『無知学への招待―〈知らないこと〉を問い直す』
☆mediopos3833(2025.5.18.)
『無知学への招待――〈知らないこと〉を問い直す』は
『無知学(アグノトロジー)』の本邦初の入門書であり
私たちは何を知らないのか
なぜ知らないのか
私たちの〈知らないこと〉はいかに作られ
社会に何をもたらしているのかなどについての論考が
さまざまな視点から集められている
「無知学」についてはすでに
『現代思想2023年6月号」で特集されているが
(mediopos-3121/2023.6.4でとりあげている)
本書の企画はそれに先がけた2023年4月6日に
明石書店の編集者村上晃一から編者の鶴田想人への
メールからはじまったとのことである
時代がこのテーマを
求め始めていたということでもあるだろう
かつてフランシス・ベーコンは
「知は力なり」と宣言した
ミシェル・ド・モンテーニュは
「わたしはなにを知っているのか?」と問い
全体主義国家によって分割統治された
近未来世界の恐怖を描いた
ジョージ・オーウェルの『1984』では
「無知は力なり」というスローガンが登場する
「私たちに知識をではなく無知を植え付けるために、
情報が生産され、拡散され、操作されている。
まさに無知が世界を回しているといっても過言ではない」
「わたしたちは無知の時代に生きている。
どうしてこうなったのか、
なぜそうなったのかを理解すること」が重要なのだ
まさに現在進行形の現在
「世界を回している」無知と
それに対する気づきとのあいだで
とくに政治やメディアの領域において
激しい戦いが繰り広げられ
それに気づく者も日に日に増えているようだ
「無知学」は
科学史家のロバート・N・プロクターと
ロンダ・シービンガーが共同で編集した論文集
『無知学』によって提唱された
それは「科学史において従来見過ごされてきた
「無知」という主題に光を当て、
私たちの知らないこと、すなわち無知が
いかに作られてきたのかを探求するもの」である
プロクターは無知を以下の三つに分類している
①生来の無知(または資源)としての無知
②失われた領域(または取捨選択)としての無知
③戦略的策謀(または能動的構築)としての無知
かつて「無知」は「知識の欠如」とされ
学術的探求の外に置かれてきたが
「無知学」はそれを正面から主題化する
「その歴史的な形成(むしろ生成や忘却)、
それに関与するアクターの意図や無意識、
そして権力との関係を検討」し明らかにすることで
「無知を抑圧や差別・社会的な諸問題からの
解放のための契機として捉え直すことを試み」
「知の権力性を暴き出そうという試み」でもある
さて塚原東吾は「おわりに」において
「無知を論じる際、啓蒙主義的な無知観(教育的世界観、
教育的関係性を確立しようとする不断の傾向性)への
批判は必然的に含まれることとなる」
という示唆を加えているが
教育は「知は力なり」を原則とし
その知は権威化された既存の知識を基礎としているだけに
それをいってみれば「脱学習」的な側面から
「無知」への自覚をうながすことは難しいといえる
しかし「知らないこと」を「知る」ということは
ソクラテスの時代から極めて困難なことで
それはソクラテスを死に追いやった市民たちのように
みずからを「無知」であるとすることは
それに対してさまざまな反発を招くものでもある
しかし「1984」的な現代が
「無知の時代」であることに気づき
「〈知らないこと〉を問い直す」ことは
喫緊の課題であるといえる
■鶴田想人・塚原東吾編著
『無知学への招待――〈知らないこと〉を問い直す』
(明石書店 2025/3/10))
■『現代思想2023年6月号
特集=無知学/アグノトロジーとは何か―科学・権力・社会)』
**(『無知学への招待』)
・はじめに――「無知の時代」を生き抜くために[鶴田想人]
