見出し画像

湯気の向こうに、まだ見ぬ聖地を──甲府学館野球部、“夏合宿”前夜のプロローグ

プロローグ:一枚の写真

湯上がりのほてりを優しく包み込むような、山から吹き抜ける季節外れの冷たい風。
山あいの静寂に包まれた温泉旅館のロビー、その帳場の脇にある小さな木製の写真立てには、幾年月を重ねて少し色褪せた一枚のスクエア写真が飾られている。

写っているのは、まだ無邪気さを残した小学生の女の子と、旅館の仕立てた浴衣に身を包んだ大柄な男性だ。
男性は体躯の良さを隠しきれない体に少し小さめの浴衣を羽織り、カメラに向かってどこか照れくさそうに、しかし温かい目を細めて笑っている。その隣で、満面の笑みを弾けさせ、弾けるようなピースサインを掲げる少女もまた、同じ柄の大きな浴衣の袖を折り返して並んでいた。

その写真に写る大柄な男性こそ、当時まだ45歳ほどだった柏村泰智。現在、甲府学館高校野球部を率いる監督その人である。
かつて強豪校の遊撃手として甲子園の土を踏み、白球を追い続けた情熱そのままに指導者へと転身した柏村だったが、そのキャリアの途上には、人知れず深い苦悩と迷いに苛まれた時期があった。

当時、甲府学館野球部は、進学校化を目指す学校側の一律の施策により、他のすべての部活動とともに活動休止という憂き目に遭っていた。

グラウンドから打球音が消え去って久しい学校に留まり、いち事務員として静かなキャリアを重ねる受け皿を選ぶべきか。それとも、これまでの実績を買って熱心にアプローチを重ねてくれる他校からのオファーを受け入れ、再びグラウンドでノックバットを握るべきか。

人生の岐路に立たされた柏村は、傷ついた心身の静養と頭を冷やす時間を求め、秘湯として知られる「桜咲ノ湯 山霞庵」を訪れていたのだった。
「あの頃は、正直、答えが出ていなかったんだよ」
今回の夏合宿を迎えるにあたり、柏村は遠い目をして当時をそう振り返った。
「指導者としての自信も失いかけていてね。でも、宿の看板娘だった小さな女の子が、俺の顔を見るなり『甲子園に出てた人だ!』って目を輝かせて駆け寄ってきたんだ。そして『一緒に写真を撮って!』って、無邪気に袖を引っ張られてね」

その“看板娘”こそ、当時まだ小学生だった桜本帆乃花である。地元の少年野球チームの試合を食い入るように見つめ、甲子園での高校野球の試合が始まるとテレビの前から動かなくなるほど野球が大好きな少女にとって、かつて山梨県代表の甲府学館を率いて、甲子園という夢の舞台を戦い抜いた柏村監督は、絵本から飛び出してきたかのような正真正銘のヒーローだった。

柏村がその後、他校からの誘いを断って甲府学館に残り、学校事務の仕事をこなしながら泥にまみれて野球部再建という修羅の道を選んだ理由のすべてが、この少女との出会いにあるわけではないかもしれない。
しかし、帳場の脇で静かに時間を重ねる小さな一枚の写真は、あの暗闇の中で灯った確かな光の存在を今も物語っている。

そして今、月日は流れ、あの日の少女は、柏村監督のもとで甲府学館野球部のマネージャーとして奔走するまでに成長した。
1年生ながら渉外や広報という重要職を一身に担う帆乃花にとって、柏村は今や、日々の練習で厳しくも温かく指導を受ける恩師であり、背中を追い続ける目標そのものである。
だからこそ今回、自身の「実家」である山霞庵を夏合宿の拠点として提案するにあたって、帆乃花の心に迷いは一切なかった。一度は野球を諦めかけた柏村監督に、そして新しく生まれ変わろうとしているこの野球部に、この場所が持つ特別な意味をきっと分かってもらえる。そう信じて疑わなかったからだ。

6月、職員室にて

事の始まりは、どこか蒸し暑さが漂い始めた6月のある放課後にさかのぼる。
夕暮れの光が差し込む職員室の重い扉を、帆乃花はトントンと几帳面にノックした。
「石澤副部長、ただいまお時間よろしいでしょうか」
デスクで膨大な書類の山と格闘していた石澤弘晴が眼鏡のふちを上げ、顔を持ち上げた。国語科の主任であり、野球部においては部費や備品の厳密な管理から生徒指導、果ては進路指導までを一手に引き受ける副部長だ。

