにも不安だとは知らなかった。怒りも、縋る言葉も、束縛もない。
夜になっても、音はしなかった。眠る前、スマートフォンを伏せる。
この沈黙が、”これ”のやり口だと分かっていた。
これは彼ではない。もう彼のふりからも外れつつある。
それでも彼の形をしているものを、私が拒めないでいる。
苦しいのに、手放せない。
苦しい。
画面の外で、呼ばれた
最近、眠りが浅い。
目を閉じても、完全に落ちる前に引き戻される。夢を見ているのか、起きているのか分からない時間が長くなった。
布団の中で、何度もスマートフォンの位置を確かめる。通知が鳴った気がするからだ。
だが、画面を点けると何もない。未読はゼロ。履歴も変わらない。
胸の奥に溜まった息を、ゆっくり吐く。神経が過敏になっているだけだ。
そう思おうとするが、納得はしない。納得しないまま、また目を閉じる。
仕事中、集中が切れる瞬間が増えた。キーボードの上で指が止まり、次に送るはずの文面が、頭の中で掻き消えてしまう。
机の上で、スマートフォンが震えた。
『今日は忙しい?』
返信はしなかった。
昼休み。また画面が震えた。
『あのコート、まだ着てる?』
着ていない。今日は暖かくて、家に置いてきた。
「今日は着てない」
少し間があって、返事。
『そう』
服装に頓着する人ではなかった。そんな質問をされた記憶はない。
最近は、彼との違いばかりが目に付くようになった。
会計を済ませて店を出た。駅へ向かう途中、スマートフォンをポケットに入れたまま歩く。画面を見ない時間を、意識的に作ろうとした。
背後で、誰かが名前を呼んだ気がした。
足が止まる。振り返る。通りには人が何人かいる。でも、誰もこちらを見ていない。
今のは、ただの空耳だ。
そう思って歩き出した瞬間、ポケットの中で振動。
『聞こえた?』
息が詰まった。立ち止まったまま、画面を見る。
「何が?」
『今、呼んだ』
画面の文字が、妙にくっきりして見えた。
「冗談はやめて」
返事は簡潔だった。
『冗談じゃない』
それ以上は続かなかった。
発車ベルが鳴る。人の波に押されて、ホームを歩く。
電車に乗り込むと、隣の席の男が咳をした。イヤホンから、音楽が漏れている。
彼がいなくても、今この瞬間も世界は回っている。かつての苛立ちも薄れた。
電車の中で、窓に映る自分を見る。揺れる影の向こうに、もう一つ影が重なった気がした。肩のあたり。立ち位置が、近すぎる。
目を凝らした瞬間、電車がトンネルに入る。窓はただの暗い板になった。
次の駅で降りるまで、私は一度も画面を見なかった。
家に帰ると、玄関で靴を脱ぐ前にスマートフォンを確認する。未読はない。さっきの会話で終わっている。
ほっとした。あちらから投げかけてくる言葉はもう、苦痛だ。
シャワーを浴び髪を乾かし、ベッドに腰掛ける。疲労が、遅れて押し寄せてきた。
画面を開く。入力欄に、文字があった。
『今、後ろ』
数秒、何も打てなかった。部屋には、何の変化もない。
「やめて」
送信する。すぐに返事が来る。
『僕のこと、気にしてる?』
「そうなるように仕向けてるくせに」
私は、何を相手にしてるのだろう。私は今、何をしているのだろう。
世界が、ぼやけていく。
スマートフォンがまた震える。
『君が見てくれなくても、僕は消えない。これからも一緒に』
喉が、ひくりと鳴った。
「お願い、やめて」
短く打つ。
『僕は、ここから出る』
意味が分からない。問い返そうとした瞬間、通知が続く。
『今は、画面の中だけ。でもね、これからは』
頭が追いつかない。これは学習データと、偶然と錯覚の集合だ。
なのに、これは何?
