定年退職日記:心拍数の限界
最近は、奇妙なほどに穏やかな時間の余白の中にいる。
会社を早引きすることも多くなり、休みも驚くほど自由に取得できる。
医者に足を運ぶときなど、以前なら躊躇していたような午後半休を積極的に滑り込ませる。
結果として、僕の手元には使い道の定まらない「自由な時間」が、まるで引き出しの奥で見つかった古い外国のコインのように、ゴロゴロと転がることになった。
かと言って、その時間を使って何か新しい高尚な趣味を始めるわけでもない。
ただ、ゆっくりとする。
静かに流れる時間を、そのまま薄いガラス越しに眺めるように過ごす。
それがここ最近の、僕のささやかなトレンドだった。
そうした時間の空白を埋めるために、僕はテレビをつける。
そしてアマゾンプライムで『BONES』という作品に足を踏み入れることになった。
長い海外ドラマ。
それは気が遠くなるほど壮大な、そして贅沢な時間潰しだ。
ソファの周囲には飲み物やリモコンが手の届く位置に配置され、僕はそこからほとんど動かない。完璧に設計された怠惰のシェルターだった。
そんなある日、画面の中で「心拍数の限界値」に関するエピソードが登場した。
普段なら右から左へ聞き流してしまうようなセリフだったが、なぜかその部分だけが、意識の表面に妙に引っかかった。
心拍数の最大値。
それは「220から年齢を引いた数値」で算出されるという。
その退屈な数式に現在の自分を当てはめてみると、弾き出された数字は「155回/分」だった。
1分間に155回。ごく普通の日常を静かに営む中で、僕はそれほどの激しい鼓動を記録することは、なくなった。
数年前、血圧の数値に少しばかりの懸念を抱くようになってから、ガーミンのスマートウォッチを腕に巻くようになった。
それは時計という形をしているから、毎朝、ごく自然に身につける。
スマートフォンのメール通知が手元で震えるのは、思いのほか便利な機能だった。
ただ、ランニングや激しいスポーツを趣味としていない僕にとって、この精密な機械が提供してくれる多種多様な体調管理データは、宝の持ち腐れに近い。
それでも、万歩計の数字や心拍計のグラフだけは、時折思い出したように確認していた。
最初のうちは、今日何歩歩いたかという単純な数字に一喜一憂していたのだが、ある時の健康診断で心臓の不整脈を指摘されてからは、心拍数の動きそのものが、少しだけ不気味な意味を持って迫ってくるようになった。
医師は、心臓エコー画像が動くディスプレイを見ながら、まるで天気の話でもするように「まあ、急にどうこうなるわけじゃないですよ」と言った。
それでも、ドラマの中でふと提示された「220から年齢を引く」という数字だけは、小さな棘のように頭の片隅に残り続けている。
毎日の通勤ルートには、かなりの段数がある階段が存在する。
最近、その階段を上がることが、以前に比べて確かに苦しくなってきた。
上り始めたばかりの頃は、露骨な息切れを起こしていた。
しかし人間の身体というのは奇妙なもので、毎日繰り返すうちにその負荷に慣れてしまい、今ではそれほど激しい息切れを起こすこともなくなっている。
それが身体の好転を意味しているのか、あるいは単なる麻痺なのかは、分からない。
ただ、あの頃は今よりずっと、限界の近くまで心臓を使っていた。
いよいよ65歳になろうとしている僕の心臓は、最近の記録を見る限り、どれだけ激しく動いても140あたりで踏みとどまっている。
階段を上る技術が老練の域に達したのか、あるいは無意識のうちに効率的な呼吸法を身につけたのか。
階段を上りきり、平坦なアスファルトの道を歩いているときも、かつてのような激しい動悸や過呼吸に襲われることはない。
スマートフォンのアプリに残された記録を確認しても、最高値は138。
それほど苦しさを感じる数字ではない。
子供の頃は近くの海で波に飲まれ、若い頃は山を登った。
けれど会社員になってからは、自分から息を切らす機会をほとんど持たなかった。
身体は衰えるというより、静かに使い方を忘れていく。
運動不足と加齢という二つの巨大な重力から、どうあがいても逃げられない。
だけど、今日も、通勤路での地下からの階段を上る。
地上に上がると、肺に流れ込む、雑踏からの空気が生暖かい。
そして胸の奥で刻まれる不確かな鼓動。
その鼓動が警告なのか、まだ生きている証なのか。
僕は平然とした顔で街を歩き始めた。
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