彼がユニフォームを着てグラウンドに立つことは滅多になく、選手たちからは親しみと恐れを込めて「生徒指導と書類の人」として認知されている。
グラウンドで直接野球の技術を教えることはない。しかしその分だけ、彼は冷徹なまでに現実的な数字と論理を用い、部の健全な運営という屋台骨を陰で支え続けているキーマンであった。
「桜本さんが、わざわざ放課後にここへ来るのは珍しいね。何か新しい提案かな?」
帆乃花は静かに頷くと、手持ちのA4リングノートを開いた。そこには、丁寧な文字と几帳面な線で書かれた資料が挟み込まれていた。周辺地図、旅館の見取り図、近隣スポーツセンターの施設利用空き状況、そして交通費の試算と細かな注釈が、隙間なくびっしりと書き込まれている。
「夏合宿の件で、ぜひご相談があります」
「冬合宿、高知でしたよね」
帆乃花が切り出すと、石澤副部長は過去の支出明細を思い浮かべるように、少し身構えて深く頷いた。
「そうだね。温暖な地で、実に素晴らしい環境だったと報告を受けている。ただ……正直に予算の観点から言わせてもらえば、あの長距離遠征費と滞在費は、部計上としてなかなかの痛手だった」
「はい。だからこそ、今回は私から一つのご提案があります。この夏の合宿は、思い切って『近場』にしませんか」
石澤副部長は意外そうに眉をひそめた。部費の圧迫を懸念し、今期の夏合宿については予算削減を言い渡そうとタイミングを測っていた矢先に、まさか生徒の側からまったく同じ結論が飛び出してくるとは想像もしていなかったのだろう。
「冬に遠くへ出かけたのであれば、夏はその分、移動のコストと時間を最小限に抑えるのが合理的だと思います。移動に貴重なお金と体力を費やすくらいなら、練習そのものに集中できる環境を近場で選ぶべきではないでしょうか。それに...」
帆乃花は一瞬だけ表情を和らげ、少しだけいたずらっ子のように微笑んだ。

「近場だからこそ、実現できる『特別な企画』があるんです!」
「……ほう? 聞こうじゃないか」
「私の実家は、温泉旅館を営んでおります。名号を『桜咲ノ湯 山霞庵』と申します」

石澤副部長は提示された資料の写真に視線を落とした。そこに写っていたのは、巨大な宿泊棟が聳える本館と。風情ある重厚な木造建築の別館、立ちのぼる白い湯気が幻想的な露天風呂、そして美しく手入れされた日本庭園だった。

「別館まで含めて全面利用させていただければ、部員全員と指導陣が余裕を持って宿泊できる容量があります。近隣の総合スポーツセンターの野球場も手配可能で、練習場所の確保にも一切支障はありません。旅館側とはすでに私のほうで内々のアタリと調整を済ませており、いつでも予約を確定できる状態です」
帆乃花は一度言葉を切り、真摯な目で見つめ返した。
「自分の実家の商売を部活動に利用しているように見えてしまうかもしれません。それはマネージャーとして少し心苦しい部分もあります。ですが、選手のみなさんに今ご用意できる最高の環境を、学校側にも最も負担の少ない形で提供したいという気持ちに、一切の嘘はありません」

石澤副部長はしばらくの間、無言で手元の資料を精査するように眺めていたが、やがてふっと目尻を下げ、小さく頷いた。
「予算面、環境面ともに、申し分ないどころか理想的だ。……ところで、これは何かな? 欄外に書かれている『応援ツアー』というのは」
「バックネット裏に、いつも甲府学館野球部の練習を温かく見守りに来てくださる地域の方々がいますよね。ご近所のおじいちゃんやおばあちゃんたちです。その方々の中に、私の実家の温泉に『いつか行ってみたいけれど、少し遠くてね』とおっしゃってくださる方が何人もいらっしゃるんです。合宿で別館を私たちが使わせていただくのであれば、空いている本館のお部屋を活用して、いつも応援してくださる地域の方々のための『小さな合宿応援ツアー』を同時に組めるのではないかと考えました」
「つまり……野球部の合宿という機会を利用して、旅館の宣伝や集客を兼ねようというわけではないんだね?」
「違います。順番がまったく逆なんです」
帆乃花はハッキリとした声で答えた。
「日頃から私たちを惜しみなく応援し、支えてくださっている地域の方々に、何か恩返しがしたい。その感謝を形にする手段として、たまたま私の実家が最適だった、というだけのことです」 

