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民俗学断簡 みちのく遥か 相馬氏の不屈

毎年7月、福島県相馬地方で甲冑姿の騎馬武者たちが疾走する「相馬野馬追そうまのまおい」。

提供 相馬野馬追執行委員会
https://soma-nomaoi.jp/about/gallery/


この勇壮な祭りを800年以上にわたって続けてきたのが、相馬氏という一族です。

そしてこの家には、古くから語られてきた伝説があります。「平将門の子孫である」という伝説です。

平安時代最大の反逆者にして、今なお関東で神として祀られる将門。

その血脈を継ぐ一族が東北の一角で武家として、そして華族として、鎌倉時代から明治維新まで実に700年近くも土地を離れることなく続いた。

これだけ聞くと、実に胸を熱くさせる物語です。さて、その真偽は。

今回は相馬氏という一族の「本当の出自」を含め、その謎に迫ってみました。





相馬氏の発祥 「将門の子孫」は本当か

早速で申し訳ありませんが。相馬氏の先祖は、実は平将門ではありません。

鎌倉幕府の立役者である千葉常胤つねたねという武将、その次男の師常《もろつね》が実質的な初代です。

家名としての「相馬」自体は、もっと古くからありました。

平安時代、常長という人物の子・常晴つねはるが、下総国相馬郡(今の千葉・茨城の県境あたり)に住んで「相馬」を名乗ったのが始まりです。

ただ、この常晴の家系は一度、上総広常かずさ ひろつねという武将とともに粛清されてしまいます。

最終回から随分経ちますが、鎌倉殿は良かったですねえ!

ここで家系はいったん途切れかけます。

その後、千葉常胤が源頼朝に仕えて源平合戦で活躍し、その功績によって次男の師常が「相馬」の名前と領地を受け継ぎました。

これが現在まで続く相馬氏の直接のルーツです。

「つね」ばかりでしたね。お疲れさまでした。


では、なぜ「将門の子孫」と言われるのか

これは伝承の話で、史実とは別物です。内容はこうです。

  1. 将門が940年に討たれたとき、家臣が将門の子(将国)を逃し、その子孫は「信田氏」として生き延びた

  2. その信田氏が後三年の役で手柄を立て、将門ゆかりの相馬郡に住むことを許された

  3. 信田氏の当主・師国が、千葉常胤の次男(師常)を養子にもらい、相馬家を継がせた

つまり

史実 相馬氏=千葉常胤の血筋(将門とは血のつながりなし)