「私たちはどのような時代を生きているのだろうか。戦争、気候変動、原発事故、パンデミック、フェイクニュースなど、私たちの時代を特徴づける事象はさまざまにある。しかしそれらの背後には、一つの巨大な力が蠢いているように思える。その力とは「無知」である。」
「現代は「ポストトゥルース」の時代と言われる。客観的事実よりも個人的な信念や好みの方が重視され、世論の形成にも力をもつ「真実以後」の時代である。この言葉は2016年のアメリカや以後リスの政治状況(・・・)と結びついて登場し、瞬く間に時代を象徴するキーワードの一つとなった。」
「私たちは、近代科学の誕生あるいは啓蒙主義の時代以来、知識の時代を生きてきたと信じている。近代は「知は力なり」というベーコンの高らかな宣言とともに幕を開け、私たちの身の回りを科学技術の勝利の証で満たしているようにも見える。しかしいまや、ジョージ・オーウェルの描いた「1984」のディストピア世界のように、無知こそが力を誇示している。私たちに知識をではなく無知を植え付けるために、情報が生産され、拡散され、操作されている。まさに無知が世界を回しているといっても過言ではないのだ。「わたしたちは無知の時代に生きている。どうしてこうなったのか、なぜそうなったのかを理解することは重要だ。」
「本書はそのような「無知」について、学術的に探求する分野である無知学(agnotology,アグノトロジー)の本邦初の入門書である。無知学は2008年にスタンフォード大学の科学史家ロバート・N・プロクターとロンダ・シービンガーの編著『無知学』(Proctor&Schiebinger2008)によって提唱され、いまや学際的な研究領域に発展してきている。」
「無知学において「無知(ignorance)とは、さまざまな状態を意味しうるアンブレラタームという性格が強い。それはまだ知らないこと(未知、unknown)や忘れてしまった状態、さらに疑念(doubt)や不確実性(uncertainly)なども含みうる。しかもそれらは必ずしも「悪い」ものとして指弾されるわけではない。本書の真筆者のあいだでも、「無知」はさまざまな意味で用いられている。(・・・)本書では、それらをあえて統一することはしなかった。こうした定義のあいまいさは、無知学の課題でもある一方で(当分のところは)強みでもありうると思われるからだ。どんな種類の無知があるかを探求することも無知学の目的の一つである以上、あらかじめ厳密に無知を定義することは、その探査の幅を狭めてしまうことにもなりうる。この点に関しては、今後哲学などの分野でより精緻な議論がなされることを期待したい。」
・第Ⅰ部 概論 1 無知学とは何か――その背景と課題[鶴田想人]
「本書は『無知学への招待』と題されているが、科学史の分野から生まれた狭義の無知学(agnotology)を核としつつも、それを学際的な無知研究(ignorance studies)へと拓いてゆくことを企図している。」
「無知学は、科学史家のロバート・N・プロクターとロンダ・シービンガーが共同で編集した論文集『無知学』(Proctor&Schiebinger2008)によって旗揚げされた研究プログラムである。それは科学史において従来見過ごされてきた「無知」という主題に光を当て、私たちの知らないこと、すなわち無知がいかに作られてきたのかを探求するものである。従来の科学史(そして科学哲学)においては、知識がいかに作られてきたか、そしていかに正当化されてきたかが探求されてきた。そこで焦点を当てられたのはもっぱら科学知識であり、ニュートンやダーウィンやアインシュタインといった人々がいかに当時の通念を覆すような発見をして、人類の知識を更新してきたかということであった。
一方で、そのような科学史から「消され」てきた人々もいた。シービンガーの『科学史から消された女性たち』(1989年)は、(ほとんどが男性である)科学者たちが紡いできた〝輝かしい〟歴史の背後に、そもそも制度的にそこに参入できないか、できたとしても男性の「見えざる助手」となることで、その貢献が不可視化されてきた多くの女性たちの存在があったことを飽きたかにした。(・・・)
