民俗学断簡 願う 守る 返す 呪う
初詣で破魔矢を買う。だるまに目を入れる。招き猫を玄関に置く。これらは誰もが知っている「縁起物」。
しかし、それらがどんな意味をもっているのか、ご存じない方も多いでしょう。
由来を知らないまま形だけを受け継ぐ。それ自体は、なんら悪いことではないと思います。
意味を忘れても形が残り続けるというのは、それだけその作法が生活に深く根づいている証拠でもあるからです。
ただ由来を辿ってみると、当初の意味と今の作法がまったく違う方向を向いているケースが意外とあります。
本稿では、縁起物や呪いの由来を一つずつ辿っていきます。
前半では「願いを叶える」「悪いものから守る」という、比較的なじみ深い呪術を。
後半では一転して「やり返す」、そして「呪う」という、あまり語られてこなかった呪術にも踏み込みます。
呪いというと、物騒で現代とは縁遠いもののように感じるかもしれません。
しかし調べていくと間接的にしか攻撃できない人間の弱さや、自分にも跳ね返ってくることを前提にした構造が見えてきます。
それでは、縁起物と呪術の由来を巡る旅を始めましょう。
願いを叶える作法 縁起物の由来
七福神
七福神信仰が始まったのは室町時代末期、京都で成立しました。
当初から今のような七柱の顔ぶれだったわけではなく、まず恵比寿・大黒天・弁財天の三神への信仰が庶民に深く根づき、そこに毘沙門天・布袋・福禄寿・寿老人が加わっていきました。
応永27年(1420年)には、七福神に仮装した行列が京都で行われた記録が残っており、この頃には七福神という発想が広く知られていたことがわかります。
現在のように親しまれる形になったのは江戸時代からで、享和年間(1801~3)には恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、布袋、福禄寿、寿老人という、今の顔ぶれに定まりました。
7柱のうち純粋な日本由来の神は、恵比寿だけです。残る6柱は、出身も宗教もそれぞれ異なります。
出身地も宗教もまったく異なる神様たちを「金銀財宝を積んだ宝船に乗る七福神」という一つのチームに編成したのは、乱暴といえば乱暴な発想です。
しかしこの寄せ集めには元ネタがあります。
中国の水墨画で好まれた画題『竹林七賢図』(竹林の七賢人)に見立てたのではないか、というのが有力な説です。
別々に信仰されていた7つの福の神を、「7人の賢者が集う」という絵画的な型に当てはめていった――そう考えると、この寄せ集めの発想にも説明がつきます。
江戸時代には正月の七福神詣でが庶民の間で盛んに行われ宝船の絵を初夢に見ると縁起が良いとされ、宝船の絵を枕の下に入れて眠る習慣もありました。
無節操な寄せ集めであったはずのチームが、日本人の生活に溶け込み、今日まで生き続けています。

だるま
「両目」より「片目」が本来だるまのモデルは、禅宗の祖・達磨大師です。座禅修行を9年続けたという伝説をもとにデフォルメされ、起き上がり小法師として縁起物化しました。
置物として一般に広まったのは江戸後期、元禄期以降に町人経済が安定してからのことです。
現在では「祈願時に片目を入れ、成就したら両目にする」というのが定番の作法ですが、本来は片目の状態にこそ呪力があると考えられていました。
日本には古来、欠損した不完全なものに呪力を見出す思想がありました。
青森で出土する遮光器土偶が体の一部を欠いた状態で作られているのも、呪具としての意味があったためとされています。
民俗学者・柳田國男の「一つ目小僧」研究も、この文脈で語られます。
「両目を入れて完成させる」という現在広く知られた作法は、本来の意味が時代の中で取り違えられたまま定着した可能性がある、ということです。
選挙の当選祈願でだるまの目を入れる光景も、元の思想からすると滑稽な行いなのかもしれません。

招き猫
招き猫は上げる手と色によって意味が変わる、かなり緻密な体系を持った縁起物です。
その起源は江戸時代にまで遡るとされ、豪徳寺(東京・世田谷)や今戸神社など複数の発祥説が語り継がれています。
右手を上げた猫は金運を招くとされ、商売人や事業主に好まれる傾向があります。
左手を上げた猫は人脈や客(集客)を招くとされ、飲食店や接客業でよく見られます。
両方の運を求める場合は、両手上げの猫を選ぶという使い分け文化があり、近年ではこのタイプも人気が高まっています。
上げる手の高さにも意味があるとされ、高く上げているほど遠くの福を招くという解釈も存在します。
色の意味も非常に豊富です。
黒猫は古来「福猫」と呼ばれ、魔除けや厄除けの力を持つとされてきました。
白色は幸福全般を招く基本形として、最も一般的に見られる色です。
一方で、
金色(金運)、緑色(家内安全・交通安全)、赤色(健康長寿)、ピンク色(恋愛運)、青色(学業成就)
といった細分化された色の意味については文献に見られるものではなく、近年の風水ブームやスピリチュアル系の解釈の中で広まったものと考えられます。
招き猫を扱う店舗やメーカーの販促を通じて浸透した側面が強く、現代における再解釈と捉えるべきものです。