伝承 血筋自体は途絶えたが、養子縁組によって将門の「家」だけは形として相馬氏につながった

この2つの話が混ざり合って、「相馬氏は将門の子孫」という通説が広まったというわけです。

とはいえ、これは嘘や詐称と切って捨てるだけの話でもありません。

相馬郡という土地自体が、古くから将門ゆかりの伝説が濃く残る場所。

その土地を治めることになった千葉氏の一族が地域の権威や正統性を得るために、将門という圧倒的な知名度を持つ英雄の名を家の物語に取り込んでいった。

そう捉えるのが、おそらく実情に近い見方でしょう。統治というものの難しさが察せられます。

血筋は千葉氏。しかし心は将門とともに。

この矛盾を抱えたまま、相馬氏はやがて本拠地を下総から遠く陸奥国へと移していきます。

鎌倉〜室町 下総から陸奥・浜通りへ

前章で見た通り、相馬氏の実質的な祖である師常は千葉常胤の次男として相馬の名跡を継ぎました。

そして文治5年(1189年)、源頼朝による奥州合戦に従軍したことが、この一族の運命を大きく変えることになります。

奥州藤原氏を滅ぼしたこの戦いで功をあげた師常は、頼朝から陸奥国行方郡——現在の福島県浜通り北部、南相馬市から浪江町にかけての一帯を与えられました。

しかしこの時点で相馬氏の本拠地はあくまで下総国相馬郡のままで、陸奥の所領は言わば「飛び地」の扱いです。

東北に、領地だけを持っている状態がしばらく続きます。この状況が動くのは、それから130年以上のちの鎌倉時代末期のことです。

家督争いと陸奥下向

師常から数えて4代後の当主・胤村が没した際、後継をめぐって深刻な対立が起こります。

先妻の子・胤氏たねうじが惣領の地位を得た一方、後妻の子・師胤はこれを不服として争いましたが、結局家督は胤氏の系統に定まり、師胤は無位無官のまま生涯を終えました。

この師胤の子にあたるのが重胤しげたねです。重胤自身の代になっても、胤氏の系統との所領争いは続き、次第に形勢が不利になっていきます。

元亨3年(1323年)、重胤は郎党83騎を引き連れて、本領の下総国相馬郡から行方郡へと下向しました。

伝によれば当初は太田村(現在の南相馬市原町区)に居を構え、そこから数年のうちに小高(現在の南相馬市小高区)へと本拠を移したとされています。


これが「奥州相馬氏」の実質的な始まりです。

浜通りという土地

さて、彼らが根を張った浜通りとは、どのような土地だったのでしょうか。

福島県浜通りは阿武隈高地と太平洋の間に挟まれた、南北に細長い平野部です。

決して広大な穀倉地帯というわけではなく、山と海に挟まれ平地は限られます。

太平洋に面した海洋性の気候で、内陸の会津などとは異なる風土を持っていました。

重胤が本拠とした小高は、太田川流域に広がる、まさにこの浜通り北部——行方郡の中心にあたる場所です。

ここで注意すべきなのは、「相馬」という地名そのものは、実はこの浜通りの土地に古くから根付いていたものではないという点です。

「相馬」の名は、もともと下総国相馬郡(現在の千葉県・茨城県境あたり)の地名であり、その語源は古代からこの地で野生馬を放牧し軍馬を育てていたことに関係するとも言われています。

つまり浜通りの「相馬」は関東から移住した一族が、自らの出身地の名をそのまま新しい土地に持ち込んだ、「移植された地名」だったのです。

名勝 松川浦


野馬追という移植された伝統

この「馬」との結びつきは、地名だけでなく祭事にも及びます。

相馬氏が現代まで伝え続けてきた「相馬野馬追」も、実は浜通りの風土から自然に生まれたものではありません。

その起源は相馬氏の遠祖とされる平将門が、下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県松戸・流山付近)で野生馬を敵兵に見立てて軍事訓練を行い、捕えた馬を神前に奉納したという伝承にあります。

重胤たちはこの関東での伝統を丸ごと浜通りに持ち込み、太田村近くの原野に馬を放って野馬追を再開させたと伝えられています。

相馬氏は自らのルーツそのものを新しい土地へ丸ごと移植しそこに根付かせることで、浜通りという土地と自分たちのアイデンティティを一体化させていったのです。

出典 れきちず様 https://rekichizu.jp/

南北朝の動乱

重胤の陸奥下向からわずか13年後、南北朝の内乱が始まります。重胤は足利尊氏に従って北朝方につき、建武3年(1336年)、鎌倉で討死しました。

しかし相馬氏はここで潰えることなく、重胤の子孫たちが北畠顕信ら奥州の南朝勢力と浜通りを舞台に戦い続けます。

この時期を経て、相馬氏にとって浜通りという土地は命を賭して守り抜くべき「本領」そのものになっていったと言えるでしょう。

古戦場であり現在は景勝地 霊山(りょうぜん)


五郡一揆という生存戦略

南北朝の動乱が落ち着いた室町時代に入っても、相馬氏の立場は決して安泰ではありませんでした。

鎌倉府(鎌倉公方)が奥州への支配力を強めようとする動きに対し、応永17年(1410年)、相馬氏は標葉(しねは、しめはとも)氏・楢葉氏・岩城氏など、浜通り一帯の国人領主たちと「五郡一揆」という連合体を結成します。