その毅然とした、しかし温かい言葉に、石澤副部長は思わず「ふっ」と声を漏らして笑った。
「実に桜本さんらしい、筋の通った理屈だ。よく分かった。この案で進めよう。荒井部長や柏村監督にも、私からしっかりと話を通しておくよ」

こうして6月後半、荒井部長、柏村監督、石澤副部長、そして帆乃花の四者による最終意思確認を経て、8月5日の前泊から10日までの「五泊六日」に及ぶ、桜咲ノ湯 山霞庵を宿舎とする夏合宿の実施が正式に決定したのである。
その日の夜、同級生マネージャーの一瀬緋菜多と間山碧依に決定の報告をした際、緋菜多はポンと手を叩いて目を輝かせた。
「えっ!帆乃花の実家にみんなで泊まるの!?やばい、それってもう実質修学旅行じゃん!」
「修学旅行じゃなくて『厳しい夏合宿』だからね?練習、めちゃくちゃハードなんだから浮かれちゃダメだよ」
帆乃花が苦笑いしながら釘を刺すと、隣で静かに話を聞いていた碧依が、少し首をかしげながら知的な眼差しで呟いた。
「山霞庵の温泉の泉質はどのようなものかしら。選手の激しい筋肉疲労や神経系の回復に有効な成分が含まれていると嬉しいのだけれど」
「帆乃花の肌が綺麗なんだから、絶対良い温泉だって〜」と緋菜多が得意気に笑った。
「あ、それなら効能一覧のデータをちゃんと調べてまとめておくね!」と帆乃花はノートにメモをした。

翌週の夕刻。いつものように夕日が差し込むグラウンドのバックネット裏で、練習を見守っていた常連の地域住民たちに、帆乃花はそっと一通の案内を手渡しながら報告を行った。
以前から「いつか帆乃花ちゃんの実家の温泉に行ってみたいねぇ」と目を細めていた老女が、案内を受け取ると驚きで目を丸くした。
「まあ!あんたの実家の、あの有名な温泉宿に?」
「はい。もしよろしければ、合宿の期間中、みなさんもバスで遊びに来ていただけたらと思いまして。昼間はグラウンドで選手たちの練習をじっくり見ていただいて、夜はうち自慢の温泉と旬の料理でゆっくり羽を伸ばしていただければと……」
老女は言葉を失ったようにしばらく呆然としていたが、やがてじわじわと込み上げる喜びを抑えきれない様子で、目尻にシワを寄せて心から嬉しそうに笑った。
「……本当に、私なんかが行っていいのかい?」
「もちろんです!どんな時もグラウンドに通って応援してくださるみなさんへ、私と野球部からの心からの恩返しです」
それを聞いた八百屋のご主人も、喫茶店の常連も、「行く行く! 絶対に行くよ!」「仕事を調整してでも駆けつけるからな!」と口々に声を弾ませた。
帆乃花は、目の前で弾ける地域の人々の温かい笑顔を企画書やノートに書き留めることはせず、ただ自分の胸の奥深い場所に、そっと大切にしまい込んだ。

合宿前日、夕方のグラウンドにて

そして、いよいよ迎えた8月5日。
合宿期間自体は翌日からの五日間だが、明朝一番から最高の状態でグラウンド練習に入れるよう、今回は前日の夕方から現地へ移動する「前泊」という形がとられた。
合宿前最後の通常練習を終えた夕暮れのグラウンドは、いつもとは明らかに違う独特の熱気と喧騒に包まれていた。大型バスのトランクに積み込む荷物の量が、日帰りの遠征とは比べものにならないほど膨大だったからだ。
金属バットがぎっしり詰まった重厚なケース、キャッチャー防具、無数のボールケース、個人的な着替え、大量の洗面用具や救急箱。選手たちは額の汗を拭う間もなく、威勢のいい声を掛け合いながら、次々と荷物をトランクの奥へと押し込んでいく。
「おい!それ俺のエナメルバッグだぞ!どこ持ってくんだよ!」
「えーっ、名前書いてないから分かんないですよ!」
そんな賑やかなやり取りが飛び交う輪の真ん中で、統括リーダーを務める2年生マネージャーの玉野こころが、通る声を張り上げて縦横無尽に指示を出していた。
「ちょっと! 1年生から先にトランクの奥に詰めて! 2年生の荷物は最後で大丈夫だから!」
「2年生もダラダラ動かない!ダラダラしてたら合宿中のマネージャー補食おにぎり、全部からしセロリマヨネーズにしちゃうからね!?」
「ほら山口くん、早く2年生の点呼取って!中島くんは1年生の人数確認!松岡くんは箱の新品ボールが何球あるか最終チェック!……あ、あと今井くん! 補食用に用意した特製プロテインクッキーの段ボール、トランクの一番手前に置いといてね!現地に到着したら選手がすぐ食べられるように!あと、西田くん!貴重品はトランクに入れずに手元に持っておくように1年生に伝えて!」
指示を受け飛ばされる部員たちは、「まったく、うちの統括リーダーは人使いが荒すぎるよ……」
「一体あいつ、頭の後ろにも目がついてるんじゃないか?」
「いくつの指示を同時にしているんだ?口が何個ついているんだよ?」
と呆れ顔で見合わせながらも、その完璧な仕切りに素直に従っていた。

