義母の土を耕した――元ホームセンター店員の家庭菜園
こちらの記事は「創作大賞2026 エッセイ部門」応募用です。内容が重複しておりますがご理解ください。
「買ったほうが安い」
これが我が家の合言葉だった。野菜は作るものではなく、買うものだ。私はそう信じて四十七年間生きてきた。
母は花壇は作ったが、畑は作らなかった。「野菜は買うものだ」というのが実家の不文律で、昭和の男兄弟として育った私に、食べ物を育てるという発想は根付かなかった。クッキーくらいは幼少期に作った記憶があったかなかったか、ケーキに至っては「買ったほうが早いし、安いし、美味い」という牛丼屋のキャッチフレーズのような母の言葉で育ち、大人になった。
ホームセンターに二十年勤めた。園芸コーナーの担当ではなかったが、売り場を通るたびに客から声をかけられた。「アブラムシに効く薬はどれ?」「うどんこ病ってどう治すの?」私はそのたびに薬剤の本をめくりながら答えた。アブラムシがどんな虫で、うどんこ病がどんな症状なのか、実際には一度も見たことがないまま。
知識として「こう聞かれればこの商品を勧める」は身についても、そこには経験がなかった。二十年かけて積み上がったのは、売り場と畑の間の「知っているふり」だった。問い合わせがあれば薬剤の本を調べながら答える。アブラムシにはこれ、うどんこ病にはこれ。正確ではあるが、育てたことのない人間の言葉だった。
そのまま二十年が過ぎ、私は違う業種へと転職した。畑とはますます縁遠くなったはずだった。そんな私が去年、畑を継ぐことになった。
◆ 義母が倒れた日
昨年の七月、妻の母が脳出血で倒れた。一人暮らしをしていた義母は手術を経て一命を取り留めたが、左半身に麻痺が残り、老健の施設に入所することになった。妻は一人っ子だ。私たち夫婦もお互いに仕事を持ち、子供はまだ小学生だった。自宅での介護は不可能と判断せざるを得なかった。
バタバタしているうちに冬が来た。
雪が解けた春、久しぶりに義母の家に寄ると、玄関の前に違和感があった。物置の扉がない。扉の代わりにブルーシートが張られていた。後から妻に聞くと、扉の開閉に支障が出た義母が、苛立ってデュアルソーで蝶番ごと切断して外してしまったらしい。グラインダーか何かで切断した跡が確かに残っていた。サプライズが尋常ではない。テレビの通信販売でデュアルソーを購入したことを妻との電話で得意げに話していた、あの義母の声を思い出した。家庭ゴミの切断用だと言っていたのに。
物置の扉を修理し、ふと庭を見た。
畑がそのまま残っていた。昨年の作物の茎や根が土に埋もれ、まだ雪の残る地面の上に晒されている。義母の唯一の趣味が家庭菜園だった。何十年もかけて耕してきた土だ。誰も手をつけていない。
このまま放置するのも勿体ない、というより——帰ってきた時に、また花や野菜を作ることができるように整えておくのが親孝行かもしれない、と思った。いつまでも元気だと勝手に思い込んで、これといった孝行もしてこなかった分も含めて。
私は決断した。義母の畑で、家庭菜園を始めることを。インターネットとYouTubeで大概のことは何とかなるだろうと思った。なんとかなった部分と、まったくならなかった部分があった。
◆ 凍った大地との戦い
三月の北海道の土は、冗談ではなく岩だ。
雪の上に「くんたん」という籾殻を炭化させた黒い土壌改良材を撒くと融雪効果があると聞いて試してみたが、本当に効くのか半信半疑だった。一週間後、来てみると雪は消えていた。気温のせいかもしれないとも思ったが、とにかく消えていた。
勢いづいた私は、試しにショベルの剣先を地面に突き刺してみた。利き足に体重をかけ、思い切り踏み込んだ。
返ってきたのは、手の骨が粉砕されるかと思うほどの衝撃だった。
場所が悪いのではないかと別な場所も突き刺してみたが、やはり返り討ちにあった。今度は全指の骨が粉砕してしまうのではないかという反動をなんとか耐え抜いた。凍てついた大地にしっかりと敗北を喫し、これから日々気温が上がることを心待ちにして帰宅した。まだ北海道は凍っている。
その翌週、義母の家の本棚から二〇〇七年発行の「おいしい野菜づくり」を見つけ、作りたいものに付箋を貼っていった。多少古いが新しく購入するのも勿体ない、あるものは有効活用させていただく。欲張りな性分が出て、付箋だらけになった。
そのさらに翌週、再び剣先を刺してみる。
ザクっ。
入る。入るぞ。入るではないか。
