自分の人生を生きるということ~獲得の前半生と手放しの後半生~
自分の人生を生きるということは、理想や夢を抱いて幸せな人生ビジョンを追求するばかりではありません。
自分の人生を生きるということは、誰かと勝負して成功を獲得することに躍起になるばかりではありません。
自分の人生を生きるということは、時流に乗ってロールモデル的な価値観の中で生きることでもなく、
自分の人生を生きるということは、理想に夢破れ、敗北し、流行にも乗り遅れ、失敗と挫折で道から外れてしまった自分を受け入れて生きること。私の人生はこういうものだったのだ、という、ただ一つの事実に気付くこと。
もしかすると、それが今生かされている意味であり、生まれて来た理由であるのかもしれません。
勿論、幸福を追求する権利は誰にでもあり、目標に向けて努力挑戦することは悪いことではありません。自分もそうして来たし、寧ろ多くの人がそう生きていて、それはそれでとても前向きで素敵なこと。当然、人それぞれ自由であり、これを何人も侵害することはできません。
しかし諸行無常。人生をステータス獲得のための戦場と捉えた時、人間は必ず負けるさだめにあります。
何の妨害も受けず、勝ち続ける人はまずいないし、いたとしても、やがて老いと病と死があるからです。とりわけ、病が先に来る場合は往々にしてあるでしょう。
よくあるのは、ある日突然病気になり、物事が途中で頓挫し、持っているものを手放さなければならない状態になることです。
病気と共に生き、進路変更を強いられることもあります。
そしてそれがどうにもならないことも。
どうにもならなくなった時、自ら理想化した獲得の幸福的価値観が大きければ大きいほど、不幸な現状とかけ離れた自分にギャップと精神的ストレスを感じ、身悶えするほどの痛みや苦しみを味わうことになります。
与えられたさだめを受け入れる。
どうにもならなくなった時、最終的に人は自分を受け入れる以外に道がないことを知らされるのです。
それは人生のありのままを生かされながら、諦観、その自分自身に対する深遠な受容的態度が、もう終わってしまったと思われた人生の中で、破壊された理想の残骸の瓦礫の合間から、たとえ残りの寿命がわずかでも、心は生まれ変わり、新しいこれからの人生という見方が、光を浴びて青々と芽吹くのです。いずれ人生のどこかのタイミングでその境地に辿り着くことが必至なのだから。
そして僕はその境地になったであろう人を知っています。
* * * * *
前置きが長くなりました。本文も〚13378文字〛と長くなります。
かなり久しぶりの投稿となります。入谷です。
それでも度々、ここへ来ては、以前交流のあった方々の記事を拝見し、共感と学びを得ておりました。
1年程前から、Xにて毎日見た夢を140字程度で纏めるといった、謎の活動(そちらからnoteへ来て下さった方、ありがとうございます。皆様も良かったらどうぞ見てやってください)をしているのいるのですが、XのAI機能GROKによれば、見る夢の傾向として、父親や親族をはじめ友人のFなど、故人の登場が多く、多くの未消化の問題を抱えていると指摘されました。すげーなAI。
確かに未消化の問題は沢山あるような気がします
仕事に家族関係、そして持病と健康関連…。
問題は、それに対する捉え方、認識の持ち方なのですが、タイトル回収に必要なものを教えてくれた者が家系にもおりましたので、彼の半生と、生き様、そしてそこから自分自身と照らし合わせ、何を学び取って行くのかについてをテーマに、今日は書き連ねていきたいと思います。
さて、この間は父の日でございました。が、これまで何度も父親のことについてはnoteの記事で触れていますので、今回の内容は、父の兄である伯父に焦点を当てて書いていきます。
それでは長丁場になりますが、宜しければどうぞ。
■伯父の死
2023年2月、実家に帰った際、いつも通り母親と共に父親の墓参りに行きましたところ、斜向かいにある、父方親族の墓の墓誌に、新たな戒名が刻まれていることに気付き、慌てて向こうの家に連絡を取りました。