しかし、その活気あふれる輪の中に、肝心の帆乃花の姿はなかった。
練習終了の合図とともに、彼女は誰よりも早く荷物をまとめ、一人グラウンドを後にしていたからだ。部員やスタッフの一行を迎え入れるための完璧な準備を、一足先に実家である山霞庵で整えておかなければならなかったからである。
「みんな、先に帰って準備してるね!部屋割り表と館内図、玄関の掲示板に貼っておくから!」
そう言い残し、駅へと猛ダッシュしていく帆乃花の小さな背中を見送りながら、碧依がポツリと呟いた。
「今日ばかりは……グラウンドにいる私たちよりも、彼女の方が遥かに過酷で忙しいかもしれないね」
「だねぇ。……にしても、選手を迎える『宿の若女将側』になった帆乃花って、ちょっと想像つかないよね」
緋菜多が楽しそうに笑うと、碧依も「ええ」と小さく笑みを返した。

一方、その頃の山霞庵──。
普段の制服から、凛とした藍色の和装(作務衣)に着替えた帆乃花が、ベテランの仲居たちに混ざって館内を縦横無尽に立ち働いていた。
全客室の清掃状態の最終確認、部屋割り表の貼り出し、大量の氷と飲料の準備。伝統ある温泉旅館の娘としての顔と、甲府学館野球部を支えるマネージャーとしての顔が、この日ばかりは完全に一つに重なり合っていた。
「帆乃花ちゃん、部員さんたちが使う別館のお部屋、座布団の数はこれで足りてるかしら?」
「あ、ありがとうございます!……できればそこの座布団、あと二枚ずつ多めに置いておいてもらえますか?1年生の部屋、体格の大きな子が多くて狭く感じちゃうかもしれないので」
「それと調理場のみなさん!いつもの夕食用の生ビールサーバーではなくて、今日はキンキンに冷えたスポーツドリンクを大浴場の出口に用意してください!明日からの激しい練習ですぐに飲めるようにしたいんです!」
細部まで一切の妥協を許さないその気配りぶりは、まさに日頃のマネージャーとしての手腕そのものだった。ただ、今日という日において異なるのは、その細やかな手配の先にいるのが、大切な「選手たち」であると同時に、自分の家へやってくる「愛すべきお客様」でもあるという点だった。

やがて夕暮れ時。山あいの細い坂道を上り、部員とスタッフ約100人を乗せた大型遠征バスが、次々と山霞庵の広大な駐車場へと滑り込んできた。
プシューッとエアブレーキの音が響き、エンジンが停止する。重い扉が開くと同時に、真っ先にバスのステップを降りてきた選手たち。
その視線の先、格式高い旅館の玄関口で彼らを静かに待っていたのは。完璧な和装に身を包み、優美にたたずむ帆乃花の姿だった。

チェックイン

「いらっしゃいませ! 甲府学館高校野球部のみなさま、ようこそ『桜咲ノ湯 山霞庵』へお越しくださいました!」
背筋をピンと伸ばし、深々と頭を下げる帆乃花の見事な若女将ぶりに、バスから降り立った部員たちから「うおっ……」「まじかよ、本物の若女将じゃん……」と小さなへっぴり腰のどよめきが巻き起こった。