さらに知識すらも「消され」ることがあった、ヨーロッパの植民地で奴隷や先住民たちが行った医療には、ヨーロッパ医学に取り入れられて生き残るものもあったが、取り入れられずに消えてゆくものも多かった。(・・・)
無知学はこのように、かつてあった知識がなぜ・いかにして消えてゆくのか、また本来あるべき知識が存在しないのはなぜか、といった問いを正面から検討する。」
「私たちは知識について、それがどのようなもので、なぜそこにあるかを問いやすい。知識は人工物であり、ないよりもあることの方が特殊であるからだ。しかし無知については、私たちはそれをデフォルトの(自然な)状態とみなしやすく、その原因を問うことはほとんどない。無知学は、こうした知識と無知のヒエラルキーを反転させて、無知を探求の主題に据えようとする野心的な試みであると言える。
一方で、プロクターは無知学が何ではないかについても述べている。まず、無知はしばしば「まだ知られていないこと(未知)」として矮小化されやすいが、無知学の主題はそこにはない。何かがまだ知られていないだけならば、それは適切に探求ないし啓蒙されれば、やがて既知に変わるものでしかないからだ。そうではなく、無知学はむしろ何らかの社会文化的要因によって「作られ、維持され、操作され」る無知に関心を向ける。つまる無知を「あえて知らされていない(かもしれない)こと」として捉えるところから、無知学の探求は始まるのである。
また、無知学は必ずしも無知の「矯正」(つまりその克服)を目指すものでもない。無知はともすると「知識がまだ普及しておらず矯正が必要な、ある種の自然な欠如や空白」とみなされがちだが、無知学はそうした啓蒙主義な見方をこそ乗り越えようとする。無知は必ずしも悪いものとは限らず、その原因が必ずしも無知である当人(の知的怠慢など)に帰せられるわけではない。無知はもっと複雑な社会現象なのであり、無知学は「着実に後退してゆくフロンティア以上のものとして」無知を捉え直し、無知がなぜある場所にあって他にはないのか、なぜある事柄について特定の集団が無知であり、他はそうではないのかといったことを分析するのである。
そのために、プロクターは無知を以下の三つに分類する。
①生来の無知(または資源)としての無知
②失われた領域(または取捨選択)としての無知
③戦略的策謀(または能動的構築)としての無知」
・おわりに[塚原東吾]
「無知学・アグノトロジー、もしくは無知研究(ignorance studies)は、これまで単なる「知識の欠如」として学術的探求の外に置かれてきた無知を正面から主題化するものである。その歴史的な形成(むしろ生成や忘却)、それに関与するアクターの意図や無意識、そして権力との関係を検討してきた。そういったことを明らかにすることで、無知学・アグノトロジーは、無知を抑圧や差別・社会的な諸問題からの解放のための契機として捉え直すことを試みる知的実践であるし、知の権力性を暴き出そうという試みでもある。さたに言うなら、金森修が提唱した「科学批判学」の継承と展開を目指すことの一端を担うことができるのではないかと自負している。」
「これまで無知学を特集した『現代思想』などでも、無知学に様々な角度から光を当ててみる論考が含まれていた。これらは必ずしも系統的に扱われたわけではなかったが、それらはそれなりに、新しい切り口を示してくれているという意味で面白いものだった。そのため本書ではさらに多数の論点・トピックを扱うことを試みた。」
「無知を論じる際、啓蒙主義的な無知観(教育的世界観、教育的関係性を確立しようとする不断の傾向性)への批判は必然的に含まれることとなる。無知学と教育的な文化システムとは、本質的に折り合いが悪いものであるかもしれないし、また自然科学・工学の「専門知」とその価値や次世代の育成・専門スキルや暗黙知の継承、そして一般社会への伝達(科学コミュニケーション)に関する問題群は難解だ。無知学の立場は、「新しい啓蒙」の必要性を主張する立場と共通するものを認めるし、専門知の価値を全て否定するものではないのだが、また同時に競合する点やせめぎあいがあることも認めなければならない。それは今後の課題となるだろう(『現代思想』での筆者と隠岐さや香氏との対談も参照)。