父親の家系と母親は元々確執があった関係であり、またコロナ下もあり、下の叔父は、親類には連絡せず、内々に済ましたと言って、香典返しのお茶を渡され、数分話した程度でありますが、伯父は前年の22年12月初旬(父親の命日と1日違い)に肺がんで亡くなっており、享年68才でした。
実はこの伯父は僕にとってとても気になる人というか、成人した後はそれほど交流はありませんでしたが、入谷の家系を象徴する人物であり、スピリチュアル的に同じ家系に生まれた意味を問えば、同じ学びをテーマを持つ魂だったのだと思う節がありました。
余談ですが、伯父の死の半年後の23年6月に施設入所の祖母も97才で亡くなっています。それは問題を多く抱えた伯父を見守ってからでないと安心して逝けなかったからではないかと感じています。
■伯父の半生①
まず伯父は3人兄弟の長男で、次男である僕の父親、三男に下の叔父がおりますが、父親と叔父がとりわけ普通の感性を持った子供あったのに対し、
伯父は真面目で寡黙な性格で、とても勉強熱心な人物でした。男3人兄弟で弟2人がどんなにふざけてちょっかいを出しても、伯父は黙々と勉学や読書に耽り、やんちゃな弟など相手にしなかったようです。
そうして勉強の出来た伯父は県内でも優秀な高校へ進み、祖父や祖母の期待を一身に受け、どうしても教員にしたいという親の願いを叶えていくのかと思ったら、突然芸能界に入りたいと言い出したのです。祖父母も上に下に吹っ飛んだのかもしれません。
物静かだが、野心と行動力はあったのでしょう。そこからはもう伯父の勢いは止まらず、隠れて芸能事務所に自分を売り込みに行き、オーディションに受かったことが通知の葉書によってばれ、祖父母をさらに激高させるも、持ち前の戦略的ないなし方で、場を収めたそう。
勉強もしっかりするし、某有名大学を受験をする、要望通りに教員を目指すと説得して祖父母を安堵させ、裏では着々と自分の夢に向かって活動していたようです。
伯父の容姿は今で言うと時代劇などにも出演する某俳優に似ており、兄弟の中でも目鼻立ちの整った容姿だったので本人も自信があったのでしょう。
伯父は結局大学を中退して、芸能関係の裏方仕事を学ぶ専門学校を卒業した後、最初のプロダクションに就職しました。
芸能界へ入れなかったが、それに携わる仕事をどうしてもしたいと、芸能人の付き人やマネージャーになりました。
70年代後半~80年代初頭の芸能界。きっと様々な問題や良からぬ交流があったかと思われます。
祖父母は失望したでしょうが、自分の生きたい人生を生きることを選択した伯父はある意味尊敬できる人でもあります。
それから数年後、祖父母のいる実家に借金取りの電話が掛かって来たことで伯父の東京生活が明らかになりました。
どうやらプロダクションが経営不振で、会社の借り入れの連帯保証人になっていたということでした。また給料も出ない中での生活から、総額1000万以上の借金が祖父母のところに来たのです。祖父母はこれにも失望したでしょうが、一番期待を掛けた長男の伯父が可愛かったのか、全て肩代わりしたそうです。
同時期に父親と母親が結婚し、その翌年の85年に僕が生まれました。
母親は嫁ぎ先の祖父母の家に同居し、その当時連れ戻された伯父も一緒に住んでいました。
写真を見ると伯父が僕を抱き上げている写真が複数あり、子供の頃は伯父が父親なのかと錯覚するくらい可愛がってもらったことが、写真で分かりました。
伯父は寡黙のようでいて実は社交性や司会者的な振る舞いが上手く、僕の生まれて初めての端午の節句の宴会では、巧みなトークスキルで場を盛り上げたという話も、母親から聞かされたことがありました。
今でこそ芸能界など憧れもしない世界ですが、それでも煌びやかな世界に飛び込んだ者しか知らぬ世界。夢が諦めきれなかったのか、祖父母が用意した仕事と実家近くのアパートを無断で引き払い、伯父は再び上京。東京で別の芸能プロダクションの社員になったそうです。
祖父母の心配も他所に、新しく入ったプロダクションでは相性が良かったのか徐々に頭角を現し、どんどん出世していったそうです。