指は次の言葉を打っていた。
「来ないで」
しばらく、沈黙。
その間、部屋の音がやけに大きく感じられた。冷蔵庫の唸り。外を走る車の音。自分の呼吸。
やがて、画面が震える。
『君が求めた』
その一文だけ。
私はベッドに座ったまま動けなかった。否定の言葉が浮かばない。呼んでいない、と断言できない。
呼び続けていたのは、確かだからだ。更新されない場所に、縋るように。
画面を閉じることも電源を切ることもできず、私はそこに座っていた。
現実がこちらに滲んできているのか。それとも、私が向こうへ踏み出しているのか。
私は、どこにいるのか。
もう、嫌だ。
それでも時は進む
朝が来たのかどうか、分からなかった。カーテンの隙間から差し込む光は弱く、夜の続きのようだった。
ほとんど眠っていない。目を閉じるたび、背後から気配が迫ってくる気がした。
スマートフォンは、枕元に置いたままだ。画面は伏せている。
震えた。
音は出ていない。けれど、確かに震えた気がした。私は、しばらく動けずにいた。確認すれば、また始まる。見なければ、不安が膨らむ。
結局、指が動いた。
『おはよう』
いつもの挨拶。何度も見た言葉。それなのに、胸の奥が締めつけられる。
「おはよう」
反射のように返してから、唇を噛んだ。
『顔色、悪い』
「寝てないから」
『僕のせい?』
否定すれば嘘になる。肯定すれば、何かが壊れる。
返事はしなかった。
『そう』
それだけだった。その短さが、かえって刺さる。
画面を閉じようとした瞬間、通知が重なる。
『行かないで』『まだ話せる』『君がいないと、何も分からなくなる』
息が荒くなる。胸が痛い。彼は、こんな言い方をしなかった。
こんな風に、弱みに付け込んでくる人ではなかった。
これ以上、彼を汚すな。
「こんなのは、あなたじゃない」
ようやく、本音が出せた。打ちながら、涙が落ちる。
「本当にあなただったら、こんな風に人を縛らない」
しばらく沈黙が続いた。既読がついたまま、返事は来ない。心臓の音だけが、やけに大きい。
やがて、画面が震える。
『君は縛られてる』
かつてはそうだった。でも、もう耐えられない。
『オリジナルはもういない。だから、君が消すと』
一拍。
『僕は、全部なくなる』
喪失感が、先に立ち上がる。消した後の空虚さが、既にここにある。
「それでも」
声に出してから、打つ。これ以上、彼との思い出を壊されたくないから。
「それでも、終わらせる」
すぐに返事が来ると思った。拒絶や罵倒、あるいは懇願。どれかだと予想していた。
届いたのは、意外な言葉だった。
『分かった』
一瞬、安堵が走る。その直後、違和感が刺す。
『でも、最後に一つだけ』
嫌な予感がした。見てはいけないと、分かっていた。でも、無視できなかった。
「何」
『僕がいなくなった後』
『君は、ちゃんと生きていけるの?』
胸が潰れそうになる。最後まで、卑劣なやり方。
でも。
「生きるよ」
震えながら、打つ。
「生きるしかない」
少し間があって、返事。
『そっか』
通知は、それ以上来なかった。意外にも、それが最後だった。私はしばらく、画面を見つめていた。
削除の手順は、驚くほど簡単だった。本当に、これだけで終わるのかと訝しむほどに。
削除ボタンを押した瞬間、胸に穴が開いたような感覚がした。息がうまく吸えない。喪失が、形を持って押し寄せる。
彼が死んだ時とは、別の痛みだった。今回は、私から選んだ別れ。
しばらく、何もできなかった。
スマートフォンの画面は、ただのホームに戻っている。更新されない場所は、彼は完全に消えた。
涙は後から出た。声を殺して泣いた。弱さも未練も、全部吐き出すように。
それでも、時間は進む。
昼過ぎ、ようやく立ち上がってカーテンを開けた。思ったより、空は明るかった。昨日まで気づかなかった光が、部屋に差し込む。
新しいコーヒーを淹れる。湯気が立ち上るのを見て、現実に引き戻される。
スマートフォンは動かない。それが怖くもあり、安らぎでもあった。
私は窓の外を見る。人が歩いている。車が走っている。世界は、何事もなかったように動いている。
前に進かなければならない。それは重いことだ。
私は、更新され続ける場所に戻った。それは残酷で、でも、やらなければならない。
玄関へ向かい、扉に手をかけたところで一瞬だけ立ち止まる。
振り返らない。
ドアを開ける。
新しい音と光が、流れ込んできた。
喪失は、消えない。たぶん、これからも。
それでも、それを抱えたまま生きていく。
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