さらに無知への権利、もしくは無知であること、無知に踏みとどまることの権利を認めることは、価値の問題を巻き込む難題になってくると考えている。無知であることそれ自体には価値を認めるべきであるだろうというのは、無知学が認める重要な立場である。もちろん無知学で得られた知見を曲解して、文化的後進性の孤塁を死守しようと戦略的に立ち回ってくる側を擁護する気にはならない。しかし、無知には、単なる保守性に留まらない意味もあることをどう考えるのかは実に難しい課題である。」
**(『現代思想2023年6月号 特集=無知学)
・隠岐さや香+塚原東吾「【討議】無知の力と新しい啓蒙」)
「塚原/学問は知を扱いますが、「知っている」ということだけではなく「知らない」ということ、もしくは「知られていない」ことを考え直さなければいけないのではないかという考え方は、昔からあります。歴史をさかのぼればソクラテスがひとつの典型ですが、最近では特に一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけての科学史において、知らないということ自体の問題もしくは、何かについて知らないとされてしまったこと自体が問題ではないかと主張しはじめた二つのグループ、二つのアプローチがあります。
一つ目は、ロバート・プロクターとピーター・ギャリソンらのグループによるものです。彼らは科学の名のもとに、あえて知らないとされてしまった領域が存在していると指摘しました。(・・・)彼らは科学史や医学史において、あることについての知だけが研究されていて、研究されていない分野やそういったかたちで置き去りにされている領域、いわば無知の領域とされている部分があることに注目しました。知を自称する側には、そのような大きなバイアスがあることを曝し、そしてそれらの背景となる要因を指摘しました。科学史のなかで、無知に押し込められていた領域があるのはなぜかを問うことで始まった考え方です。
もう一つは、ロング・シービンガーが中心になっている、ジェンダーについての科学史を扱うグループがあります。女性についての初期の科学史は、これまで知られていなかった科学史上の女性の功績を掘り起こすというやり方です。しかしシービンガーたちはそうではなく、そもそも科学が「構造的」に女性を排除してきたことを明らかにしました。埋もれた女性科学者を掘り出すだけではなく、埋もれた「理由」を問い始めたわけです。」
「塚原/私はどちらかというと、マルクス・ガブリエルが提唱する「新しい啓蒙」(New Enlightnment)的な立場に近いのかもしれません。彼は大胆にも「道徳的進歩」(moral progress)の必要性を提唱しています。パンデミックや戦争を乗り越えて持続可能性を保ち、差別や不平等を減らすためには、結局、人類共通の普遍的価値を求め、今までに不可能であったような人類全体の協力関係を構築するべきだという考え方です。そのためには人間性に対する高度な理解が必要とされます。何故なら、「新しい啓蒙」では個々人の理性はあてにできず、多様で限定的な理性を持つ弱い個人が、地域や人種、ジェンダー、年齢の違いや障害の有無がもたらすバイアスとともに対話を重ねなければならないからです。そのためには学術の全分野からの人間性把握が必要になります。私自身は彼ほどラディカルに「道徳的進歩」を信じきれていない部分はありますが、過去の啓蒙とは技術環境が違うので、こうした方向性は全くの夢物語でもないとも感じています。
しかし、矛盾するようですが、一方でかつてのように専門知の権威が復権し、崇拝や信頼の対象となればいいのかといえば私には躊躇いがあります。私は引き裂かれた思いでいます。」