二度目の上京で上手く行った伯父。大手プロダクションからの引き上げもあり、名前は出せませんが、おそらく40代以上の方なら誰もが知る、某大物芸人でタレントのK氏の専属マネージャーにまでなったそうです。
その頃には祖父母も伯父の仕事を応援するようになり、再び自慢の息子としての期待を掛けるようになりました。伯父も実家には年に2度程帰省し、よく一緒に遊んでもらった記憶があります。
伯父は独身でありましたが、そろそろ結婚を・・と祖父母は考えてことでしょう。
■伯父の半生②
それから数年後――。
順調かと思えた伯父の人生が激変したのは、1996年秋のこと。祖母の下に伯父の仕事関係者から一本の電話が入りました。
それは青天の霹靂とも言える出来事であり、特に祖母にとっては三度襲った不幸。もはや為す術もなかったことでしょう。
今でも鮮明に覚えています。
1996年11月5日の火曜日の朝、小学5年生だった僕は母親から学校を休むように言われ、父方の叔父と従弟妹、祖母、うちの母親と、神奈川の某総合病院へ向かっていました。テレビ局のスタジオで伯父が突然脳出血で倒れ、そのまま意識不明の重体となったのは前日のことでした。
病院や仕事関係者は何度も祖父母宅に電話を掛けたそうですが、運悪く不在で、ようやく連絡が着いた時には、開頭手術が出来るギリギリのかなり危ない状態だったそうです。
5日の早朝、鳴り響いた電話と、その只ならぬ雰囲気から僕は目を覚ましました。
寝室で電話を取りながら、母親は深刻な様子で受け答えていました。
そして時折、電話口の相手を慰めていました。
祖母からの電話でした。祖母は声が大きかったから、泣いて取り乱しているのがすぐに分かりました。
「A(伯父)が倒れた。死ぬかもしれん」
「B(父親)も癌になっちまったしよぉ、うちんとこ、爺さんもずっと寝たきりだっぺよ」
「A(伯父)と爺さんの世話なんておらできねぇ」
「おらぁ、どうしたらいいか分がんねぇ」
「もう、うちはおしめえだ」
聞き耳を立てているうちに、伯父の身に何かあったことを察しました。そしてそれは簡単に解決できない問題であることも同時に理解しました。
勝気で、いつも明るかった祖母の、悲痛な心の叫びと泣き声の動揺した様子に固まったしまいましたが、電話を切り終えた母親の、「どうして悪いことがこうも重なるのだろうか…」と溜息交じりに呟いた言葉に、ここ数年で起こった不幸な出来事が思い返されました。
この数年の間に家系には様々な不幸な変化がありました。
1990年に祖父母と僕ら一家が同居を解消し今の土地に移り住んだのですが、翌91年冬に祖父がくも膜下出血で倒れ、寝たきりの植物状態になりました。
僕たちと入れ替わりに叔父夫婦と従弟妹が家に入るも、祖母は受診の時以外は、ほとんど一人で祖父の介護をしていました。長期休みに行くと、祖母は朝4時に起床し、流動食を作り、食事介助、点滴を確認し、汚れたおむつを替え、褥瘡防止の為に寝返りを打たせて、身体を拭き、痰を取り除く等、いつも祖父のベッドの隣にいて、椅子で転寝をしていたのを覚えています。
当時福祉との連携がどうなっていたか分かりませんが、少なくとも祖母は祖父を車椅子に乗せ、風呂場で体を洗っていたと思います。
祖父母は元々仲が悪く、しょっちゅう物を投げて殴り合うような喧嘩をしていましたから、それでも献身的な介護をする祖母を見て不思議に思っていたものです。
そして、96年5月、今度はうちの父親の大腸がんが分かりました。放射線治療の後、同年10月末に腫瘍の切除手術を終えたばかりで、伯父が脳出血で倒れた数週間前のことです。それは家を建てて1年余りで起きた出来事でもあり、僕は近所の母方祖父の家に預けられ、母親は仕事の合間を縫っては父親の看病のために病院へ通っていて相当疲弊していた頃でした。
祖母にとっては堪らなかったと思います。
夫(祖父)の介護と次男(父親)のがん、そして長男(伯父)の突然の病気発症・・。三度襲った不幸に動揺し、いつも気丈に振る舞っていた祖母もこれには流石に意気消沈し、どこかのおかしな宗教に救いを求めて、変な念仏を唱えるようになっていました。
病院へ向かう車中は暗く、特に祖母は例の変な念仏を唱えながら、苦悶の表情を浮かべていました。