破魔矢
お正月に授与される破魔矢は、武器であった弓矢を使ったお正月の年占い神事「破魔打(はまうち)」に由来します。
地区ごとに子どもたちが弓射を競い、勝った地区はその年豊作に恵まれるとされた占いで「射礼(じゃらい)」とも呼ばれ、奈良・平安の頃にはすでに行われていた古い神事です。
子どもたちが藁縄で作った的を矢で射抜く神事で使われた弓矢を、成長祈願のまじないとして持ち帰ったのが縁起物としての始まりとされています。
この神事に使われた的が、「ハマ」と呼ばれていました。
的を射る矢は「はま矢(浜矢)」、弓は「はま弓(浜弓)」と呼ばれ、この「はま」という音が「破魔」に通じるとして、次第に「魔を破る」という意味の漢字が当てられていきました。
音の響きだけを頼りに魔除けの意味を背負っていったという、日本語ならではの言葉遊びのような転用が破魔矢という名の背後には隠れています。
そしてもう一つ注目したいのが、破魔矢の先端が鋭く尖っていない理由です。
これは人や物を射るための武器ではなく、邪気そのものを祓うための道具へと用途が転換されたことを意味しています。
狙う相手が発する邪気・邪意といった目に見えない妖気を破り浄化することが目的であるため、鋭利である必要がないのです。
武家の時代になると男子が誕生した家庭では初正月に破魔矢や破魔弓を贈る習慣が生まれ、江戸時代後期には庶民の間にも広く定着しました。

絵馬
絵馬の由来は、神様に生きた馬(神馬)を献上する古代の風習にあります。
古代、神様は馬に乗って人間世界にやってくると考えられており、『常陸国風土記』や『続日本紀』といった歴史書には、雨乞い(祈雨)や雨を止ませる(止雨)などの祈願のために生きた馬を献上していた記録が残されています。
雨を願うときは黒馬、雨をやませたいときは白馬というように、目的に応じて奉納する馬の色を変えていたと伝えられています。
最初は本物の馬を奉納していましたが、生きた馬を用意できるのは飼育や購入の財力を持つ限られた身分の人だけでした。
そのため木や土で作った馬の像(馬形)になり、さらに時代が経つと板に描かれた絵に簡略化されていきました。
静岡県の伊場遺跡や岡山市の鹿田遺跡からは奈良時代のものと見られる馬の板絵がすでに出土しており、少なくとも奈良時代にはこの簡略化が進んでいたことがわかっています。
「本物→立体の模型→平面の絵」という簡略化の流れは、これまで見てきた他の縁起物・呪具にも共通するパターンです。
本物を用意する負担を減らしながら儀礼としての本質的な意味だけを残していくという発想が、日本の信仰文化全体に流れているように見えます。
なお絵馬は簡略化されるほどに、かえって自由度を増していった側面もあります。
当初は馬の絵だけでしたが室町時代以降は個人が現世利益を願って小型の絵馬を奉納するようになり、江戸時代には家内安全や商売繁盛といった身近な願いごとを書く風習が庶民の間に広がりました。
今日では、その神社の祭神にゆかりのある動物やひょうたん形・狐形といった土地ごとの意匠まで見られます。

お守り
お守りとは、神社やお寺で祈祷を受け、神仏の力を宿らせたうえで授与される携帯用のお札のことです。
多くは小さな錦の袋の中に「内符(ないふ)」と呼ばれる木片や紙片が納められており、この内符にこそ神様の分霊が込められているとされています。
中身を開けて確認することは本来避けるべきとされ、袋に包まれたまま大切に持ち歩くのが基本の作法です。
お守りは「一体、二体」と数えますが、これは神様そのものが宿る存在として扱われていることの表れです。
お守りやお神札に神様の分霊が宿るという考え方は広く知られていますが、毎年新しくする理由まで知っている人は少ないかもしれません。
これは伊勢神宮の式年遷宮(社殿を新築し、神様に移っていただく儀式)と同じ発想に基づいています。
式年遷宮は約1300年前、天武天皇の発意により始まったとされ、以来20年に一度、社殿を隣接する敷地に建て替えて神様に遷っていただく神事として続いてきました。
この背景には、神道の「常若(とこわか)」という思想があると言われています。
常に瑞々しく保つことが神様の力を最も良い形に保ち、神威を新しくすることでその力がより活発に発揚されると信じられてきたのです。
日本最高位の神社が20年ごとに行う大規模な神事と、私たちが毎年正月にお守りやお神札を新しくする何気ない習慣は、規模こそ違えど「常若」という同じ宇宙観でつながっているのです。

