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19の私とメゾン・グリーンアップル|第八話【全九話】|夢は北に向かって

「ただいま。」

玄関を開けると、懐かしい匂いがした。

煮物と、焼いた魚と、少し甘い伊達巻き。

東京のワンルームにはない、家の匂いだった。

「おかえり。」

台所から母が顔を出す。

エプロンで手を拭きながら、

私のキャリーケースを見た。

「ずいぶん大きな荷物ね。」

「成人の日までいるから。」

「そんなに?」

母は驚いたあと、少しうれしそうに笑った。

今年は、いつもより長く八戸で過ごすことにした。

家族の顔を見て、昔の友達に会って、

故郷の空気を吸えば、

少しは気持ちを整理できる気がしたからだ。


「お前、彼氏はいないのか?」

居間へ入るなり、父が新聞の向こうから言った。

「もう。
お父さんが寂しいと思うから帰ってきてあげたのに。」

「俺は別に寂しくない。」

そう言いながら、父は新聞を少し下げる。

口元だけは緩んでいた。

母が料理を運びながら苦笑する。

「お正月からケンカしないの。瑠奈も手伝って。」

「はあい。」

台所へ向かいながら、私は小さく笑った。

何年たっても、ここでは私は娘のまま。

父が余計なことを言い、母が間に入り、

私は口を尖らせる。

その変わらなさが、少しだけ心を軽くしてくれた。


お正月が過ぎても、私は八戸に残った。

朝、窓を開けると白い息がこぼれる。

昔使っていた部屋には、

専門学校時代の本や小物がそのまま残っていた。

一つ手に取るだけで、胸の奥がきゅっと

締めつけられる。

初めての一人暮らし。

初めてのWebデザイン。

初めて本気で好きになった人。

あの頃は、傷つくことさえ知らず、ただ恋をしていた。


成人の日。

買い物の帰り、
振袖姿の女の子たちが笑いながら歩いていた。

赤、白、淡い水色。

慣れない草履で歩く姿を見ていると、

二十歳だった頃の自分を思い出す。

ふと、専門学校へ行ってみたくなった。

理由は、自分でも分からない。

懐かしい校舎を見たかったのか。

それとも、東京で働く今の自分を、

あの頃の自分に見せたかったのか。


学校は成人の日も資格講座のために開いていた。

廊下を歩く。

床の軋む音も、壁に貼られた作品も、

ほとんど変わらない。

教室の扉が開いた。

「え、礼美先生。」

礼美先生も驚いた顔をしたあと、

昔と変わらない笑顔になった。

「瑠奈ちゃん?」

名前を呼ばれた瞬間、

十九歳の私が胸の中で振り返った気がした。

礼美先生は講師室の小さなテーブルへ案内してくれた。

「コーヒーでいい? あっ、ココアだったね。」

「覚えていてくれたんですか?」

「もちろん。」

当たり前のように笑う先生を見ているだけで、

張りつめていた心がほどけていく。

私は東京での仕事のことを話した。

最初は何もできなかったこと。

初めて自分のデザインが公開された日、

何度も画面を開いてしまったこと。

礼美先生は、静かにうなずきながら聞いてくれた。

「頑張ったね。」

その一言が、胸に染みた。

東京では、頑張ることが当たり前だった。

立ち止まれば、自分だけ取り残される気がしていた。

「私も東京に出て、礼美先生の気持ちが

分かったような気がするの。」

礼美先生が少し目を見開く。

「東京って、何でもあるのに、

急に一人になるんですよね。」

「そうね。」

「仕事がうまくいっても、部屋へ帰ると誰もいなくて。」

ココアの表面が小さく揺れた。

私は紙コップを両手で包み込む。

「あのね、先生。」

「うん。」

「健二と……疎遠になっちゃって。」

礼美先生は驚かなかった。

ただ、小さく「そう」とだけ答えた。

その一言だったから、私は続きを話すことができた。

窓の外へ視線を向けた礼美先生が、静かに口を開いた。

「若い頃の恋って、あとから分かることが多いから。」

その言葉に、胸が痛んだ。

近くにいるときには気づけなかった。

健二がどれだけ私を大切にしてくれていたのか。

何度も東京まで会いに来てくれたこと。

疲れていても電話をくれたこと。

寂しいと言いながらも、私の夢を応援してくれたこと。

離れてから、ようやく分かった。

礼美先生は少し間を置いて言った。

「あのね、瑠奈ちゃん。」

私は顔を上げた。

「偶然なんだけど、年末に健二くんが学校へ来てたの。」

一瞬、息の仕方を忘れた。

「健二が?」

「うん。この町も、学校も懐かしくなって、

つい寄ってみたんだって。」

礼美先生は、あの頃の健二を思い出すように微笑んだ。

「瑠奈ちゃん、東京で元気にしてるかなって話してた。」

胸の奥が熱くなる。

私のことなんて、もう忘れていると思っていた。

新しい恋に進んでいるのだと思っていた。

私だけが、
昔の思い出から抜け出せずにいるのだと思っていた。

それなのに。

それなのに、どうして。

どうして、今でも私のことを心配しているのよ。

視界がぼやけた。

慌てて顔を伏せると、涙が一粒、手の甲へ落ちた。