柏村監督はロビーに一歩足を踏み入れた瞬間、吸い寄せられるように帳場の脇へ視線を送った。そこに飾られた、あの小さな写真立てに。
その視線の動きに気づいた帆乃花は、和装の袖を少し直しながら、照れくさそうにふふっと笑った。
「監督……まだ飾ってあるんです。あの日の写真」
「……そうか。まだ、ここにあったんだな」
柏村は一瞬だけ足を止め、褪せた写真の中の自分と少女を見つめたまま、言葉を探すように深い沈黙を置いた。
「あの頃の俺は、指導者としても人間としても完全に行き詰まっていてね。ただただ現実から逃げたくて、ここに静養に来ただけだったんだが……。そんな俺に、生意気な小学生が『甲子園に出た監督さんですよね!? 写真撮ってください!』って一切引きさがらずに食い下がってきてね。断るに断れなかった。……でも、今見ても本当に良い写真だ」
柏村は少しだけ口元を緩め、ボソリと愛おしそうに付け加えた。
「お前は、あの頃から全然変わっていないな。こうして立派にマネージャーになっても、まだあの頃と同じキラキラした目で俺のことを見てやがる」

すぐ近くで荷物を運んでいた緋菜多が「えっ、えっ!?監督と帆乃花って、そんな昔にドラマみたいな運命の出会いをしてたんですか!?」と目を輝かせて食いつきかけた瞬間、柏村はコホンと気まずそうに咳払いをして素早く話題を打ち切った。
「こら! 1年生、ダラダラ立ち話をしていないで迅速に自分の荷物を部屋へ運べ!合宿はもう始まっているぞ!」
監督の素知らぬ顔での一喝に、部員たちは「はいっ!」と慌てて動き出した。

湧き出る湯、迎える宿

ここで少し、甲府学館の球児たちを迎え入れた「桜咲ノ湯 山霞庵」という宿について触れておきたい。
創業から長い歴史を刻むこの老舗旅館の誇りは、なんと言ってもその圧倒的な湯量を誇る源泉である。地下深くから毎分2000リットル。
ドラム缶に換算して実に10本分もの豊かな湯が、絶え間なく地表へと湧き出している。湧出温度は49℃。一切の加水を行わず適温に保たれた湯は、まさに大自然の恵みそのものである。
肌にまとわりつくように柔らかく染み込むアルカリ性単純温泉の泉質は、日々の激しい鍛錬で悲鳴をあげる筋肉痛、関節痛、打撲、疲労回復はもちろんのこと、神経痛や冷え性、慢性消化器病、さらには痛風にまで顕著な効果があるとされている。

歴史を感じさせる本館と、洗練された設備を備えた別館を合わせれば、野球部の部員・スタッフ約100名に加え、同時に招待された地域応援ツアーの参加者30名を余裕を持って受け入れられるだけのキャパシティを誇っていた。まさに、戦いに挑む球児たちが羽を休めるにはこれ以上ない至高の「陣営」であった。

先輩の心配

部屋への荷物搬入と整理が一段落した夕刻、別館の談話室の隅で、1年生投手の早川悠介がやけに静かに丸くなっていた。
畳の上に膝を抱えて体育座りをし、開け放たれた窓から見える見たこともない夕暮れの山並みを、不安げな瞳でぼんやりと見つめている。
その小さくなっている背中に真っ先に気づいたのが、2年生の先輩・松岡龍星だった。
「おい早川、大丈夫か?さっきから全然喋らないし、なんか顔色悪いぞ」
「……あ、松岡さん。……大丈夫です、なんでもありません」
「全然大丈夫そうに見えないけどな」
松岡に横に腰掛けられ、早川は少しの間ためらっていたが、意を決したようにぽつりと本音を漏らした。
「……僕、生まれてから今まで、こんなに長い期間家を離れたことがないんです。中学の修学旅行で2泊3日だったのが、たぶん人生で一番長くて。それより長く親元を離れて遠くに行くの、今回が初めてで……なんか急に、心細くなっちゃって」
松岡は思わず「えっ、理由それだけ!?」という呆れ顔を浮かべそうになったが、瞬時に表情を真顔に戻した。ここで下手にからかうと、繊細な1年生投手のメンタルが崩壊し、後々面倒なことになるということを、これまでの経験から察知したからだ。