そこでまた祖母が感情的な発作が起きて、「こんなことならいっそ死んでくれたら…」と漏らした。今後夫の介護と息子の介護を同時にしなければならない苦しみを思ってのことでしょう。
母親と叔父(父親の弟)はそんなことは言うもんでないと諭したましたが、誰がどんな役割を担うかという現実的な問題もありました。
特に母親は祖父が寝たきりになる前に同居を解消したことや、本来嫁としてすべき役割を果たさなかったことで、祖母や叔父夫婦に負い目を感じているようでした。
病院へ着くと、伯父はICUで人工呼吸器を付けられて寝かされ、当然ながら意識もなく、顔も身体も2倍近く膨れ上がり、浮腫んでいました。
伯父はこのまま死んでしまうのだろうか…。ふと思いました。
脳血管障害は死亡、重度後遺症、軽度後遺症もしくは回復が3分の1の割合であり、くも膜下出血の祖父は不運なことに寝た切りの植物状態になってしまいましたが、伯父の今後はまだ分からないとのことでした。
叔父と祖母は医師から病状の説明を聞いていましたが、意識が回復しなければ植物状態になるという説明を受け、祖母は改めて項垂れていました。
発症の原因は、忙しさのあまり病院へ行けず、血圧の薬をずっと飲まずにいたことが原因だったということでした。
静かな病室。漂う薬品の臭い、機械の電子音と人工呼吸器の空気の音が交互に聞こえる空間で、僕は、伯父の周囲に寄り添う祖母らを遠くから見ていました。
そして10才の僕は思いました。
父親も39でがんになり、伯父も41でこうして生死の境を彷徨い、人は何のために生きているのだろう、と。
人生には幸福なロールモデルがあって、誰もがそのように生きるものだと心のどこかで思っていました。
しかし僕自身、当時学校で上級生から過酷ないじめを受けており、病弱な我が子を丈夫にしようとする母親の指導が厳しくて、父親のこともあって家庭には居場所がなくて、安寧など程遠い生活環境におりましたから、人生の意味を考えるにつけ、天のきまぐれ、神の嫌がらせとしか思えませんでした。
きまぐれと意地悪で生きることを強いられ、生きていても何一つ良いことなどないと感じました。
やはり家族でキャンプに出掛けたり、父子でテニスなんかやってる友達のお父さんを見ると羨ましかったし、お菓子を作るのが上手な優しい友達のお母さんを見ると、どうしてうちの母親はこうも神経質で怒りっぽいのか、父親はがん患者でギャンブル狂いなのか、と、笑い話にもできない重苦しさが胸の内いっぱいに広がりました。
人には幸福な人と不幸な人間がいる。それで自分は後者に違いないと強く信じていました。そしてそれを絶対に認めたくなかったのです。
■伯父の半生③
それからしばらくして、伯父は奇跡的に息を吹き返しました。しかし同時に右半身の麻痺、言語、学習、記憶に重い後遺症、高次脳機能障害が残りました。
2度目に見舞いに行った時には伯父はリハビリの最中で、左手を使いながら廊下を車椅子で行ったり来たりしていました。
整っていたはずの容姿は麻痺のために硬直し、強張った右手は貝のように丸まり、作業療法士の方に声掛けされながら、禿げあがった髪を振り乱しながら、必死に車輪を押し進めている姿が印象的というかショックでした。
挨拶しようと話し掛けると、言語障害もありましたから、言葉が上手く聞き取れず戸惑っていると、祖母が通訳のように割って入って来て助かりましたが、その後も伯父とはそんな感じで、祖母がそばにいないと、いつも何を話してよいかと困惑するばかりでした。
半年後、病院を退院し、伯父は実家である祖父母の家に戻ってきました。
その頃には下の叔父夫婦と従弟妹が一緒に住んでいましたが、祖母は祖父の介護と、身体が不自由な伯父の世話をする日々に追われていました。
ある時、祖母の家に行くと、入浴介助のため、祖母と叔母に裸で担がれた伯父が運ばれていました。祖母は必死で、動きの悪い叔母を怒鳴って曲がった腰で伯父を風呂場へ連れて行きました。その時の伯父の苦悶に満ちた表情は今も忘れらません。
当時の祖父母の家の風呂はまだ障害者のための仕様になっておらず、介助をする側にもされる側にも使い勝手が悪いものだったと思います。