礼美先生は何も言わず、ティッシュを差し出してくれた。

しばらくして、静かに口を開く。

「健二くんね。」

私は涙を拭いて顔を上げた。

「本当に、瑠奈ちゃんのことを大切に思ってたよ。」


その言葉は、胸の奥へ真っすぐ届いた。

私をからかって笑う顔。

眠そうな目でコーヒーを飲む顔。

照れながらネックレスを差し出した顔。

駅のホームで、離れたくないと言えずにいた顔。

忘れようとしていたのに、

本当は一つも忘れていなかった。

学校を出る頃には、冬の日は傾き始めていた。

冷たい風が頬に触れる。

それでも、心の中には小さな火が灯っていた。


その夜。

実家の自分の部屋で、私はスマホを握っていた。

健二の連絡先は、消せずに残してあった。

何度も文章を書いては消す。

結局、送ったのは短い一文だった。

『久しぶり。元気?』

送信した瞬間、後悔した。

そのとき、通知音が鳴る。

『元気だったよ。瑠奈は?』

思っていたより早い返事に、肩の力が抜けた。

『私も元気だったよ。』

少し間が空く。

『東京で頑張ってるんだろ?』

『うん。なんとかね。』

『瑠奈も頑張ってるよな。』

昔と変わらない言い方だった。

またメッセージが届く。

『この前、本八戸で瑠奈のお母さんにばったり会った。』

思わず体を起こす。

『近況を教えてくれてさ。東京で頑張ってるって。』

「ちょっと、お母さん。」

階下からは、父と母の笑い声が聞こえていた。

『お母さん、余計なこと話してない?』

『だいたい全部聞いた。』

「もう!」

枕を抱えながら顔をしかめる。

それでも、口元は笑っていた。

『全然恋人ができないことも?』

送ってから、慌てて取り消そうとした。

けれど、もう既読がついている。

『それは聞いてない。』

頬が熱くなる。

何を書いているんだろう、私は。

しばらくして画面が光った。

『俺もいないけど。』

たったそれだけ。

それだけなのに、胸の奥で何かが跳ねた。

『そうなんだ。』

それ以上は書けなかった。

健二も書かなかった。

それでも、その沈黙は心地よかった。

やがて、どちらともなく昔の話になった。

学校のこと。

礼美先生のこと。

八戸の冬のこと。

そして、メゾン・グリーンアップル。

『まだあるんだよな。』

『あるみたい。』

『大家さんも元気らしい。』

あの階段。

河原の見える窓。

小さな台所。

健二が何度も訪ねてきた部屋。

私の最初のお城。

『懐かしいね。』

送ると、少し間が空いた。

『今度、見に行かないか?』

胸が小さく鳴る。

「会いたい」とは書かれていない。

それでも、健二は私と一緒に行こうとしている。

『えっ?』

そう返したあと、もう一通送る。

『うん。じゃあ、今度戻ったときに。』

春の予定を思い浮かべる。

『ゴールデンウィークかな😊』

『了解。』

少しして、また通知が鳴った。

『約束だからな。』

私はその六文字を何度も読み返した。

約束。

健二と交わすのは、いつ以来だろう。

スマホを胸へ抱き寄せる。

もう二十四歳なのに。

恋をする心だけは、十九歳のままだった。

『うん。約束。』

送ると、健二から笑顔の絵文字が一つ返ってきた。

その小さな笑顔だけで、

冷たい冬の夜が少しだけ春に近づいた気がした。

窓の外には、八戸の星が輝いていた。

東京では見えない、小さな星まで。

私はカーテンを少しだけ開けたまま、ベッドへ入った。


ゴールデンウィーク。

もう一度、健二とメゾン・グリーンアップルへ行く。

あの部屋の前で、どんな話をするのだろう。

昔の続きを話せるのだろうか。

それとも、新しい何かを始められるのだろうか。

まだ分からない。

けれど、不思議と怖くはなかった。

長い間、南へ向かって走り続けてきた私の夢が、

今度は少しずつ北へ向かい始めている。

仕事も、暮らしも、そして恋も。

遠回りをしたからこそ、

見つけられる未来があるのかもしれない。

スマホの画面には、健二との新しいメッセージが

残っていた。

『約束だからな。』

私はその文字にそっと指を重ねる。

「今度こそ、ちゃんと話そう。」

そうつぶやくと、胸の奥が温かくなった。

十九歳の春に始まった恋は、終わっていなかった。

ただ、二人がもう一度同じ場所へ戻る日を、

静かに待っていただけなのかもしれない。

そして次の春。

メゾン・グリーンアップルの前で、

止まっていた二人の時間が、もう一度動き始める。

今度こそ、二人で続きを見つけるために。

つづく



第八話ダイジェスト

▶次の物語
第九話(最終話)|24歳の私とメゾン・グリーンアップル
Coming Soon!!



▶本作のマガジン
19の私とメゾングリーンアップル【全九話】


▶ワンルームシリーズの原点
東京ワンルームの恋 ─Time Goes By─【全五話】
30歳になった礼美が振り返る、18歳から東京で過ごした恋と別れの記録。


▶ 作者
Ryo.|プロフィール・作品一覧


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