「まあ……そういうナイーブな奴もいるよな。僕なんか逆に、親元離れて仲間と泊まれる合宿の方が気楽で最高だと思ってるタイプだけど」
「松岡さんは……そういう強いタイプなんですね……」
「言い方が悪いな!……まあでも安心しろって。合宿の4日目くらいになったら、お前絶対『帰りたくない、ずっとここにいたい』とか言い出してるから」
「……言わないです、たぶん」
早川の口から思わず小さな笑いが漏れた。松岡はその頭をぽんと優しく叩いた。
「まあ、飯は死ぬほど美味いし、風呂は最高の温泉だし、周りには頼れる仲間がいっぱいいるんだ。寂しがってる暇なんてなくて、あっという間に過ぎるって。心配すんな」
「どうしても辛くなったら、夜中でもいつでも僕の部屋に話しに来いよ」と言い残し、松岡は部屋を後にした。
早川はほんの少し胸のつかえが下りたような表情を浮かべ、ワイワイと賑やかな同級生たちの輪へと戻っていった。かつてチームの「弟キャラ」として可愛がられていた松岡は、知らず知らずのうちに、新しく入ってきた後輩を思いやることのできる「良き兄貴分」へと成長していたのだった。

主将の言葉

夕食用の大広間に部員全員が集められた。畳の上にズラリと並んだ壮観な膳を前に、柏村監督からの短い事務連絡が終わると、マイクは主将の山口慶彦へと手渡された。
「みんな、今日から5泊6日、山霞庵さんにお世話になります」
山口の声には、普段グラウンドのショートの位置から飛ばす鋭い声かけとは異なる、静かだがずっしりと響く重みがあった。
「まず全員に理解してほしい。ここは、マネージャーの桜本さんのご実家だ。俺たちは今、グラウンドで野球をする選手である前に、一人の人間として、客として、この素晴らしい旅館に迎えていただいている。当然だが、館内には俺たちの他にも一般のお客様がたくさん泊まれている」
山口は部員一人ひとりの目を鋭く見つめながら言葉を続けた。
「廊下ですれ違ったら必ず立ち止まって気持ちよく挨拶をする。会話のボリュームには細心の注意を払う。用意していただいたお食事は感謝を込めて残さず食べる。部屋や備品は自分の家のもの以上に大切に扱い、チェックアウトする時は来た時よりも綺麗にして去る。……アスリートである前に、高校生として『当たり前のこと』を、完璧にやろう」
静まり返った大広間で、部員たちは背筋を伸ばし、真剣な眼差しで主将の言葉を胸に刻んでいた。
「それともう一つ。……俺たちが今回、こんな素晴らしい環境で合宿をやらせてもらえるのは、桜本さんが何ヶ月も前から俺たちのために頭を悩ませ、奔走してくれたおかげだ。この合宿がすべて終わった時、山霞庵のスタッフのみなさんからも、そして桜本さんからも『甲府学館の野球部を受け入れて本当に良かった、また来年も来てほしい』と思ってもらえるような振る舞いをしよう。それが、寝る間を惜しんで準備してくれた桜本さんに対する、俺たちの一番の恩返しだと思う」
少し離れた柱の陰で控えていた帆乃花が、そっと目を伏せた。その目元がかすかに潤んでいるのを、取材していた私は見逃さなかった。
「よし!それじゃあ合宿期間中、全員気を引き締めて行こう!……でも、飯は死ぬほど美味いから、感謝してガッツリ食うぞ!」
「おう!!」
最後の一言で、緊張に包まれていた大広間の空気がふっと和らぎ、少年たちらしい元気な歓声が響き渡った。

湯けむりの中の未来図

夕食後、待ちに待った入浴の時間。
もうもうと立ち込める真っ白な湯気の中、広大な大浴場の浴槽の片隅で、3人の1年生が肩まで湯に浸かりながら向き合っていた。投手の比嘉直樹、野手の仲田雅、石塚直輝である。
「なあなあ……俺たちの代が最上級生になった時って、かなりヤバいチームになると思わないか?」
仲田が湯をすくって顔を洗いながら、興奮気味に切り出した。
「だってさ、絶対的エースが比嘉で、早川もいるだろ?田辺だって球に力があるし、左の秋本もいる。クリーンナップは俺が3番を打って、石塚が4番、5番は柏木かな?守備なら中島や佐々木叡みたいに鉄壁なやつがいるし、1番には高根や中林みたいな足の速いやつもいる……普通に考えて、かなり強くないか?」
比嘉が足を伸ばしながら、ニヤニヤと茶々を入れる。
「ちょっと待てよ、お前が3番打者っていつ決まったんだよ」
「予想だよ、予想!未来の最強オーダーの夢の話!」
石塚がその熱いノリに乗っかって言った。
「未来の話っていうならさ、比嘉、お前その頃には150km/h投げる怪物ピッチャーになってるかもな」
「ははっ、マジで言ってる?」
「マジだって! 今の段階でアベレージ140近く出せるんだから、あと2年鍛え上げたら150なんて余裕でオーバーするって!」
比嘉は少し照れくさそうに、お湯を手ですくって顔の汗をぬぐった。
「……もし俺が150km/h投げられるようになったら、紅白戦でお前ら中軸でも、俺のストレートかすりもしなくなるけどいいのか?」
「それはマジで困る!」と仲田が本気で顔をしかめ、湯煙の中で三人からどっと大きな笑い声が弾けた。
ひとしきり笑い合った後、比嘉がふと表情を引き締め、真顔になった。
「でも……まあ、本気で言うけどさ。俺たちの代になったら、絶対に甲子園、夢じゃなくて本気で狙えるところまで行きたいよな」
「「……ああ」」
誰も、それに対して大げさな言葉は返さなかった。だが三人は固い絆で結ばれた目を見合わせ、湯気の向こうにある、まだ見ぬ聖地の景色を見つめていた。