・納富信留「知らないということ」
「人々から「知者」と呼ばれていたソクラテスが強く「私は知らない」と言い続けた様子は、プラトンの多くの対話編では描かれている。彼が自認するあり方を「不知」と呼ぶとすると、その特徴は次の通りである。
まず、ソクラテスが「知らない」と言っているのは、「善、美、正義」など大切なことについてであり、任意のどんな事柄も知らないという趣旨ではない。(・・・)
第一に、ソクラテスには、後の懐疑主義者のような、「何も知らない」といった全称否定であらゆる「知」を疑ったり退けたりする態度はまったくない。(・・・)
第二に、ソクラテスが「知らない」と言うのは、大きく人間の倫理や価値をめぐってであり、とりわけ「徳(アレテー)」と呼ばれた「人間としての善さ」に向けられている。(・・・)
第三に、ソクラテスが「知らない」と言ったのは、徳をめぐるあらゆる命題ではなく、「何であるか」という問いへの答えであった。つまり、ソクラテスは徳について何も知らないとか、そもそも何も論じられないとか、そんな無責任なことを言ってはおらず、吟味をつうじて確信できることを認めていっても「それが何であるか」という最重要な点は「知らない」と語ったのである。(・・・)
では、「何であるか(ティ・エスティン)とは何を尋ねる問いであり、そこで求められる答えとは何なのか。この問いを引き受けたアリストテレスは、それを「定義」と呼び、言論において「本質」を示すことだと考えた、師のプラトン派その二つを射程にいれつつ、「何であるか」への答えに「イデア」という存在を提示した。ソクラテスが「知らない」という形で強烈に問題提起した「何であるか」の探求は、ギリシア哲学の本道を切り開いたのである。」
「「何らかの点でより知恵がある」とアイロニカルに語られた「人間的な知恵」は、日本では一世紀にわらって「無知の知」あるいは「不知の知」という標語のもとで誤解されてきた。「知らないので、そのとおり知らないと思っている」という虚心坦懐に認め語りつづけるソクラテスを、「無知を知る」、あるいは「無知の知を知る」知者、偉大な教師として祭り上げてきたのが、近代日本のメンタリティである。
ここで、プラトンによる「不知」と「無知」の明瞭な区別を確認しておこう。『ソフィスト』では、ただ「知らない」という状態である「不知(アグノイア)」を類として、分割された一方の種が「知らないのに、知っていると思っている」という「無知(アマティアー)」だと言われる。『法律』篇でも同様に、「過ち」の原因である「不知」という類が、二種類に分けられる。
(・・・)
この二種類を分けるのは、「無知」つまり「知らないのに、知っていると思いこんでいる」という悪を取り除く必要があるからである。哲学の一つの任務は、そうした無知からの魂の浄化である。知を愛し求めるのが哲学だとして、そもそも知に向けて欲求が発動するためには、知らないという自覚が必要である。「不知」という状態はそれ自体では人間に宿命的な有限性に過ぎないが、「無知」は「愛知」に真っ向から相反する最悪の状態なのである。」
「善や美や正義など、私たちにとってもっとも大切なことについて「何であるか」を問いながら「知っている、知らない」という究極の場面から自己のあり方を吟味しつづけること、それがソクラテスの不知の自覚であった、天球を継続しながら、その都度「知らない」と確認し、その思いを抱きつづける彼の生き方は、自己のあり方を可能な限り透明にし、あるがままに受け止めることで、より善い生き方を目指す不断の営みであった。その「不知」に耐える強靱さが、ソクラテスの偉大さであり、哲学者の生き方という理想をもたらしなのである。私たちは、彼が突きつける「知らない」から目をそらさず、それを認めつづける生に耐えることができるだろうか。」
□『無知学への招待』目次
はじめに――「無知の時代」を生き抜くために[鶴田想人]
無知の時代?