これは単独では中央権力に対抗しきれない中小の国人たちが、地縁でまとまり互いの独立を守り合うための同盟でした。

阿武隈高地によって内陸から切り離され、細長い海岸平野に国人領主たちが並び立つこの地域では単独の巨大権力が生まれにくく、代わりに地域内の武士たちが横に連携して自立を保つという政治文化が育まれました。

相馬氏もまた、こうした浜通り特有の「連携による自立」という生存戦略の中で、鎌倉・室町という長い時代を生き抜いていったのです。

しかし室町時代後期に入ると、この均衡を揺るがす存在が北から現れます。米沢・伊達郡を本拠とする伊達氏です。

戦国〜江戸 伊達氏との死闘、そして中村藩へ

室町後期、浜通りの国人領主たちの均衡を崩す存在として北から現れたのが、米沢・伊達郡を本拠とする伊達氏でした。

以後100年近く、相馬氏は家の存亡を掛けて生き抜いていくことになります。

対立の始まり

対立の直接の火種は、天文の乱(1542〜48年)でした。伊達家当主・稙宗とその子・晴宗が家督をめぐって争い、この内紛に周辺の諸家が巻き込まれる中、相馬氏も否応なく渦の中に引き込まれます。

この乱をきっかけに、相馬・伊達の両家は以後長く敵対関係に入っていきました。

対立は一代限りで終わるものではありませんでした。相馬・伊達それぞれの当主親子3代が、伊具郡・宇多郡の領有権をめぐって、実に3世代にわたって死闘を繰り返したのです。

国境地帯の城を奪っては奪われ、和睦しては再び兵を構えるという状態が、浜通り北部と伊達領の境で延々と続きました。

義胤の孤立

この長い抗争の中でも、とりわけ苛烈だったのが16代当主・相馬義胤よしたねの時代です。義胤が対峙した相手は、独眼竜の異名で知られる伊達政宗でした。

政宗の勢力拡大は凄まじく、南奥州の諸勢力は次々と伊達方に恭順していきます。

天正17年(1589年)頃には、頑として抵抗を続ける勢力は相馬氏と岩城氏くらいしか残っていなかったとされるほど、義胤は孤立無援の状況に追い込まれていました。

金山城址(現 丸森町)
激戦地の一つだった


翌年、義胤の弟・隆胤《たかたね》は伊達方の城への攻撃に加わり、この戦いで討死します。国境地帯では、このように攻守が入り乱れる激しい局地戦が続いていたのです。

相馬氏はまさに滅亡の淵に立たされていたわけですが、ここで運命を分けたのが、豊臣秀吉による中央権力の介入でした。

政宗は秀吉から相馬攻めの許可を得ていたものの、伊達領内の混乱を鎮めることを優先せざるを得ず攻撃を延期。

その間に義胤が秀吉政権への服属を鮮明にアピールしたことで、結局この攻撃は実現しませんでした。

中央の「待った」が、間一髪のところで相馬氏を救ったのです。小田原参陣がわずかに遅れたものの、石田三成の取りなしを得て相馬氏は4万8700石を安堵されます。

改易の危機

しかし安心はできませんでした。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、相馬氏は徳川家康からの出陣要請に応じなかったため、戦後いったん改易(お取り潰し)の対象とされてしまいます。