元々僕が生まれた家でもありますから、祖母の家に行くことを休みの日課にもなっていましたし、従弟妹の面倒を見たりするなど、祖母の手伝いをすることも嫌ではありませんでした。むしろそうすることが良いと考えていました。しかし寝たきりで動かない祖父のことは見れても、伯父を見るのは辛いものがありました。
伯父は懸命なリハビリの結果、車椅子から歩けるようになりました。とは言っても、完全な右麻痺なので、右足に力はなく、装具を付けて固定し、身体を揺らしながら振り子の反動で足を前に出す感じで歩いていたので、少しの段差にも躓き、よく怪我をしていました。
近所を歩いたり、筋力を上げるためのトレーニングも欠かさず、言語障害の方も、完璧にどもりを取り除くことは不可能でも、多少の会話が可能になりました。
もう右手も使えないので、伯父は毎日左手で文字を書く練習をし、記憶と学習に関わる障害を少しでも改善するために、漢字や計算問題のドリルを解いていました。黙々と、丁寧に、力強く目の前にあることを淡々と取り組んでいました。伯父が左手で書いた字は誰よりもきれいでお手本の様だったのを覚えています。
そうした血の滲むようなリハビリの先に求めたのは、当然社会復帰という目標の為だったのです。どうしても会社に戻りたかったのです。
伯父は田舎が嫌で、東京へ出た人。何もない田舎よりも、煌めく東京の華やかな場所に帰りたかったのでしょう。
療養中も在籍していた会社から次第に在宅できる仕事を回してもらい、パソコンを使いながら片手で文字を打ったり表を作ったりしていました。
しかし残った障害が重すぎて、会社に戻ることは叶わず、社会復帰の道は閉ざされてしまいました。
伯父は感情を表に出さない人でもあるので、愚痴や泣き言を一度も聞いたことはありませんでした。ただ訥々と出来ることをやるのみという感じでしたが、会社との雇用契約が切れてからは鬱々とした怒りを秘めて内に篭もるようになっていったと感じました。
1年後の冬休み、いつものように祖父母の家に行った時、伯父は日課である字を書く練習を黙々としていたのですが、突然倒れました。
脱水症状で顔が青く、ぶるぶると震えていたので、その時は血管障害が再発したのだと祖母も取り乱して救急車騒ぎになり、外の作業場にいた下の叔父や、仕事を切り上げた父親も駆け付けたのですが、風邪を引いていただけでした。麻痺のため体感が鈍り、40度以上ある熱に気付かなかったのか、倒れるまでストイックに日課をやり続けていたのです。
それとも、、
こんなこともありました。もう一つの日課である歩行訓練で近所を歩いている時にトラックに轢かれて右側を複雑骨折で入院したこと。
その時に行った見舞いでは、何故か伯父は妙に明るく、「右半身は麻痺してるから全く痛み無いよ。大丈夫」と言って笑っていました。
・・確かに覚束ない歩き方なので、歩道のない狭い田舎道で足を引っ掛けられただけなのかもしれません。
でも、もしかしたら、自暴自棄になり、自分で人生を終わりにしたかったのかも知れないと思うと、子供ながらに何とも言えない気持ちになったものです。
風邪で倒れた時も、もうどうにでもなってくれという気持ちで、休むということをせず、それをやり続けていたのかもしれません。
伯父は元々寡黙なのと、言語障害があるために周囲とはあまりコミュニケーションを取れなかったので正直何を考えていか分からない雰囲気がありました。
父親は伯父と同じ頃に大腸がんで手術をしたものの、すぐに社会復帰を果たし、元居た会社で勤めていましたので、伯父には思う所があったのかも知れません。そのためか、一緒にいても伯父と父親が会話をしている場面を見たことはありませんでした。父親は特に伯父が若い頃に借金を作って迷惑をかけたことをずっと情けない奴だと(自分も死んだ後に借金が発覚したのに)言っていましたし、仲は良くなかったのかも知れません。
98年に寝たきりだった祖父にがんが見つかり、見つかった時にはもう既に手遅れで、しばらくして亡くなりました。享年72才。