一人で感動しながら、そこらじゅうを荒起こしした。四十七歳の男が、ショベルが土に刺さっただけで涙が出そうになるとは思っていなかった。土はほぐれ、冷たい空気が入り込んでいく。義母が毎年繰り返してきた作業の意味を、体で初めて理解した瞬間だった。
◆ 行者ニンニクとの出会い
四月に入り、畑の石や枯れた草を取り除いていると、灯油タンクの下に見慣れない植物が生えているのに気づいた。
北海道で石油ストーブを使用している家には大抵、四百九十リットルの灯油タンクが設置されている。北海道のおっさんはヨンキュータンクと呼ぶことが多い。そのタンクの陰に、何やら青々とした葉が群生していた。
スマートフォンで調べると、行者ニンニクだという。
北海道のニュースを騒がせている植物だ。山に採りに行って熊に遭遇する事故が毎年起きる。採りに行くだけでデンジャラスな代物が、義母の庭のタンクの陰でひっそりと生命の息吹を宿していた。念のため匂いを嗅ぐと、強烈なニンニク臭がした。間違いない。
その日の夜、サッと湯がいて醤油とみりんと酒とごま油で漬け込んだ。翌日食べると絶品だった。ただし食べる日の翌日は仕事が休みの日にしなければならない。職場でのスメルハラスメント防止のためにも。
後から知ったことだが、行者ニンニクは種から収穫できるサイズになるまで三〜五年かかるという。義母が倒れるずっと前から、あのタンクの陰でひっそりと大切に育てられていたものを、私はその年根こそぎ収穫してしまった。来年また生えてくることを祈りながら、そっとしておくべきだったと後から思った。義母の時間を食べてしまったような、後ろめたさが残った。
◆ 五月、植え付け
北海道の植え付けは五月の中旬以降だ。夜間の気温が八度を下回るうちは苗の植え付けは早すぎる。ホームセンターの苗売り場に並ぶ新鮮な苗が「買ってほしい」とこちらを見ている気がしてならなかったが、苗の甘い囁きに引っかかってはならぬと気を確かに我慢した。毎年この時期、お客さんが「苗が枯れた」とおかわりを買いにくる理由が、初めてわかった気がした。
じゃがいもから始めた。妻の職場の方から種イモをいただき、YouTuberを見て「ネギと一緒に植えると良い」と知り、畑の脇から勝手に育っていた義母のネギを隣に植えた。これが後から知ると「コンパニオンプランツ」という正式な栽培法で、相性の良い植物を組み合わせることで病気や害虫を減らす効果があるとされていた。見よう見まねでも、やってみることに意味はあった。
続けてトマト、キュウリ、ナス、ピーマン、唐辛子、枝豆、トウモロコシ、人参、玉ねぎ、カブ。義母の本棚にあった古い園芸書に付箋を貼りまくった結果の欲張りラインナップだ。十坪の畑に対して、明らかに詰め込みすぎだった。この判断は後に手痛いしっぺ返しを受けることになるのだが、その時の私には知る由もなかった。
タネを買って袋を開けるたびに驚いた。枝豆のタネはまさに豆そのもので、人参のタネは驚くほど小さく、トウモロコシのタネは息子の抜けた乳歯かと見紛うほど歯に似た形をしていた。おまけに赤い染料が塗られているから一層歯っぽい。このタネたちを土に埋めれば野菜ができると思うと、少し信じられない気持ちになった。出来上がった野菜の姿からは、タネの姿は想像できない。
◆ カブと思ったら大根だった
六月に入ると畑が一気に動き出した。キュウリが蔓を伸ばし、トマトに花が咲き、枝豆の芽が土を押しのけて出てくる。あの乳歯みたいなタネから立派な芽が出てきたトウモロコシを見て感動した。苗を買って植えた時の感動より、タネから芽が出た時の感動の方が何倍も大きかった。
しかし七月、異変があった。
春先に義母の引き出しから発見した「聖護院カブ」のタネを蒔いた場所が、一斉に開花していたのだ。白い花が咲き乱れている。きれいだと思った瞬間、何かがおかしいと気づいた。カブの花は黄色のはずだ。
スマートフォンでGoogle先生に確認する。
先生は「大根」とおっしゃっている。
パニックだ。カブのパッケージに入っていたはずのタネが大根だった。しかも後から知ると秋まき用の品種だったため、低温にさらされないまま春の気温上昇を感知し、根が太る前に豪快に開花してしまったのだ。アブラナ科の秋まき品種は冬の寒さを経験することで「春が来た」と感知し、子孫を残すために花を咲かせようとする性質がある。寒さを経験していないまま気温が上がると誤作動を起こし、根が充分に育つ前に花を咲かせてしまう。
推理するに、義母がカブのパッケージに大根の種を入れていたのだろう。しかも秋まき用を。
試しに抜いてみると、間違いなく大根の形をしていた。花が咲いてしまったものは繊維質が増えて食べられない。全滅だ。