しかし相馬氏は、ここでも家の存続に成功します。

嫡男・利胤としたねを江戸に送り、徳川方の重臣を通じて必死の弁明工作を行った結果、慶長7年(1602年)、宇多・行方・標葉の三郡が本領として安堵されました。

この裏では、長年敵対してきたはずの伊達政宗からも取り次ぎがあったとされています。

かつて政宗が関ヶ原直前に相馬領を通過した際、相馬側の家臣がその通行に便宜を図ったことが、思わぬ縁として活きた結果だったようです。

一度は没収の決定が下った領地が覆って戻ってくるというのは、当時としても非常に稀なこと。

宿敵からの助力すら引き出してしまうあたり、相馬氏という家系の粘り強さと外交力がうかがえます。

中村への移転

そして慶長16年(1611年)、相馬氏は長年の本拠であった小高城を離れ、宇多郡中村(現在の福島県相馬市)に居城を移します。

鎌倉時代の重胤以来、実に約290年間本拠としてきた小高の地を離れる大きな決断でした。

中村は小高よりも北に位置し、伊達領との国境地帯に一段近づく場所でした。

度重なる戦火で疲弊した領内の再編と、より安定した藩政基盤を築くための移転だったと考えられています。

国境の緊張下でむしろ前線に近い土地を新たな拠点に選んだ点は、相馬氏の防衛戦略上の判断があったとも考えられます。

以後、幕末まで、相馬氏は中村藩6万石の藩主として続いていきます。

江戸期から続く相馬焼


伊達家という大藩と国境を接し続けるという緊張感は変わりませんでしたが、もはや存亡をかけた死闘の時代は終わりました。

相馬氏はこの平和な時代の中で代々伝わる相馬野馬追を、藩士たちの軍事訓練と士気向上の場として位置づけ、活用していきます。

将門伝説とともに受け継いだこの祭りは、伊達氏との死闘を生き抜いた家の記憶を、平時においても風化させないための装置でもあったのかもしれません。

257年続いたこの中村藩も、19世紀半ばになると、もはや一藩だけでは抗いきれない巨大な政治変動に飲み込まれていきます。

中村城本丸跡に建てられた相馬中村神社


幕末〜明治 動乱と華族としての再出発

19世紀半ば、黒船来航をきっかけに日本全体が大きく揺れ動く中、東北の一藩に過ぎない中村藩も、もはや自力だけでは抗いきれない時代の波に飲み込まれていきます。

戊辰戦争と華族としての再出発

慶応4年(1868年)、戊辰戦争が始まると、隣国・仙台藩が盟主となった奥羽越列藩同盟の圧力を受け、中村藩当主・相馬誠胤ともたねも一度はこの同盟に加わりました。

しかし戦況が新政府軍優位に傾くと、相馬家は早々に方針を転換します。ただちに官軍へ内通し、謝罪降伏の道を選んだのです。

官軍による中村城入城後、一時的に謹慎処分を受けたものの、すぐに赦免され、その後は一転して官軍側として仙台藩征伐にまで従軍しました。

この身の翻し方には、批判の目もあるかもしれません。

しかし振り返ってみれば、これは相馬氏が鎌倉時代以来、伊達氏との死闘や関ヶ原後の改易危機を乗り越えてきた際にも見せてきた、「土俵際での現実的な判断力」そのものだったとも言えます。

この決断のおかげで多くの東北諸藩が厳しい処分を受けた中、中村藩は所領を安堵されるという、比較的穏当な形で明治維新を迎えることができました。

明治2年(1869年)の版籍奉還により、誠胤は中村藩知事に任じられるとともに華族に列せられます。

そして明治4年(1871年)の廃藩置県まで、その職を務めました。

相馬事件

明治17年(1884年)、華族令の施行により誠胤は子爵に列せられます。

しかしこの直後、相馬家は思いもよらぬ形で世間の注目を集めることになりました。

誠胤の精神疾患をめぐり、旧藩士・錦織剛清が「家督相続を狙った身内による不当監禁だ」と告発した、いわゆる「相馬事件」です。

世論を二分するこの騒動は、誠胤の死後も含めて実に10年以上にわたって続き、日本の精神医療のあり方そのものにも影響を与える大きな事件へと発展しました。


しかしこの泥沼の騒動も、相馬家を止めることはありませんでした。

誠胤の死後、家督は異母弟・順胤へと引き継がれ、その子孫は宮内省勤務や多額納税者として、華族という立場に在り続けました。

そして時代が下り平成23年(2011年)の東日本大震災の際には、当主・相馬行胤氏が旧領・福島県相馬市でシイタケ農園を営みながら、被災者支援のための集団移住計画に携わりました。