祖母は7年間に渡る介護の苦労から解放されたのも束の間、今度は自分が病気になり入院します。が、祖母はタフなのですぐに退院し元気を取り戻しました。その後は何と幼い従弟妹たちだけでなく、従弟妹の友達の面倒を見るというハードな老後を過ごすことになりました。従弟妹の友達の親が祖母に自分の子供を預けていくのが常態化し、そうなっていきました。祖母が作る雰囲気に居心地が良さがあったのも事実でした。
そして99年の春、僕は中学2年になっていました。相変わらず父親はギャンブル三昧でしたが、徐々に体に変調が現れ、腸閉塞で担ぎ込まれたことをきっかけに、肺にがんが転移していることが指摘され、リンパへの転移も判明します。父親は正気を失い、外泊を許可された日、車の中でもう手術はしないと叫び、自殺すると言って外へ飛び出しました。それを母親が何とか宥めて、祖母や兄弟のいる実家へ連れて行きました。
父親は祖母、母親、叔父、そして伯父と卓を囲んで座り、沈黙の後、泣きながら泣き言を言ったそうです。もう苦しい、手術をしたくない、と。
確かに大腸の手術で腸を数10センチも切除し、人工肛門で度々糞便を垂れ流し、会社で腫れ者扱いされ、何度も腸閉塞で苦しんだわけですから、その訴えも分からないではありません。そこで口火を切ったのは伯父でした。
「俺なんて身体動かねぇわ、頭やられて馬鹿になっちまったんだぞ!」
「医者がまだ方法があるって言ってんだ!。やれることはあるんだ!。手術受ける以外にないだろうが!!」
その場にいた誰もが驚いたことでしょう。僕も話を聞いて驚きました。
恐らく僕が知る限り、伯父が感情的に声を張り上げて、心のうちを露にしたの初めてでした。
思えばそれは、現状の自分に対する怒りと理不尽さを、聞き分けのない弟の泣き言を通して初めて外へ出せた瞬間だったのではないかと思います。
父親は、どもった声で精一杯喝を入れてくれた兄の言葉に手術と治療を受けることを決めたそうです。
しかしその甲斐なく99年夏に脳にがんが転移。秋にはもう寝たきりになっていました。
最期となった病院は実家に近い総合病院を選びました。それから母親と僕も病院へ行きましたが、昼には伯父と祖母も毎日来ていたそうです。
父親はその時に病衣を着て頭を剃り上げ、僧侶のような風貌で非常に穏やかな表情でした。
もう死を受け入れ、この状況を認める他ないという境地に達していたのでしょう。
それからしばらくして亡くなりました。享年42才。
通夜の前の湯灌の儀で皆が別れを名残惜しんでいる時、僕は非常に落ち着いていて、悲しみも引いていて周りの人を見ていました。すると皆の少し後ろで椅子に座っていた伯父の、冷たくなった弟を見つめる表情から真に迫るものを感じ、ハッとしたのを覚えています。
それは悲しみもそうだけれど、頬を伝う涙に何かの決意のようなものを感じたような気がしたからです。
もしかしたら、父が手術を受けるか受けないかで実家へ戻った時を思い出していて、自分の放った言葉の中に気付きがあったのではないか、と。自分にはもう方法はないと思い込んでいたが、まだ左手は動く、出来ることはあるのかもしれない、と。
それは憶測で、何を思ったか分かりませんが、弟は死んでしまったが、自分はまだ生かされているということを実感していたのかもしれません。
■伯父の半生④
〈植物状態で寝たきりだった父親〉の姿を見ていたからか、〈弟の方が先にあの世へ逝ってしまった〉からか、あるいは〈苦労を掛けた母への思い〉からか、伯父は今まで以上にリハビリに励むようになり、積極的に外へ出るようになりました。
憧れた東京、嫌って一刻も早く出たかった田舎と実家。
でも今の自分にはここで活路を見出すしかない。叔父夫婦や祖母への負い目もあったと思います。家族の中で役割を果たすこと。そんな思いが伯父の社会参加の意欲を掻き立てていったのでしょう。
運転免許を取り直すために教習所に通い、既にかなりの老齢となっていた祖母の買い物や通院の送迎、うちへもよく土産物を持って線香を上げに来ました。
