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ちはやふる、と打ち込んだ朝

今朝の雨は、久しぶりに空気を柔らかくしていた。
湿り気を含んだ車内で、吊革の冷たさだけが妙に現実的だった。

揺れる電車のなかで、僕はいつものようにタブレットを開く。
八インチの画面は、
老いた眼にとってはほとんど“避難所”のようなものだ。
ページをめくるたび、視界の端がじんわりと滲むのは、
年齢のせいだと、最近は素直に思うようになった。

その朝、画面には『ちはやふる』の一巻がひらかれていた。

物語は、静けさと緊張が同居するクイーン戦から始まり、
突然、時間は巻き戻される。
まだ声変わりもしていない子どもたちが、
競技かるたという、静謐で、しかし苛烈な世界へ踏み込んでいく。

「ちはやふる」という言葉の意味を、
僕はかつて、ただの語感として受け流していた。

独楽が高速で回転し、
まるで止まっているように見えるあの瞬間——
あれが「千早振る」だと知ったのは、ずいぶん後になってからだ。
その意味を、 その時の僕はまだ受け止めきれていなかった。

芯がぶれないということ。
静かに、しかし確かに動き続けるということ。
その意味が、今の僕には、 かつてよりもずっと重く響く。

読み進めるたび、胸の奥で何かがほどけていく。
競技かるたの熱心なファンでもなく、
古典文学に通じているわけでもない。

それでも、序歌の一行だけで涙腺がきしむのは、 記憶のどこかに、
まだ触れられていない“古い痛み”が そっと眠っているからなのだろう。

オフィスに着くと、 定年退職までの数字が、背後で静かに減っていく。
午前中の仕事といえば、
ジャンクメールをいくつかゴミ箱に放り込むだけだ。

誰も僕に干渉せず、誰も期待しない。
その静けさを、四十年働いた自分への小さなご褒美だと思うようになった。

ふと、 この胸の揺れを文章にしてみようと思った。
だが、映画にもアニメにもなった名作だ。
今さら僕が何かを語ったところで、
水面(みなも)には波も立たないのだろう。

そう思いながら、 noteの検索窓に「ちはやふる」と打ち込んだ。
どんな言葉で人はこの物語を受け止めてきたのか、 ただ知りたかった。

スクロールしていく指が止まった。
「末次由紀」という名前が、そこにあった。
物語とは少し異なるトーン。
手書きの絵がふんだんに使われた、やわらかな記事だった。

同じ街の、同じ地面の上で、 あの物語を生み出した人が、
静かに文章を綴っている。
その事実だけで、胸が熱くなる。

気づけば二時間、 彼女の言葉を追い続けていた。
画面から立ちのぼる熱に息が詰まる。
僕はそっと、大きく息を吐いた。

本物の魂が、すぐ近くで呼吸している。
そう感じてしまった以上、
僕の手慰みのような言葉で 『ちはやふる』を語ることなどできない。

けれど、 この朝の湿り気や、
独楽のように揺れ続ける胸のざわめきだけは、
どこかに置いておきたかった。

だから今、 静かに言葉を並べている。




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