よりによって春に古いタネを蒔き、しかも秋まき用の品種だったという二重の失敗が重なった初夏だった。義母ならやりかねない、と思ったからか、不思議と悔しさより笑いが先に来た。慌てて春タネを買い直し、蒔き直した。今度は白い花を咲かせることなく、ちゃんと大根として育った。
◆ 師匠と葉の裏
畑を始めると同時に、職場の知人に「師匠」ができた。家庭菜園に詳しい方で、困るたびに相談するようになった。
五月末、病気予防のスプレーを買ってきてシュッシュした。大容量の頼もしいやつで、これでうちのキュウリもトマトも無敵だと思った。翌週、師匠に「スプレーしてきました」と報告すると、「葉の裏にかけないと意味ないよ」と言われた。
もうかけてしまった後だった。
アブラムシやハダニといった小さな害虫は葉の裏側を好んで棲みかにするのだという。雨が直接当たりにくく、天敵の目にも触れにくい。病原菌も葉の裏にある気孔から侵入する。表だけにスプレーしても、侵入口をふさいでいないことになる。二十年間ホームセンターで「アブラムシにはこれ」と案内してきたが、葉の裏にかけることが重要だとは一度も言ったことがなかった。
トマトに着果促進剤をかける時は、花にだけかけること、同じ花に二度かけてはいけないことを教わった。慎重に、滴が落ちないようにシュッシュした。翌週来てみると、モリモリ成長したトマトのどこにかけたのかわからなくなっていた。俗に言う「かけたかしら現象」と名付けて、勘でスプレーした。
バジルの葉が寒さで茶色くなった時は「茶色くなったところは復活しない、むしってしまえ」と師匠は静かに答えた。愛おしい葉を泣く泣くむしった。しかし師匠の言った通り、むしった脇から新しい芽が出てきた。
二十年間売る側にいた私が、使う側として初めて教わっていた。葉の裏にかけること、二度かけないこと——売り場では一度も言ったことのなかった言葉が、今は体に染みついている。
◆ 収穫という感動
七月に入ると一気に収穫が始まった。
最初のキュウリは、スーパーで売っているサイズを遥かに凌駕した巨大なものだった。次の週も巨大、その次も巨大だった。キュウリというのはこんなに育つものなのかと呆れながら、近所に配り歩いた。収穫する人間が追いつかないほど育つとは思っていなかった。「買ったほうが安い」と言い続けてきた私が、今度は「持っていってほしい」と頼む側になっていた。
ミニトマトが赤くなった日は、一粒食べて動けなくなった。甘いかどうかより、赤くなったという事実だけで感動してしまって、味がよくわからなかった。何週間も待って、毎週来るたびにまだかまだかと確認して、ようやく赤くなった一粒だ。スーパーでは一房百円くらいで売っているミニトマトが、あの瞬間だけ値のつけようのないものに見えた。
七月の終わり、息子と一緒にトウモロコシを収穫した。あの乳歯みたいなタネから草丈が私の身長を超えるほどに育ったトウモロコシだ。種まきの日に「これ歯じゃん」と言った息子が、今日は一言も喋らずに収穫を手伝っていた。皮を剥いて齧ってみる。甘い。息子も隣で齧った。目を丸くして「うまい」と言った。その一言を聞いて、今年畑を始めてよかったと初めて思った。
玉ねぎを引っこ抜いた瞬間の重さ、人参を土から引き抜いた時の根の抵抗感、枝豆を茹でた時の匂い——スーパーで何十年も買い続けてきたものが、こんなにも顔を持っていたのかと知った。ナスは秋まで収穫できた。ピーマンとししとうに至っては「どれだけできるんだ」という量が毎週採れ続け、職場にも配り歩いた。あれほど愛おしがっていた苗が、今度は処理に困るほどになるとは。
収穫できなかったものも、同じくらい記憶に残っている。全滅した大根のこと、カブだと思っていた花のこと。失敗の数だけ翌年の作戦が増えた。それが不思議と、悔しさよりも楽しみに感じられた。
◆ 気づいた時には遅かった夏
八月の終わり、トマトとキュウリの葉が茶色く枯れ込んでいた。糸状菌による病気だった。週に一〜二回という制約の中で気づいた時には手遅れで、撤収するしかなかった。
欲張りすぎてとにかく詰め込んでいた私の畑は、植物同士が密着して風が通らず、菌が繁殖しやすい環境になっていた。予防スプレーも足りなかった。葉の裏にしっかりかけられていたかどうかも怪しかった。五月に「無敵スプレー」をかけた時の自信はどこへ行ったのか。
ホームセンターで二十年間「うどんこ病にはこの薬です」と案内してきた。うどんこ病がどんな症状なのかを見たことがなかった私は、自分の畑で初めてその姿を見た。あの頃のお客さんも、こんな気持ちで売り場に来ていたのだろうか。「気づいた時には遅かった」というのは、多くの家庭菜園一年生が通る道なのかもしれない。