血筋は千葉氏、心は将門、そして800年後の今なお、旧領との縁だけは途切れることなく続いている。

これもまた、相馬家という一族の「不屈」の一形態なのかもしれません。

松川浦大橋


将門の血ではなく、将門の物語を継いだ家

相馬氏という一族の歩みを辿り直してみると、見えてくるのは「将門の血を引く一族」という物語の裏側にある、もう一つの真実です。

彼らの実際の血筋は、平将門ではなく千葉氏でした。

しかし相馬氏は、将門ゆかりの土地を治めることになったその瞬間から、その土地に根付いた伝説や信仰を丸ごと引き継ぎ、自らのアイデンティティとして育て上げていきました。

血筋としては「よそから来た一族」でありながら、物語としては「その土地に古くから根を張る一族」であろうとした——この矛盾こそが、相馬氏という家の本質だったのかもしれません。

そしてその矛盾を抱えながらも、伊達氏との死闘を耐え抜き、関ヶ原後の改易危機を二度も覆しました。

この息の長さこそが、「将門の子孫」という看板よりも、はるかに驚くべき事実なのではないでしょうか。

毎年7月、相馬野馬追で疾走する騎馬武者たちが背負っているのは、もはや将門の血脈そのものではなく、その血脈にまつわる物語を700年以上守り抜いてきた、一つの家の記憶そのものなのだと思います。


番外章 もう一つの相馬家 惣領となった胤氏の行方

本編で触れた通り、4代当主・胤村が没した際、家督は先妻の子・胤氏に定まり、後妻の子・師胤は無位無官のまま生涯を終えました。

勝者となったのは胤氏の系統です。では、この「惣領」を勝ち取った本流は、その後どうなったのでしょうか。

胤氏の系統は、一族発祥の地である下総国相馬郡にそのまま残り、「下総相馬氏」として続いていきます。

室町時代には北相馬郡(現在の茨城県守谷市周辺)を本拠とし、守谷城を中心に勢力を回復。

当初は下総国佐倉城の千葉宗家の一族衆という立場でしたが、やがて鎌倉を追われた鎌倉公方・足利成氏が下総国古河に入ると、下総相馬氏はその奉公衆に組み込まれます。

そして古河公方が小田原北条氏の支配下に入ると、下総相馬氏もまた北条氏の傘下へと組み込まれていきました。

この選択が、命運を分けます。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めが始まると、北条方についていた守谷城は徳川家康の軍によって攻め落とされ、下総相馬氏はここで事実上滅亡してしまうのです。

戦後、一部の遺臣は徳川家康に召し出され、大坂の陣などで功を挙げて5000石を与えられ、旗本として家名は残りました。

しかし江戸時代中期には故あって知行地を没収され、蔵米取(下級武士)に落ちたまま幕末を迎えることになります。

鎌倉時代の家督争いで「勝者」となった胤氏の本流は、本領である下総の地にとどまり続けたにも関わらず、戦国末期に主家滅亡という形で歴史の表舞台から退場してしまいました。

一方、「敗者」として無位無官のまま終わった師胤。そしてその子・重胤の系統は、家督を継げなかったからこそ新天地・陸奥へと下向し、そこで700年近くにわたって存続する大名家を築き上げたのです。

本領を守り抜いた本流が滅び、所領争いに敗れて外へ出された分家が生き残る。

現代でただ相馬氏といえば、奥州相馬氏を指します。

「家督を継ぐこと」と「家を残すこと」が必ずしも同じ意味を持たない、という例がここに見えます。




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深水 夜名河(フカミ ヨナガ) 面白いと感じていただけたら、コストのかからないフォローとスキをくださると嬉しいです。 よろしくお願いします。