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缶詰

小さな駅前の通りで、その中華料理屋の赤い暖簾だけが、西日に色褪せて揺れていた。
ガラガラと、油をさしていない扉が泣く。
振り向くと、紺色の制服を着た駅員が立っていた。
制帽を両手で大切に持ち、少し照れたように、はにかんでいる。
「内海さん、23年間お世話になりました。
 入社して、この駅が最初の配属でした。
 初めて笛を吹いて、震える手で指差確認をしたとき、
 地元の学生に見られて緊張したあの駅が……
 今日で最終日だなんて、まだ信じられないよ」
店主は、使い込まれた黒マスク越しに目を細めたが、笑顔はなかった。
カウンターを拭いていた手を止め、ただ静かに、深く頷いた。
駅員は、誰も座っていないガランとした店内をゆっくりと見回し、天井のシミを見つめて言った。
「ここで昼を食べるのが、俺の習慣だったんだよ。
 でも、もうメニュー札も全部剥がされてしまったね」
店主は、力なく首を振った。
「材料も仕入れてないんだ。……今日が最後の日だからね」
その時、カウンターの隅に座っていた主人公が、背負っていたリュックに手を入れ、一つの小さな物体を取り出した。旅先で買った、その土地のご当地缶詰だ。
「これ……もし、よかったら使ってください」
店主は老眼鏡をかけ、不思議そうに缶詰を覗き込み、
小さくつぶやいた。
「……俺の、田舎の缶詰だな」
その声は、遠い記憶の埃をそっと撫でるように、掠れていた。
「十五で街に出て、死に物狂いで中華料理屋で働いて……
 十八でこの空き家を譲ってもらって、店を開いた。
 開店の日に、来てくれた客に配ったのが、この缶詰だったよ。
 田舎の味を忘れないようにってな」
主人公も駅員も、言葉を失った。
古びた柱時計の秒針だけが、セピア色の空間で「コッ、コッ、コッ」と規則正しく時を刻んでいる。
店主は、電源の落ちたテレビの横にある棚から、
薄くホコリをかぶった小さな段ボール箱を抱えて戻ってきた。
「喜怒哀楽、いろいろあったさ。
 でもな……これは開店の時に配った缶詰の、最後の残りんだ。
 店をやめようと思った時、これを見て、何度思いとどまったことか。
 ……俺の、形見だよ」
主人公は、店主がカウンターに広げた白黒写真を見つめた。
開店を記念したその写真の隅に、今、目の前にある古びた段ボールが写っていた。
「……この段ボールって、本当に、これですか」
店主は静かに、誇らしげに頷いた。
駅員は、帽子を深々とかぶり直し、
寂しさを隠すように、少し明るい声で言った。
「最終の電車が、30分後にやってくる。
 そろそろ昼休みも交代だから戻るね。
 大将、早番終わったら、後でまた必ず来るし……また話、聞かせてよ!」
扉が閉まり、ガラガラという音が途切れると、店内は再び、静寂に包まれた。
主人公はスマートフォンを取り出し、カウンターの上の缶詰と、
そして少し照れ臭そうに立っている店主の姿を、
そっと写真に収めた。
店主の“始まり”の味が、自分の記憶にも、確かに残るように。
店主は段ボールの蓋に手を置いたまま、
誰に向けるでもなく、遠くを見つめてつぶやいた。
「……時間は、待ってくれないな」
主人公はその言葉を聞きながら、
胸の奥にゆっくりと広がる、切なくも温かい感情を確かめるように、深く息をした。
「もう一度、やり直してみたいって感じることは……
 変わることを恐れていない、証拠んだな」
店主は、老眼鏡の奥で主人公を見つめ、
ゆっくりと、静かに頷いた。
柱時計の秒針が、また一つ、静かに音を刻む。
主人公は静かに立ち上がり、
油の染み込んだ店の扉へ向かった。
物語はそこで、静かに途切れた。
しかし、その先に続く時間は、
もう主人公自身の、新しい物語だった。

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