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グノーシア・アンダーテール・文芸部(短歌)

グノーシアをクリアした感想です。

短歌は出てきません。

グノーシアを中心に、アンダーテール・ドキドキ文芸部・インスクリプション・フーカーヘイズのネタバレを含む記述があります。
特に説明とかしませんので、やったことないゲームに言及してる場所は飛ばしていただくか、見たあと記憶を消してください。



みて!クルーがループに囚われて踊らされているよ!かわいいね

致命的なエラーにより宇宙は消滅してしまいました
プレイヤーのせいです
あーあ

結果的に、本記事はいろいろなゲームを大なり小なり引き合いに出して、筆者のこれまでのメタフィクショナルなゲーム体験を整理していく内容になりました。
グノーシアは、そんなことを書かずにはいられないくらい楽しいゲームでした。

きっかけは、シナリオの中盤・セツと協力してループの謎を解きみんなを救おうとしていたところ、夕里子やラキオから突然、
・「この船にグノーシアが生ずるのはお前のせいです あーあ」
・「ループが繰り返されるのは情報を食い荒らすお前のせいです あーあ」(意訳)
とか言われたところ。

こわ

でもそんなこと言われたらやっぱあのゲーム、あの場面が思い浮かんできちゃうよね。

ある日何もかもがリセットされてしまいました。
ゲームのスクリプトが壊れてしまいました。
プレイヤーのせいです。
あーあ

ちょっと前にツイッター学級会で見かけた、
アンダーテールを指して「みんな不幸になりましたプレイヤーのせいですあーあ系ゲーム」🆚「プレイヤーのみなさんのおかげでしたBIGLOVE系ゲーム
みたいな議論がおもしろかったので、ゲームの比較軸の一つとして自分の中に定着していたみたいです。
ちなみにその時思ってたBIGLOVE系ゲームの筆頭がドキドキ出家タイム文芸部ですが、その話はまた後ほど。

スクリプトが壊れてしまいました。あーあ
ドキドキ出家部



「グノーシア」におけるループとは、主人公に寄生した情報収集デバイス「銀の鍵」が船員の情報を収集しながら並行宇宙へどんどん移動していくこと。

ゲームにおいて、プレイヤーに与えられる「知識」はとても強力な武器であり、報酬であり、エネルギーである。要するに、知識を追い求めるのはプレイヤーのエゴということができる。
そんなプレイヤーのエゴで、悲劇に付き合わされるゲームキャラにはどう向き合うべきなのか。プレイヤーが知識を食い尽くしてさっさと次のゲームに行ってしまうだけの存在ならゲームとプレイヤーは互いにどう向き合うのか…?

ええー、でもさあ、、、俺が金と時間を捻出してこのゲーム起動しなかったらなんにもならないんだからさあ・・・
キャラクターにどんな想いを馳せるのかはプレイヤーがいないと成立しないんだから、ゲームキャラの命運を全てプレイヤーが握ってるのは自然なんじゃ…??

おはなのフラウィも、そうだそうだと言っています。

あるいは、プレイヤーは何か決定権があるように見えてただ知識欲の奴隷なのかも。
所有したゲームを前にすると条件付けによってただひたすらに、疑問にも思わず目の前のゲームを攻略していくだけの存在かも知れない??
そう言う言い方は単にプレイヤー🆚ゲームキャラの構図を煽るだけにとどまらない感じがして好きですね。
「恐縮だが、そのゲームをクリアしてくれないかな。」




じょうほうおいしいぱくぱくもぐもぐ

はい、そうです。私が知識欲の奴隷です。
だってこのゲームの情報おいしいんだもんぱくぱくもぐもぐ・・・

銀の鍵が使えなくなって若干手詰まりを感じながら初期条件いじっているとき勢いあまって偶然見つけた「グノーシア:0人」の文字と「Day 0」
これを見たとき胸がすくような思いがした。。全く新しい方面からの情報量をもらって探究心に一気に飢えがもたらされた。それと同時に、ここまで攻略してきた体験を全く変えてしまうような気がして、「これ、本当に触れていいものなのか?」というゾワっとした感じがあった。
・例えば「Outer Wilds」で「座標」を手に入れたとき。
・例えば「Undertale」で「あのビデオ」を見たとき。
・例えば「TUNIC」「Inscryption」で「あのデータ」を見たとき。