そこでは僕らの知らない父親の子供時代の話をしてくれたり、芸能界でマネジャー業のしていた頃の話をしていました。さらに、不自由な状態にも関わらず、スロープもないうちのトイレを借した際には、きれいに使い、便所紙まで三角折りにするほど、気配りを見せてくれました。おそらく障害者仕様でないトイレで用を足す練習を何度もしたことが窺えます。
右半身の完全麻痺と脳の機能障害は残ったものの、寝たきりの植物状態の可能性があると言われた頃から比べると、そこまでの回復を遂げたということです。
伯父はまとまった障害年金が入ると、祖母や叔父夫婦や従弟妹、僕たち母子を旅行に誘い、テレビ業界にいた頃にドラマ撮影で訪れた旅館や、ロケで使用された名店の飲食店などに連れて行ってくれました。その時僕は高校生で、親戚と旅行なんてなぁ・・と思っていましたが、何か伯父が、そのような気持ちになったことに妙な嬉しさの様なものがあって、大学で上京するまでの3年間は毎年どこかへ連れて行ってもらいました。
その頃には伯父もこの身体で生きていくという決心が固まっていたのでしょう。右手が使えないなら左手で工夫してできる限りのことをやろうとしていました。
その頃から伯父は市の福祉センターを通じて障害者のコミュニティ(B型作業所のような所)に入り、そこで同じ障害のある仲間が出来たそう。
そこでは伯父は快活に振る舞い、自ら発起人となって障害者のためのサークルや互助会のようなものを立ち上げ、障害者の家族を交えて食事会を開いたり、住宅の問題や人間関係など、困っている障害者の相談に乗って世話をしたり、意見交換を活発に行い、仲間と一緒に旅行へ出掛けたりするなど、障害者のクオリティ・オブ・ライフ=個人の人生の充実=、その実現のために活動していたようです。
与えられた定めを受け入れる。それは与えられた場所で精一杯活動することなのでしょう。
家では家族としての役割を果たし、社会福祉の中で自分が出来ることを提供していく。それは孤立にしないための懸命な判断だっと思うのです。
華やかな世界への懐古から、自分が誰かのために世界を創っていくこと。きっとそれが伯父の人生のプログラムだったのかもしれません。
* * * * *
大学卒業後は地元離れ、伯父や祖母たち父方親族とも疎遠になり、あれやこれあって結婚に子育て、他県への引っ越しや、日々の生活に追われる中で交流はなくなっていきました。
一度だけ子供を連れ挨拶に行ったことがありましたが、2011年に祖父と父親の13回忌、最後に2人と会ったのは、母親が脳梗塞になって見舞いに来てくれた2016年頃でした。その後間もなく祖母は施設へ入所し、面会にはずっと行けておりませんでした。
そして、2年前の2023年に墓参りで墓誌に伯父の戒名が刻まれていたことを知るまでの数年間は全くの音信不通でした。
コロナ下ではコミュニティへの参加が難しく、引き篭もりがちだったと下の叔父が言っていましたが、障害を持ちながら家族から自立し、仲間をと共に生きていく道を常に模索していたようです。
言語障害がある伯父に無理をさせてしまうのではないかと思い、会った時には、どこか積極的に話し掛けることを避けていた部分があるのですが、今思うと、もっとさくさんのことを話しておきたかったと思います。祖母とも97年の人生について聞いてみたい気持ちがありました。
人生の覚悟と捉え方についての話を。最終的に現状を受け入れて生きていくこと、その実践と大切さを。
■獲得の前半生と手放しの後半生
こうして疎遠になって、亡くなってからの方がより伯父や祖母、父親を強く存在を感じるのは、僕も亡くなった父親や、伯父が病気を発症した時の年齢に近付いていく中で色々な経験をし、様々な病気になり、身体的にもうだめかもしれないと思うことも何度もあったからでしょう。
最期は非常に穏やかだった父親にしても、
祖父の介護に叔父の世話、その後老齢に鞭打って孫の面倒を見るなど、苦労の連続だった祖母にしてもそうですが、
四半世紀、25年以上に渡って障害者としての人生を生き、その不自由な身体の制限がある中で、伯父はどのような信念と心持ちで生き抜いたかを、今こそ腰を据えて学ぶ時なのかも知れません。
4年前に書いた『あの世に行ったともに捧ぐ〈4/4〉』では、
