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定年退職日記:あの時の青に

どこからが空で、どこからが海なのか、今朝の境界線はひどく曖昧だった。
休日というのは、カレンダーが僕たちに手渡してくれるささやかな空白だ。
とりわけ定年という、人生の大きな曲がり角をすぐそこに控えた人間にとっては、その空白は少しばかり持て余すほどに静かだ。

「幸せの形は人それぞれだ」なんていう、何十万回も使い古されたフレーズがある。
現代の僕たちにとって、その言葉はまるで賞味期限の切れたレトルト食品のように、どこか虚しく響くだけだ。
僕たちは一体、何を探してここまで歩いてきたのだろう。
ふと見上げた空は、ただどこまでも青かった。

その青さは冷徹なほどに無機質で、僕たちの心の渇きを潤してくれるわけでもなければ、冷たく突き放すわけでもない。
ただそこに、存在している。
飢えているわけではない。かといって、何かに満たされているわけでもない。
自発的でも受動的でもない、熱を失った凪の空間だ。
今、僕の目に映るのは、どこかで見たことのある間取りの幻影だった。
その時、ふいに風が変わった。

湿り気を帯びた初夏の風が、冷え切っていた空気を少しだけ緩める。
ベランダから漂う清潔な匂いが、風に混じって届いた。
世界は、今日も誰かの生活で満たされている。

世界がどれほど揺らごうとも、生活は容赦なく営まれていくのだ。
そんな生活の断片が、なんの遠慮もなく、僕の鼻腔をくすぐってくる。
僕は今、この凪いだ青の中で、終わりのない漂流を続けている。
僕たちが探すべき「幸せ」という島影は、初めから地図に載っていなかったのか。
それとも、あまりに透明すぎて、気づかずに通り過ぎてしまったのだろうか。
答えは出ない。

ただ、空と海が青い。

その残酷なまでの鮮やかさだけが、今、僕が指先で触れられる唯一の現実だった。
明日からもまた、太陽は当たり前のように東から昇る。
定年を迎えたからといって、地球の回転が少しでも緩むわけではない。

ただ、僕の時間だけが、少し静かに回り始めている。
僕はグラスの表面を濡らす水滴を指先で拭い、アイスコーヒーをひと口含んで、もう少しだけ、この青さを眺めていることにする。




以前書いた「青の残像」を書き直したもので、内容はほぼ同じです。
御容赦ください。




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