いずれも、脳内一面がオセロのようにパタパタと音を立ててひっくり返っていく痛快でちょっぴり怖い、でもそれゆえ底無しに魅力的な瞬間だった。

そんなゲームたちをプレイし終えたあとも、「もうこの体験は初見で味わえないのか…」という虚しさと絶望が入り混じったような感覚をおぼえ、それはすぐに、「似たような体験ができる他のゲームをもっと遊びたい」という飽くなき欲望へと変わっていったのだった。
巷にあふれる(?)「Outer Wildsゾンビ」のひとりになっていた。

はじめ全ての作品は完全で、プレイするごとにそのかたちは削れていく。それでもその作品が甘美とわかるとのめり込んで食べつくし、残りが無くなったことに駄々をこねて次のゲームに移っていく。。。

プレイヤーに食べ尽くされたゲームにはもう何も残ってないのか?ゲームとプレイヤーとの知的探究の関係はそこで絶たれるのだろうか…?




プレイヤーの皆さんのおかげでした

・・・しかし、どんな形にしろ、何かしらを「知って」、プレイヤーが行動しないと迎えられなかった皿の底=結末もあるよね。

疑うな。恐れるな。そして知れ。
全ては知ることで救われる

グノーシア:「銀の鍵」起動のためのキーワード

この言葉によってセツのループははじまり、主人公のループもはじまり、セツは一命をとりとめ、クルーはグノーシアのゲームに巻き込まれていった。

そう、そんな結末の中には、ゲーム内の知識をもっと欲しいと、キャラのことをもっと知りたいと思ったからこそ勝ち取ることのできたものも存在する。
「プレイヤーのみなさんのおかげでしたBIGLOVE系ゲーム」な結末だって、プレイヤーが何かを知って行動したから迎えられた結末のひとつと考えられるわけで。アンダーテールのPルートなんかが典型的かと思いますが。
あ、ソウルレスの御方は帰っていただいて…

プレイヤーの価値観や欲望に対して善悪性を審判することよりも、ゲームプロセス的・表面的な出力結果に過ぎないプレイヤーの選択に善悪性を求めることの方がよっぽど問題だと思います。


上述した夕里子やラキオのエキセントリックな言い回しもあって、
「ループを繰り返すのはプレイヤーがゲームの知識を満腹になるまで欲しがるから」という責めを受けているようにも思えたが、その起点になる行動が、「セツにとっては文字通り命を救われた行動だった」という点が、
セツとみんなを巻き込んだのは主人公のせいであり、
セツの命を救い最終的にみんなを救ったのは主人公のおかげでもある、
この2つが、1つのエンディングのなかで同時に進行していたというグノーシアの構成は本当に見事だった。

1つのエンドで片方の側面だけ見せ、そのルートにおけるプレイヤーの価値観を評価し、別のエンドでは別の評価を・・・というのではなく、
一本のエンドとして、メタ的なゲーム攻略とか関係なくプレイヤーの自然な知識欲から生まれる疑念、葛藤、結実、、、そうした要素を一度に味わえたと思う。
ゲームパートを人狼ゲームという「役職を騙る・演じるゲーム」にすることで、生身のプレイヤーはゲームに合わせて何かになりきることを人狼ゲームのパートに合わせてチューニングすることができ、セツとともにゲーム世界の謎に迫るパートではより生身のプレイヤーに近い感覚で味わうことができやすくなっているのかも。
プレイヤーの知識欲に従った行動にゲーム側からの一定の葛藤を味わせつつも、プレイヤーの熱意の代名詞たるゲーム的行動の積み重ねで最終的にみんなを救うことができたしセツにも感謝されたんだもんね。。。

あとちくちく言葉使ってくる夕里子とラキオも潜在的にはとてもLOVEなのもよきでした。
TSUNDERE万歳。やはりGLaDOSは正しかった。

『べっべつにプレイヤーのことなんか全然好きなんかじゃないんだからねっ!!』




そんなキャラクターたちとの見えない絆のようなものをおぼえ、何かをする気にさせるほど揺さぶられたある体験談。
場面は、グノーシアであることが乗員のSQにばれ、「協力する代わりに最後まで生き残らせて」と取引を持ちかけられた回。どうせこの回もループして元に戻っちゃうから、と、ループのことをSQに打ち明けるプレイヤーに、ここまで協力関係を築いてきたSQはある思いを打ち明ける・・・