知識として知っていることと、経験として知っていることの差を、枯れた葉の前でようやく理解した。
病気は出てから治すより、出る前に防ぐ方がはるかに効果的だ。密植を避けて風通しを良くしておくこと、定期的に予防スプレーをかけること——知識としては知っていた。畑でそれを怠った結果が、この枯れた葉だ。撤収しながら、来年は密植を避けよう、予防を徹底しようと考えた。植物は正直だ。手をかけた分だけ応え、かけられなかった分だけ正確に答えを出す。失敗しながら翌年の作戦を立てる。それが家庭菜園の続き方なのだと、枯れたトマトが教えてくれた。
◆ 秋、畑じまい
十月、最後の収穫をした。
北海道民にとって、この季節を秋と呼ぶ人はいない。これから六ヶ月間は確実に長い長い冬だ。ストーブに火を入れ、灯油タンクへの補給が始まる。厳冬期には外のヨンキュータンク一回の給油で四〜五万円の請求が来て、しかも月一で補給しなければならない。暖かい春が来るまでのカウントダウンが始まる季節だ。
春に義母の引き出しのタネで失敗したカブと大根は、今度こそきちんとお店で買った種を蒔いて、ちゃんと収穫できた。小ぶりではあったが、手の中に収まるカブの重さが嬉しくて、しばらく持ったまま立っていた。春の失敗の雪辱を晴らした、その重さだった。
収穫の終わった茎や葉を細かくして土に埋め、御礼肥と米糠を混ぜ込んだ。これを「ただ片付けているだけ」だと思っていたが、実は来年の土を育てる最も大切な工程の一つだと後から知った。土に鋤き込まれた残渣は微生物によって分解され、有機物として土に戻っていく。米糠は微生物のエサとなり、土の中の生き物を活性化させる。
義母が何十年もかけて繰り返してきたこの作業が、あの庭の土を豊かにしてきた。私はその恩恵の上で一年目を楽しんでいたのだ。鍬を持ちながら、それに気づいた。
凍てついた大地にショベルを叩きつけて返り討ちにあったあの日から、気づけば一年が過ぎていた。
何をしても続かない私が、畑だけはやめたくなかった。三日坊主が長ければいいほうで、飽きるのに一週間もかかれば御の字という人間だった私が、「また行きたい」という気持ちで一年間足を運び続けた。義務感ではなく。これが私にとって、おそらく初めての「やめたくなかった趣味」だった。
◆ 土が変えたもの
スーパーで野菜を見る目が変わった。
ナスがどれだけ時間をかけて育つかを知っている。キュウリがいかに油断すると巨大化するかを知っている。玉ねぎの葉が倒れるまでの忍耐を知っている。カブのタネを手のひらに乗せた時の、あの小さな重さを知っている。値段の向こう側に、誰かの一夏があることを知っている。
土に触れることを汚いと思わなくなった。朝、天気予報を見る理由が増えた。雨の日には「畑が潤う」と思い、晴れが続く日には「乾燥しすぎていないか」と気になるようになった。季節の移り変わりが、以前とは違う解像度で目に入ってくるようになった。
義母の庭に足を向けるたびに、施設にいる義母の背中を感じた。何十年もの間、この土を耕し続けてきた義母の時間を、足の裏で踏んでいる気がした。
帰ってきた時にまた野菜を作れるように。そう思って始めた畑だったが、いつしかそれは「義母のため」ではなく「私のため」になっていた。土に向き合うことで、初めて義母の時間と向き合えた気がした。孝行らしい孝行を何一つしてこなかった私が、土を通じてようやく義母と繋がれた気がした。
何をしても続かなかった私が変わったのは、土のせいだと思っている。
◆ それから
翌二〇二五年も同じ義母の庭で続けた。勢い余って「家庭菜園士」と「野菜栽培士」の二資格を受験し、両方合格した。ホームセンターを離れた後に園芸の資格を取るとは思いもしなかった。売り場で二十年分の「知っているふり」をしてきた私が、今度は本当に知ろうとしていた。
今年、義母が家を手放すことになった。畑を失いかけた瀬戸際で、レンタル農園の空きが見つかり、即座に契約した。舞台は変わったが、畑はまだ続いている。近隣では鹿の被害が増えていて、せっかく植えた苗を翌朝すべて食べられていたという話が聞こえてくる。電気柵にすべきか防獣ネットにすべきか、まだ考え中だ。
義母は今も施設にいる。後遺症は続いている。
それでも、義母が何十年もかけて作った土は、私の中に生き続けている。来年も、その次の年も、どこかの土を耕すつもりだ。あの庭で教わった一年が、私の根っこになった。
畑は、まだまだ続きます。
はたけ日和
