フランコ“ビフォ”ベラルディ『蜂起 詩と金融における』/ガタリ『カオスモーズ」
☆mediopos3917(2025.8.10.)
■フランコ“ビフォ”ベラルディ(杉田敦訳)
『蜂起 詩と金融における』(水声社 2023/8)
□フェリックス・ガタリ (宮林寛・小沢秋広訳)
『カオスモーズ 新装版」(河出書房新社 2017/7)
現代において切実かつ喫緊のテーマは
グローバリズムを支えている資本主義的な疎外から
いかに脱するかであると思われるが
フランコ“ビフォ”ベラルディ『蜂起 詩と金融における』は
現代資本主義の疎外に抵抗する「蜂起」の可能性を探る挑戦でもあり
訳者が美術批評家・杉田敦であることからもわかるように
金融資本主義がもたらす精神的な疲弊や抑圧に対抗する武器としての
詩や芸術の現代的な役割について示唆を与えるものとなっている
本書の原書は2011年刊行のもので少し前の時代背景に基づいているが
すでに情報の集中・貧富の格差・AIの浸透といった
今日的な問題をすでに予見しているもので
そのうえで詩を単なる文学形式としてとらえるのではなく
社会変革のツールとして再定義
金融資本主義の抽象性に対抗する
具体的な感覚的身体の回復を重視している
以下本書の内容について簡単に概観したうえで
とくに詩による金融の解放に向けての
アイロニーとシニシズムの役割について論じられる
第四章「詩と金融」の内容を見ていきたい
ベラルディは特にフランスやロシアの象徴主義による詩的探求が
言葉とモノの一対一の対応(インデックス化)を解体した
「脱インデックス化」を通じ言語の抽象化を進めたと論じ
そのプロセスは貨幣が物理的な価値から離れ
金融経済において抽象化された現象と並行すると指摘
詩と金融は記号の解放を通じて
現代社会の抽象化を象徴するものとして描かれ
金融資本主義がもたらす非実体的で無機質な支配に対し
詩を「言語の過剰」として位置づけることで
それが感覚的身体や社会的連帯を再活性化する力を持つとしている
そしてタイトルともなっている「蜂起」は暴力的でなそれではなく
連帯を通じた「癒し」の形態として提唱され
詩やアートを資本主義の未来に抗する希望の場として提示している
さてここから第四章「詩と金融」
とくにそこで重要なワードとなっている
「シニシズム」と「アイロニー」について見ていく
まず「シニシズム」だが
それは現代社会における冷笑的で虚無的な態度であり
金融資本主義の抽象化や非人間的なシステムがもたらす
無力感や疎外感から生じるものとされている
つまり労働の不安定化や格差拡大
アルゴリズムによる支配が進行する中で
人々は社会変革への希望を失い
シニカルな態度に陥りがちだというのである
このシニシズムは金融経済における価値と実体の分離である
「脱インデックス化」がもたらす無意味感を反映していて
金銭や労働が具体的な価値から切り離され
抽象的な記号ゲームとなる状況のなかで
人々はシステムへの信頼を失い冷笑的な諦めを抱くようになるが
それは抵抗や連帯を妨げる障壁として機能することになる
シニシズムは集団的行動や希望を阻害し
「蜂起」の可能性を弱める敵としての抑圧の一形態であり
それを乗り越えるためには
詩や身体性を回復することが求められるというのである
対する「アイロニー」は
ベラルディが詩的言語や芸術的表現において重視している重要な要素で
言葉や記号が持つ多義性や逆説性を活用し
既存の権力構造や意味を揺さぶる力を持つとされ
とくに20世紀の詩である象徴主義やシュルレアリスムは
アイロニーを通じて言語の固定化された意味を解体し
解放的な可能性を開いたことが論じられ
それはシニシズムの閉塞感を打破し
身体性や連帯を回復するきっかけとなり得るとしている
「シニシズムの人は、
法の偽りや見せかけの価値を馬鹿にしながら法に屈している」
つまり法の「正義を信じていないにもかかわらず、
権力の側にいることを望んでいる」のに対し
「アイロニーの人は、法を完全に逃れていて、
法が効力を持たないような言語空間を創り出している」
つまり「単にゲームを拒否するだけで、
現実と一致することのない言語に基づいて、世界を構築している」
のである
重要なのは言語の能力や拡張である
「わたしの世界の拡張は、
わたしの言語の能力に依存している」
ということである
第四章では
ガタリの『カオスモーズ』についてもふれられているが
それは「ネットワーク技術と
新自由主義的なグローバリゼーションによって生み出された、
服従の新しい様式と、主観性の標準化」について語られていて
感性的な有限性と言語における可能な無限性という観点から
「可能な意味の宇宙は無限に創造することができる」と
自立的な主観化への新たな道筋を見出すことが試みられている
そして「世界の限界を超えていくプロセスを、
「カオスモシス」と呼び」
「世界の実験可能性の限界でもあるような、
記号論の限界を再定義」しているが
それは科学者が「創発」と呼んでいる
オートポイエーシス的な形態形成とも関係している
その意味における「アイロニー」は
「言語の過剰な力の倫理的な形式」であり
「意味を創造したり、飛び越えたり、シャッフルしたりする。
言葉がプレイする無限のゲーム」なのである
ベケットは「想像力は死んだ 想像せよ」と言ったが
私たちは与えられた現実において
使用されている言語の限界を超えるために
金融資本主義の抽象性のなかでシニフィエ化され
ときにAIで代行されてしまいかねないような
言語の限界を超えていかなければならない
既存の機能しか持ち得ない言語は
死んでそこにあらたに詩的な言語機能を孕むことで
復活することが求められているといえる