「結果を表示します」のUIが出たあと割り込むようにしてSQの告白が挟まれる

まるで、ゲームシステムに抗ってまで主人公に想いを伝えにきたSQ。この演出にはかなりグッときました。。。
他作品のこんなシーンを思い浮かべたり・・・↓

モニカ「文芸部なんて……大好きだーっ!」
スクライブたち「カードゲームなんて……大好きだーっ!」

システムを無視してでもプレイヤーとの絆を再確認するようなシーンが思い浮かぶ、このゲームをプレイしていて良かったと思えるBIGLOVEな瞬間だったと思います。

ループが終われば、プレイヤーとそのキャラとの関係も、ひとまずは終わってしまうのかもしれない。
けれど、あるループの中で心打たれ、彼ら/彼女らの幸せを願うようになる・・・そんなことだって、きっとあり得る。


以下、当該ループにてSQとふたりきりになるために突然グノーシア仲間を次々切り捨てる凶行に走るプレイヤーの記録をご覧いただきたい。

こんな恣意的なことをしておいてあんな終わり方をするループ、忘れられないものになったと思います。




我々はどこから来たのか 
我々は何者なのか 
我々はどこに行くのか


あ、そうだ(唐突)
ゲーム音楽が趣味なもんで、サントラ買ったんですけども、付属の歌詞カードにエンディングテーマ「blue sky, blue star(青い空、蒼い星)」の歌詞が載っててですね、それ見ててちょっとピンときてしまったものを書き残しておこうと思います。

someone said,
"D'où venons-nous?
Que sommes-nous?
Où allons-nous?"
you don't say, no looking back to me
blue sky too, just there,
leads to the blue star

誰かがいった
「我々はどこから来たのか
我々は何者なのか
我々はどこに行くのか」
あなたは何もいわず私を振り返ることもなく
青い空もそう ただそこにあって
蒼い星へと導く

グノーシア・エンディングテーマ
「blue sky, blue star(青い空、蒼い星)」より

我々はどこから来たのか・我々は何者なのか・我々はどこに行くのか」とは、かの画家ポール・ゴーギャンの代表作のタイトル。横に長い絵画で、右から左にかけてまるで絵巻物を鑑賞するかのように、タイトルにある3つの問いかけを順番に象徴していると言われている。

ポール・ゴーギャン作 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
(1897・パブリックドメイン)

グノーシアのクリア後に表示されるタイトル画面もまた、一画面に収まりきらない横長の構図で、プレイヤーが自らスクロールして全体像を把握する構成になっている。
さらに、そこには仲間たちが右から左へと歩みを進める姿が描かれており、ゴーギャンの絵画との関連がすぐに思い浮かんでしまったのだ。

グノーシアをクリアすると解放されるタイトル画面。
映ってないけどラキオと夕里子と沙明もいます。
セツはいません セツない…ってコト!?

このタイトル画面には「セツ」の姿がない。プレイヤーと最も深く関わったはずの人物が、画面のどこにも描かれていない。
けれど、この画面を眺めるプレイヤーにとって、その「不在」がかえって彼/彼女との記憶を引き立たせる。

歌詞はこう続いている;

あなたは何もいわず私を振り返ることもなく
青い空もそう ただそこにあって
蒼い星へと導く

ゲーム側の発言とも捉えられそうな歌詞において、引用した前述の問答にこんな逆セツ逆説的な応答を提示しているように思えた。

・エピローグにおいてその後が語られることのない、タイトル画面にも登場しないセツはどこから来たのか
・そのことをただ一人記憶している主人公は何者か
・「銀の鍵」の知識欲を満たした彼らはどこへ行くのか

しかし(逆説)、そんなことを考えることができるのはセツが確かに居たから。プレイヤーがいたから。
どんな結末だろうが、ゲームとそのプレイヤーは、双方向型メディアの中で時間を共有した共犯関係だ。
作品の鑑賞において、「まず前提としてそこに立って共に作品を見た」ことで、その物語を一緒に見届け、場合によっては共に考えることができる関係性になった、青空のようにただそこに居ただけで、そんな緩い、しかし確かな繋がりを築けた気がします。

・・・そんなことを考えていたら、ペルソナ3の「キミの記憶」の理解度が一段階深まったようにも思う。

「忘れないよ。駆け抜けた夜を。」

ゲームキャラにとっては、プレイヤーはただ存在するだけで様々な事件に巻き込まれうる災厄と同時に、そもそもプレイヤーがいなければ世に解き放たれることがなかった、彼らの個性が記憶されることがなかった鏡のような存在かもしれない。我々の星の蒼さというのは散乱光による青い空の写し鏡だし。
それで最後、セツはプレイヤーのせいで自分だけループに囚われることになってもプレイヤーのおかげで命を救われたことの感謝を言って送り出してくれたのかな。