欧米における無知学の流れ
日本における無知学の歩み
無知研究の諸潮流と本書の範囲
本書の構成
第Ⅰ部 概論
1 無知学とは何か――その背景と課題[鶴田想人]
1 無知学とは何か
2 学術的文脈
3 いかなる「無知」を扱うか
4 おわりに――学際化にむけて
2 無知学の過去・現在・未来[ロバート・N・プロクター(鶴田想人・塚原東吾訳)]
1 若い頃からの関心の展開
2 無知学への歩み
3 近年の無知研究について
4 執筆中の著作
5 無知学の今後の展望
3 科学史・STSにおける無知[塚原東吾]
1 科学革命とガリレオ科学
2 非西欧世界での科学技術
3 グローバルヒストリーやポピュラー科学史が生み出す無知
4 STSと無知学――主にブライアン・ウィンの再考と科学コミュニケーションの問題
5 〈科学批判学〉の要としての無知学・アグノトロジー
第Ⅱ部 キーワード
1 特定された無知[村瀬泰菜]
2 意図的な無知/非意図的な無知[鶴田想人]
3 有徳な無知[岡本隣]
4 戦略的無知と非知社会学[井口暁]
5 白人の無知と無知の認識論[大橋一平]
6 認識的不正義[飯塚理恵]
第Ⅲ部 日本の「無知学」
1 科学の国際性と研究の無害化――1950年代の放射線影響に関する知/無知の形成[飯田香穂里]
1 はじめに――科学の国際性
2 米国の科学戦略
3 放射線と「客観性の呪い」
4 オオイヌノフグリ変異花の「無害化」
5 無害化――科学的振る舞いの結果としての無知生産
2 動機としての無知――公害の場合[友澤悠季]
1 はじめに――公害をめぐる知と無知の緊張関係
2 知ることを求めてきた公害被害者――足尾銅山鉱煙毒事件から
3 積極的な無知生産――二つの水俣病事件から
4 新たな知へ向かう意志、無知へ引き戻す力
5 おわりに――動き出す無知へ
3 「田んぼ」の真ん中に建てられた基地――沖縄における無知の政治[西山秀史(前田暉一朗・岡井ひかる訳)]
1 序論
2 無知の生産を通して空白の空間を記述する
3 今日における過去の空間的消去――普天間基地をめぐる米国の公式言説
4 沖縄における無知と脱植民地化への闘争
4 「日本人」特権に起因する無知――日本人性に関する社会科学と無知の認識論の学際研究[佐藤邦政]
1 はじめに
2 日本人性とマジョリティ性の交差としての「日本人」特権
3 無知の本性と分類
4 日本人特権に起因する無知
5 結語
第Ⅳ部 「無知」の諸相
1 無知の権利[村上陽一郎]
2 古代ギリシア哲学の「不知/無知」[納富信留]
3 福島原発事故と放射線健康被害の不可視化の構造[柿原泰]
4 ホロコーストと同性愛者[弓削尚子]
5 カントの「黒」――合理的作為としての無知が顕わにする〈知〉としての「人種」[小笠原博毅]
6 民主主義と無知[大竹弘二]
7 COVID-19パンデミックと無知[美馬達哉]
8 AIの作り出す無知[直江清隆]
9 ジャン=ピエール・デュピュイの破局と無知[渡名喜庸哲]
10 経済学における「自然」の不可視化[桑田学]
11 ポストトゥルースと「科学否定論」[松村一志]
12 人間の条件としての無知――ミラン・クンデラと考える[須藤輝彦]
13 人新世の結果から要因、対策へ――環境問題における無知の構造[野坂しおり]
14 フランスにおける無知研究の展開[井上雅俊]
おわりに[塚原東吾]
無知学・アグノトロジーという言葉についての交通整理
本書のおさらい
今後の課題群――文化と価値の問題
索引
○鶴田想人(つるた・そうと)
1989年東京生まれ。大阪大学社会技術共創研究センター特任研究員。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。修士(学術)。専門は科学史・科学論。論文に「無知学(アグノトロジー)の現在」(『現代思想』2023年6月号)など。編著に『ジェンダード・イノベーションの可能性』(共編、明石書店、2024年)、翻訳にプロクター「無知学」(『思想』2023年9月号)、シービンガー『奴隷たちの秘密の薬』(共訳、工作舎、2024年)など。
○塚原東吾(つかはら・とうご)
1961年東京生まれ。東京学芸大学教育学部化学科修士課程修了、ライデン大学医学部にて博士号を取得。イギリス・ケンブリッジ大学ニーダム研究所にてポスドクフェロー、東海大学文学部助教授を経て、現在、神戸大学大学院教授。主要な著作・編著にAffinity and Shinwa Ryoku(Gieben,1993)、『科学技術をめぐる抗争』(共編、岩波書店、2016年)、『帝国日本の科学思想史』(共編、勁草書房、2018年)など。