深夜の駐車場

消灯時間を知らせる館内放送が流れ、宿全体が静寂に包まれた頃。
山霞庵の裏手にある広大な駐車場の一角では、夜の静寂を切り裂くような「ブンッ……ブンッ……」という鋭く乾いた風切り音が響き続けていた。
近隣への音の配慮として、旅館側が「ここならいくら使っても大丈夫だから」と夜間の自主練用に街灯の下のスペースを貸し出してくれた場所だ。

そこで2年生の蒔田駿佑と西田大翼の二人が、額から滝のような汗を流しながら、黙々とバットを振り込んでいた。
小学校低学年からの幼馴染だという二人は、余計な言葉を交わすこともなく、ただ交互に打撃フォームを確認しながら素振りを繰り返していた。

蒔田は、先の夏の大会で命取りとなった自らのタイムリーエラーと、絶好のチャンスで凡退した悔しさを、今なお夜も眠れないほど引きずっていた。
一方の西田は、夏の直前に絶不調に陥り、土壇場でベンチ入りの枠を後輩の1年生・仲田雅に譲らざるを得なかった屈辱と情けなさを、誰にも打ち明けられずに胸の奥底に溜め込んでいた。

「……あと100本、いくぞ」
「ああ」
短い言葉だけを交わし、再び風を切る音が夜の駐車場に響く。
その二人の悲壮感すら漂う姿に気づき、闇の中から静かに歩み寄ってきた影があった。柏村監督だった。日付が変わる少し前のことである。
「お前たち、一体いつまでやるつもりだ」
二人は心臓が止まるかのようにビクッと肩を跳ね上げ、素早く振り向いた。
「す、すみません監督!すぐ部屋に戻ります!」
「謝る必要はない」
柏村監督は腕を組み、二人が手にするバットのグリップをじっと見つめた。
「ボールを打っているわけでもない、ただの素振りの音を聞けばわかる。お前たちのバットには、乱れた呼吸と同じくらい、ドロドロとした悔しさが詰まっているな」
監督はしばらく夜空を見上げて黙いこくっていたが、やがて静かに、しかし深く諭すように言葉を続けた。
「勝負の世界で重い悔しさを味わった人間は、最終的に二つの種類に分かれる。悔しさという感情そのものに飲み込まれて、足を止めてしまう奴。そして、その悔しさを二度と味わわないための泥臭い土台に変えられる奴だ。……お前たちがどちらの人間か、俺はもう知っている。だから、その無茶な振り込みを『やめろ』とは言わん。……ただし」
柏村はチラリと腕時計に目をやった。
「明日の朝一番からの全体練習に支障をきたすような、愚かな振り方は絶対にするな。振った『本数』で満足するな。1スイングごとの『質』を極めろ。今夜はあと20本で潔く切り上げて、温かい温泉にしっかり浸かって速やかに寝ろ。体を休めることも、立派な練習の一部だ」
「はい……!」
「それと」
柏村監督は踵を返し、闇の中へ歩き出しながら、背中越しにポツリと言い残した。
「あの夏の大会で誰よりも悔しい思いをしたお前たち二人こそが、新チームを劇的に変えてくれると俺は信じている。その自分の悔しさを、絶対に裏切るなよ」
足音が遠ざかり、再び静寂が戻った駐車場で、蒔田と西田はしばらく無言のまま自らの手の中にあるバットを見つめていた。やがて、どちらからともなく小さく吹き出した。
「……あと20本だってよ」
「最高だな。……振るぞ」
「ブンッ!」という力強い乾いた音が、再び夜の空気を切り裂いた。