作品の素晴らしさが見出され、こうやって語れるようになるまでプレイヤーに影響を与えられたり、ファンコミュニティが育っていくのはさ、もうそこまで行ったらゲームキャラたちはもう単一のプレイヤーに対しては「勝ち」あるいは「作品的な成功」であって、Inscryption的に言ったら「大いなる超越」を果たしていると思うんだよね。
今や一大コンテンツとなりファンダムを築き上げたUndertale、各人のたどり着いた結末がPだろうがGだろうがソウルレスだろうが、あるいはmodや二次創作だろうが、もうここまできたらChara含めたゲーム側の「勝ち」と思っている。

*脱線*
筆者は、プレイする時間をコントロールされるという点と終わりがわからないという点で運営型ソシャゲが得意じゃなくて、その理由で数年前にモンストとかThe Crew 2を辞めてから運営型ソシャゲは一切(たぶん)やってないのだが、
ゲームキャラとの付き合いという点を考えるとそういったゲームもちょっといいな、ということを、アクスタやサントラをはじめゲーム関連グッズを収集するようになってから思いはじめてきた。
・・・こういうグッズ展開は買い切り型ゲームにおけるGaaSみたいなものなのかなと勝手に思っています。
※期間限定コンテンツが無いことや自分のペースで進められることから、定期アプデのあるゲームでもスノーランナーみたいなのは長く続けています。



エピローグ:
インスクリプション・フーカーヘイズ(下の句)

ゲーム作ったことも無い筆者がこんなこと考えるのは傲慢かも知れませんが、ゲーム側からは、誰かがプレイヤーになってくれた、プレイヤーの存在そのものに、「キャラクターをその脳内に投影することで生かしてくれてありがとう」という感謝の対話をしてくれたような気がします。

*筆者の過去記事ですが、キャラの幸せを願ったことで真エンドに導けたと思えた例

フーカーヘイズでは、3人のヒロインに用意されている個別ハッピーエンドを全て見ることが真エンドの解放条件になっているが、その個別エンドでは、選ばれなかったヒロインが後味の悪い結末を迎えるのに加えて、どのルートでも主人公の炭木トオルくんちゃんが病で亡くなってしまう。

俺はどうにかしてトオルちゃん含めた全員が幸せになる世界を求めたかったんだと思う。
文芸部でなんとかしてダンサルバトのラブレターを受け取ったように。

真のハッピーエンドにたどり着くためにBAD BAD BADなエンドを回収しなければならなかったのは業でもある。しかし、それによってしかトオルくんちゃんはほんとの意味で救われなかったという複雑な構造によって、ゲームの規模に反して印象深い体験を味わえていたと思う。


ナラティブな謎解き・パズル系ADVによくあるのかも。
開発者が考えためっちゃ面白アイデアを最後まで遊んでくれたプレイヤーに対してのお礼的な演出。
PortalやSuperliminalのコメンタリーモードをそのままゲームに落とし込んだような演出。
勝ち負け関係なく最後に「いいゲームだった」と握手を求めてくるスクライブたち。


あるキャラクターが前回のゲームと同じセリフを言ったとしても、役割が変わればその意味は同じであるとは限らない。そういった状況を繰り返して、何度も語られる同じセリフに対して、その都度意味を見出し、キャラクターに性格を与えるのは、じつはプレイヤー自身である。

2021年・電ファミニコゲーマーによる、グノーシア・インタビュー記事より


・・・

この記事を読んでいただいて
本当に、本当にありがとうございました











(追記)

………”映画のことを話しました。”

それでも、もう一度会いたいと願えば会うことも叶う。
フーカーヘイズの真ルートを解放したみたいに。DDLC+で文芸部のみんなと再会したみたいに。
P3Rで、PQ2で、P3Dでキタローに再会したみたいに。

Leaving y'all wasn't easy
But for the better good much needed
Tonight's the night reunite Party over here
No mass destruction needed

ペルソナ3 ダンシング・ムーンナイト「Our Moment」より

グノーシア・・・ここまでプレイヤー自身の貢献を強く印象付けてくれるという、なんという懐の深いゲームなんだ・・・

セツなく……ない…!!

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