悪いものから身を守る作法
この章では防御。日常の中にひっそり溶け込んでいる「守り」の知恵を見ていきます。
盛り塩の由来
盛り塩のルーツは、『古事記』に記されたイザナギの神話にあります。
黄泉の国から戻ったイザナギが穢れた体を海水で洗い清めた「潮禊」の場面に由来し、ここから塩には穢れを祓う力があると考えられるようになりました。
この「塩=清め」という発想は、日本人の生活儀礼の中に広く息づいています。
お相撲さんが土俵に塩を撒くのも地鎮祭で土地の四方に塩を撒くのも、根本は同じ「穢れを祓う」という発想です。
さらに言えば塩には殺菌・防腐の効果があることも古くから経験的に知られており、死という最大の「穢れ」に対して塩が使われてきたことには、信仰だけでなく実用的な裏付けもあったのでしょう。
盛り塩は本来こうした神事・仏事から、一般に広まったと考えられています。
奈良・平安時代にはすでにこの風習があったとされ、千年以上にわたって形を変えながら受け継がれてきたことになります。

もう一つの意味 — 「人招き」の願いも合流
盛り塩には、「良い客や貴人を招き寄せる」という正反対の願いも合流しています。
店先の盛り塩が「商売繁盛」か「魔除け」なのか区別されないのは、このためです。
こちらは中国・西晋の皇帝、司馬炎の故事にちなむとされます。
後宮の女性たちが皇帝の乗る羊車を自室前で止めようと、羊の好物の塩を戸口に盛ったのが始まりという話です。
この説に裏付けはなく、面白さで広まった俗説のようです。
九字
忍者や陰陽師が指で印を結びながら「臨兵闘者皆陣列在前(りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん)」と唱えるシーン。
フィクションでお馴染みのこの呪文にも、はっきりした由来があります。
起源は4世紀の中国、道教研究家・葛洪が著した『抱朴子』です。
「登渉篇」という章で山に入る際に唱えるべき「六甲秘祝」として記されているのがこの九字で、山中の危険(獣や遭難など)を避けるための登山者向けのお守り言葉でした。
なお原典での表記は「臨兵闘者皆陣列前行」であり、現在よく知られる「陣列在前」という形は日本に伝わる過程で生じた異伝です。
また九字を唱えながら空中に指で縦四本・横五本の線を描く、いわゆる「九字切り」の所作についても、『抱朴子』自体には記述が見当たりません。
呪文の言葉だけが先に大陸から渡り、日本側で後から身体を使った儀礼となったようです。
これが修験道や密教に取り込まれる過程で、性格が大きく変わっていきます。
山の安全祈願だった九字は、敵の調伏・戦勝祈願のための呪法として再解釈されました。
さらに修験道では単に九字を唱えるだけでなく、一文字ごとに対応する印と本尊が定められるようになります。
中国の原型よりもかなり精緻な体系への構築です。
鎌倉時代には武士の間に広く用いられるようになり、最終的に忍者の術としても定着しました。
なお九字の後にもう一文字加えて効果を一点に特化させる「十字」という発展形も存在しており、実用に応じて呪文がカスタマイズされていった様子がうかがえます。
さて「九字を切ってはいけない」という話がネット上でよく語られますが、これを裏付ける古い出典は確認できていません。
現代になって作られた都市伝説である可能性が高いといえます。
実際に調査してみても、これを主張するものの多くは近年のスピリチュアル系ブログばかりでした。
「素人がやると倍返しされる」といった説明はあっても、江戸期や明治期の文献を典拠に挙げているものは見当たりません。
もっとも修験道において九字護身法が、「素人が扱うものではなく、修行を積んだ行者のみに許される秘術」として語られてきたこと自体は事実のようです。
この「玄人の秘術である」という専門性の強調が、時代が下るなかで「素人がやってはいけない」という禁忌の物語へと読み替えられていったのでしょう。
神聖さの強調が、禁忌の言い伝えへとすり替わっていく。九字という呪文がたどってきた「意味の転用」の、これもまた一例です。

