「子どもを愛している。でも、利用もしている」――親である理由を分解したら戻れなくなった
「子どもを愛している。でも、利用もしている」――親である理由を分解したら戻れなくなった
「もし今日、この子が死んだら、私は悲しみよりも先に『自分の人生の正当性』を失うことに絶望するだろう」
そんな最悪な予感から、目を逸らすために今日も私は「親」をやっている。
最初に言う。これは、きれいな話じゃない。
子どもを愛してる。これは本当だ。嘘じゃない。
でも、その「愛」という言葉を剥がしてみると、そこには別の顔が張り付いている。
「利用」だ。
・頑張ってる親でいたい
・ちゃんとした人生に見せたい
・意味のある人生だと思いたい
子どもがいるだけで、この「薄っぺらな自分」が、何者かになれた気がする。
逆に言えば、子どもがいない自分には、人生を支える背骨がない。
だから無意識に、子どもを自分の背骨にする。
・子どもの成長 = 自分の価値
・子どもの結果 = 自分の評価
・子どもの態度 = 自分の正しさ
全部つながっている。
でも、これをそのまま認めると、自分が化け物のように思えてキツい。
だから、私たちはすり替える。
「この子のため」
この瞬間に、エゴは「正義」に化ける。
一気に、気持ちよくなれる。
でも、中身は何も変わっていない。
だから、ズレる。
子どもは、言葉じゃなくて、親の「飢え」に反応する。
自分の空虚さを埋めるために向けてくる、その必死で、身勝手な“圧”に反応している。
ここで立ち止まる人は多い。
「子ども主体で考えよう」
「もっと寄り添おう」
そんなものは、ただの延命処置だ。もっと手前。
なぜ、愛にこれほど汚いものが混ざるのか。
この構造を直視しない限り、私たちは一生、子どもを「自分の人生のパーツ」として消費し続ける。
ここから先は、感情じゃない。
この救いようのない“構造”を解体する。
きれいに納得して、明日も「いい親」を演じ続けたいなら、ここで閉じていい。
でも、もし「本当のことを知りたい」と思ったなら。
この先はたぶん、相当、えぐい。
ここから先は
¥ 980
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