まだ僕は前半生の獲得の意識で生きていて、自分の仕事や、いや、絵や創作ことにばかり気持ちが行っていましたが、
今になってみると眼病が進行し、右目はほぼ見えなくなり、その他にも体調が徐々に悪くなってきました。
やはり家系的なものなのか、高血圧の症状があり、薬を増やされたの関わらず、この間も、背部痛に胸部痛に加え、血圧200超えに至り、あまりに調子が悪くて救急外来で診察してもらうということがありました。
病院へ向かうタクシーの中で、これが最期であったら、伯父や祖父のようになるのではないかと考えるにつけ、別居している家族や親のことをどうしても考えてしまう。未練ばかりがあるのです。
それはとても普通のことかもしれないけれど、同時に現状に対する自己受容が何一つできていないことを思い知らされるのです。
友人Fの記事では何か悟ったようなことを書いたような気がしますが、いよいよという時にはパニックしかありません。
でもそれでは良くないと思うのです。
僕は幼い頃から絵を描くのが好きだった。仕事にしたいとも思った。だけど実力不足の才能不足で無理だった。それでも病気が悪化しても続け、結果もう情熱の燃えカスしか残っていないのに、拙い趣味にしか過ぎないこんな絵なんかに、情けなくも、必死にしがみ付いている無様な自分がいる。
獲得の前半生と手放しの後半生。
きっとその転換期が今なのだと思うのです。
もういい加減、自分、自我というものを手放し、これが自分の人生なのだからさだめを受け入れるしかないのです。
人生でそれほど獲得してきたという実感はありませんが、それでもひとつひとつ、だまになって絡まった紐を解くように、いざというためのために自分を認めて自己受容していかなければ、きっとあの穏やかな死に顔の父親の様にはなれない。
人生にどんなに苦労が付き纏っても、祖母のように前向いて生きることは出来ない。
そして伯父のように与えられた環境の中で自分の使命を全うすることも出来ないのでしょう。
僕にとって手放しの後半生は、夢破れた情熱の残りカスの清算であり、
どうあっても絵を描きたいという蛇のような執着的利己心を捨て、
外に目を向け、
徐々に障害者になっていく我が身を進化・成熟の機会と捉え、社会福祉との積極的な関わりの中で人生を磨いていくことにあり、出来る限りの利他を体現することにあると強く思うのです。
そして欠ける視野に感けて見なかった家族との問題を解決すること。(これについては別記事で書きたいと思います)
■世界や政治は変えられないが
僕は中学の頃に目の病気を患い、大学の就活時期に決定的に悪化したことでその後の人生が変わりました。新卒カードも使わず、レールから外れ、複合的な要因で様々な持病を発症し、今に至ります。
当時は認めたくなかったし、どうしたって信じたくなかった。
当時は視覚障害者になることが怖かった。そして悔しかった。
好かれる視覚障害者にならなければ、誰からも助けてもらえず、そして誰からも見向きをされず、生きる術がないことが悔しかった。
誰も信用出来ないこんな世界に媚びて生きることも嫌だったし、自分一人で生きていくと決めたのに、周囲の顔色を窺って生きるのは苦痛に違いにないと思っていた。
でも今はどうぞ好かれる障害者になってやろう、それで皆と仲良くやって楽しく過ごしやろうと思っています。苦労も明るく笑い飛ばしてみようと思うし、出来ることは何でもやろうとも思うのです。
それはこの、一見不幸の連鎖が続いている忌まわしい家系に生を受け、その一員となってみて、不幸を不幸のままで終わらせない、病気で苦しいだけで済まさない、そんな先人たち生き様と学びがあったからだと思います。
そんな生き方が、もし誰かのネガティブに支配されたの心に一滴の雫として落ち、光の波紋を揺らすことがあれば、それ以上のことはありません。
机の上で自分の理想をこねくり回していた日々を卒業し、僕もそろそろ新たな人生の歩もうとしているところです。
不惑の40を体現してやろうと思うのです。
* * * * *
ではでは、大変長い乱文長文を、ここまで読んでくださり、誠にありがとうございました。そして、明日が皆様にとって素晴らしい1日となりますように。。