鏡を布で覆う習俗
昭和中期まで、日本の家庭には鏡を使わないときに布で覆うという習俗が存在していました。
鏡は弥生時代中期に大陸から伝来した当時から、見慣れない異物として神秘的な力を感じさせる存在でした。
以来、桃山時代に至るまで千年以上にわたって銅鏡が使われ続け、その間ずっと「鏡=ただならぬもの」という認識が持続していたことになります。
光を反射し姿を映すという性質から、邪悪なものを退ける力があると信じられていました。実際、古墳の副葬品としても数多く用いられています。
福岡県糸島市の平原弥生墳丘墓からは三十九面以上、京都府の椿井大塚山古墳からは三十七面、奈良の黒塚古墳からは三十四面以上もの鏡が発掘されており、棺の周囲を取り囲むように配置される埋葬形式も確認されています。
鏡は、死者を守る結界のような役割を担っていたのでしょう。
和鏡のなかには「魔鏡(照魔鏡)」と呼ばれる特殊なものもありました。
太陽光を鏡面に当てると裏面に彫られた神像や獣像が壁に浮かび上がるという仕掛けが施されており、これを見せることで支配者が求心力を高めていたという説も存在します。
布で覆うのは使わない間に鏡に霊が宿るのを防ぐため、あるいは魔が入り込むのを防ぐためだったようです。
これはネット発祥と思われる「姿見返し」のような呪術とは違い、実際に日本の家庭に存在した出典のある習俗です。
鏡という道具一つに「異物への畏れ」「霊が宿る器」「布で覆って封じる」という三層の信仰に加え、「見る者を圧倒する演出装置」という第四の層まで積み重なっていたことになります。
|鍾馗様《しょうきさま》
京都の古い町家の屋根を見上げると、髭面の小さな人形がちょこんと乗っていることがあります。これが鍾馗様です。
瓦屋根の隅や軒先に静かに佇むその姿は、観光で京都を歩く人にとっても目に留まる風物詩のひとつとなっています。
由来は唐代中国、皇帝・玄宗を高熱の悪夢から救った大男の鬼神伝説にあります。
伝承によれば玄宗が病に苦しんでいた際、夢の中に大きな鬼神が現れて小鬼を退治し、目覚めた玄宗の病はたちまち癒えたとされています。
この鬼神こそが鍾馗であり、以来中国では魔除けの神として絵姿が描かれるようになりました。
京都での広まり方にはこうした荘厳な起源とは対照的な、ローカルでコミカルな逸話が伝わっています。
京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を屋根に据えたところ、その鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入り込み、住人が原因不明の病に倒れてしまいました。
困った薬屋は「鬼より強いもの」を据えるしかないと考え、鍾馗の像を作らせて屋根に置いたところ、病がぴたりと治ったといいます。
これが、京都に鍾馗様が広まった起源だと語り継がれています。いわば魔除け競争から生まれた存在です。
京都の町家では自衛のために、鍾馗様を屋根に上げる文化が連鎖的に根付いていったと言われています。
今も京都の町を歩くと一軒の屋根だけでなく、向かい合う家同士に鍾馗様が据えられている光景を見かけることがあり、この逸話の名残を感じさせます。
戦国時代には「鍾馗(しょうき)=勝機(しょうき)」という語呂合わせから、武将が旗印や陣羽織に描いて戦勝を祈願したという記録も残っています。
験担ぎの文化と魔除けの信仰が結びつき、鍾馗様は時代を超えて姿を変えながら人々の願いを背負い続けてきた存在といえるでしょう。

|目籠《めかご》
軒先に大きな籠や笊(ざる)を吊るしておく風習が、今も各地にわずかに伝わっています。
かつては都市部でも見られた光景でしたが生活様式の変化とともに徐々に姿を消し、現在では一部の地域や旧家に伝承として残るのみとなっています。
特に色濃く行われてきたのが、「事八日(ことようか、2月8日・12月8日)」です。
この二日は「事始め」「事納め」とも呼ばれ、正月や田畑の農事に関わる神事の節目とされてきました。
この日、一つ目小僧や箕借り婆(みかりばばあ)といった一つ目の妖怪、あるいは疫病神が家々を訪れると信じられていました。
地域によってはこの日に外出すると妖怪に出会ってしまうため、なるべく家に籠もるようにという言い伝えも残っています。
この風習は江戸時代の随筆『用捨箱』にも「目籠は鬼の怖るるといい習わせり」と記されている、由緒ある魔除けです。
同時代の他の文献にも類似の記述が散見され、目籠による魔除けが江戸の庶民の間で広く共有された知識であったことがうかがえます。
籠の編み目——特に六つ目編み——が無数の「目」に見えることから、魔性のものは「見られること」を極端に嫌うという考えに基づいています。
家の前に「目」だらけの籠を掲げておけば、一つ目の妖怪はそれに見つめられるのを恐れて近づけないという発想です。
この「見る/見られる」という対立構造は日本各地の魔除け民俗に共通するモチーフでもあり、目籠はその代表例のひとつに数えられます。
地域によっては籠を吊るす代わりに笊の底を屋根や門口に向けて掲げる、あるいはニンニクや柊(ひいらぎ)の葉と組み合わせて飾るなど、目籠を核としながらも独自の工夫を加えた風習が伝わっている例も見られます。

