彩音 -風の続き-|第二話【全五話】|白いアウディは、まだ海を走っていた
――この物語は、『同級生 -第三部-(最終章) So Long』と同じ時間の中で、静かに続いていた彩音の記録である。(全五話)
正人が入社してから、十年が過ぎた。
その間、彩音の仕事の隣には、いつも彼がいた。
大きなシステム障害。
夜中まで続く復旧対応。
社内の意見がぶつかる難しい調整。
簡単な仕事なんて、ほとんどなかった。
それでも正人は、いつも落ち着いていた。
誰かを責めることもなく、
最後には必ず言った。
「大丈夫。俺が確認するから」
その言葉に、何度助けられただろう。
正人は、仕事ができる人だった。
でも、それを振りかざすことはなかった。
部下の話を聞く。
後輩の失敗を受け止める。
必要なら、自分が前に出る。
そんな姿を見ているうちに、
彩音の中で何かが変わっていった。
尊敬。
最初は、ただそれだけだった。
ある日のキャリア面談。
提出された資料を確認していた正人が、突然吹き出した。
「……彩音」
「何でしょう?」
「生年月日」
正人が画面を指差す。
「1885年になってる」
一瞬、意味が分からなかった。
そして。
「え?」
「お前、141歳じゃん」
「ひどい。入力ミスでしょ」
「いや、すごい経歴だなと思って」
二人で笑った。
仕事中なのに。
ただの入力ミスなのに。
なぜか、その時間が心地よかった。
ふと気付く。
昔よりも近い。
仕事の話だけじゃない。
沈黙も気まずくない。
いつからだろう。
数年前。
正人は、私にだけ小さな声で話してくれた。
「実は、妻とは別れたんだ」
その言葉を聞いた時、
彩音は驚いた。
そして。
胸の奥が少し痛んだ。
知らなかったから。
でも、それだけじゃなかった。
ほんの一瞬だけ、
自分に何かを期待してしまったことにも気付いた。
けれど。
それからの正人は変わらなかった。
いつも通り優しくて、
いつも通り周りを見ていて、
誰に対しても誠実だった。
だから分かった。
これは、自分だけに向けられたものではない。
それでも。
いつの間にか。
正人は、彩音にとって特別な存在になっていた。
誕生日の日。
退社前に正人に呼び止められる。
「誕生日だったよな?これ。」
渡されたのは、
アンティークピンクのレザーポーチだった。
「覚えてくれたんですか?」
「数年前まで、自分で周りにはちゃんと言ってたじゃないか」
正人はいつものように笑った。
……少しは気にかけてくれてるのかな。
そう思った。
でも。
ううん。
特別な意味なんてない。
ただ、優しいだけ。
分かっている。
分かっているはずなのに。
嬉しかった。
ある日の定時後。
彩音は、正人の机上に視線が止まる。
置かれていた一枚の案内状。
『Restaurant SurfWind
10周年記念パーティー
8月13日』
と書かれていた。
正人は、何も言わなかった。
ただ、その文字を静かに見ていた。
「……知り合いのお店?」
彩音が聞く。
少し間があった。
「ああ、これか。ちょっとした知り合いの店。」
正人は案内状を手に取った。
「昔から付き合いがあってな。」
そう言って、少し笑った。
「写真の感じが素敵なお店ですよね」
それ以上は何も言わなかった。
ううん。
言えなかった。
でも。
その横顔を見て、彩音には分かった。
仕事で見せる顔とは違う。
遠くを見るような表情。
懐かしいものを思い出すような目。
この人の中には、
自分の知らない時間がある。
そして。
その時間の中に、
自分ではない誰かがいる。
彩音は、胸の奥で静かに理解した。
彼の白いアウディ。
海へ向かう道。
その先にある記憶。
正人の中では、
まだ終わっていない何かがあるのだと。
つづく
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マガジン|同級生 -after 15 years-
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