キラウ
アイヌの伝統的な意匠の一つに、キラウと呼ばれる文様があります。
アイヌ語で「角(つの)」を意味するこの文様は、刺繍や彫刻の文様の先端部分に施される尖った形状が特徴です。
渦を巻くような曲線文様(モレウ)と組み合わされることも多く、全体としては優美でありながら要所要所に鋭さを宿すという独特の意匠美を成しています。
この尖った形には、悪いものを近づけない力があると伝えられています。
角という動物にとって自らの身を守る武器そのものを文様化することで、目に見えない邪悪なものへの威嚇や防御の意味を、そこに込めたのでしょう。
手甲や脚絆など身体を保護する装身具の縁や先端に施されることが多く、武装の一つとしての役割を持っていました。
着物の袖口や裾、襟元といった外界と身体の「境界」にあたる部分に集中的に施される傾向も見られ、邪悪なものが身体に侵入してくる隙を意匠の力で塞ごうとする発想が伺えます。
冬の間、女性が家族や恋人の安全を祈りながら一針一針刺繍を施していたとも言われ、祈りそのものが意匠として手に編み込まれていくという非常に丁寧な魔除けの形です。
長い冬の夜、囲炉裏のそばで交わされる語らいとともに針を進める時間そのものが、大切な人の無事を願う祈りの時間であったと想像されます。
キラウは空間ではなく日々身にまとう衣類や装身具に刻まれるからこそ、片時も離れることのない守りとして機能してきました。

箸休め なぜ「神仏に願う」ことが当たり前になったのか
「現世利益」――生者が神仏に「叶えてほしい」と願うこと。どの宗教も最終的にはこの方向に進みます。
この行為、どの程度「正当性」があるのでしょうか。
仏教の本来の教えは正反対
仏教の出発点は「欲しい」「足りない」という執着そのものが苦しみの原因であり、それを断ち切って解脱を目指すというものでした。
お賽銭を投げて願い事をする現代人の感覚は、釈迦の教えの根本から離れた行為ということになります。
ここに大きなねじれがあります。日本に仏教が伝来した当初の目的は悟りの追求ではなく、鎮護国家――国家を呪術的に護ることでした。
『金光明経』『仁王般若経』『法華経』は「護国三部経」と呼ばれ、国家の安泰を祈るための経典として扱われています。
日本仏教はスタート地点から、すでに現世利益のための道具として要請されていたのです。
変わる仏教 変わらぬ神道
最澄・空海が伝えた密教は加持祈祷によって現世利益が得られるという信仰形態を持ち、貴族社会に広く受け入れられました。
密教側にも正当化が必要でした。いきなり無執着や悟りを説いても、民衆はついてきません。
まず現世利益を叶えて仏法の正しさを実感させ、そこから本来の教えへ導く「方便」です。
こうして寺院は、加持祈祷による安産祈願・病気治癒・厄払いを担う場として機能していきます。
一方、神道にはそもそも理念のねじれがありません。
古来から雨乞い・虫送り・疫病送りなど、共同体が現世利益を得ることを目的に祈願を行うのが信仰の中核でした。
体系化された教典も教祖もおらず生活に密着した実利的な信仰として始まっているため、神社にお参りして願い事をする行為は何ら特別なことではなかったのです。
平安後期、社会不安の高まりとともに「末法思想」が広まり、来世の幸福(極楽往生)を求める浄土教が流行しました。
現世利益偏重への一時的な揺り戻しですが、結局は民間レベルで現世利益信仰と併存し続けます。
現世利益を願うことに、信仰として不純さを感じる人もいるかもしれません。
しかし日本という土地においては、現世利益こそが宗教の通常仕様であり、最もオーソドックスな信仰の形そのものです。

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