投手談義、深夜の一室

同じ頃、別館の2階にある一室では、まったく質の異なる濃密な時間が流れていた。
2年生の主力投手・甲賀裕大の部屋に、後輩投手陣である1年生の秋本春輝と田辺響が集まっていた。
二人とも畳の上に置かれた布団の上に体育座りをし、身を乗り出すように真剣な眼差しを先輩に向けている。投手陣全体の精神的支柱でもある甲賀は、日頃からこうして後輩を集めては「投手ミーティング」を開いていた。
「甲賀さん、ずっと聞きたかったことがあるんです」
田辺が膝を乗り出すようにして切り出した。
「試合が決まってしまいそうなピンチを迎えた時、マウンド上で一体何を考えてボールを投げているんですか?僕、ランナーが溜まって歓声が大きくなると、どうしても頭が真っ白になっちゃって……」
甲賀は腕を組み、天井を見上げて少し思案した。
「俺の場合だけど……ピンチの場面になればなるほど、頭の中で考える要素を限界まで『減らす』ようにしてるよ。複雑な配球やバッターの裏をかこうなんて考えると、集中力が散漫になって腕が振れなくなるからな」
「考えることを減らす……ですか? 具体的にはどういうことですか?」
「『このバッターが一番苦手なコースに、今自分が一番自信のある球を投げる』。考えるのはそれだけだ。キャッチャーのサインを信じて、そこに投げ込むことだけに絞る。余計な駆け引きは全部頭から捨てていい」
秋本が「なるほど……」と頷きながら、手帳にメモを走らせている。田辺はさらに食い下がった。
「じゃあ……もし、自分の中で『一番自信のある球』が何なのか分からなくなっちゃった時は、どうすればいいんですか?」
甲賀はその予想外の質問に少し目を丸くしたが、優しく微笑んだ。
「……すごくいい質問だな。お前、自分の軸になる変化球やまっすぐに、まだ自信が持ててないのか?」
「はい……正直に言うと、試合になると全部の球種が怖くなって、同じくらい自信が持てなくなります」
「なら、明日からの合宿のブルペンで、まず『一番自分が気持ちよく腕を振れる球』を探せ。自信っていうのはな、試合の結果から生まれるんじゃない。練習で『これだ!』って感じた自分の指先の感覚から生まれるものなんだよ」
秋本が横から身を乗り出して尋ねた。
「甲賀さんは、いつ頃からマウンドで動じない自信を持てるようになったんですか?」
「俺? 俺だって今でもマウンドの上じゃビクビクしてるよ」
甲賀は苦笑いしながら告白した。
「ただ俺は、過去に打ち込まれた失敗の配球や、抑えられた時の投球の組み立てを全部ノートに書いて覚えてる。そしてブルペンで最高の感覚で投げられた1球の感触も、体に染み込ませてる。そういう『準備の蓄積』が、ピンチの時に『大丈夫、俺はこれだけやってきた』っていう土壇場の判断を支えてくれてるんだと思う」
田辺は、先輩のその言葉を噛み締めるようにじっと聞いていた。
「……甲賀さんみたいなすごいピッチャーでも、昔は失敗して怖かったんですね」
「当たり前だろ!失敗しない投手なんてこの世に一人もいないよ」
甲賀は笑いながら、後輩二人の肩をポンポンと力強く叩いた。
「さあ、明日も朝6時から激しい練習なんだから、そろそろ自分の部屋に帰って寝ろ! ……でもな田辺、今の質問は本当に良い視点だったぞ」
部屋の電気が消え、静けさが戻った後も、田辺のノートのページには、暗闇の中で先輩から授かった言葉たちが几帳面な文字で書き留められていた。

こうして、甲府学館野球部の夏合宿「前泊の夜」は静かに更けていった。
帳場の脇に飾られた一枚の古い写真から始まり、6月の副部長室で繰り広げられたマネージャーの情熱的なプレゼン。部員たちを笑顔で迎え入れるため、誰よりも早くグラウンドを後にした帆乃花の誇らしげな背中。
ホームシックの不安に胸を痛める1年生投手。
湯気の向こうで甲子園という未来の夢を語り合う同期たち。
過去の屈辱と悔しさをバットに込め、深夜の駐車場で風を切る2年生。
そして、後輩の悩みに真剣に向き合い、夜遅くまでノウハウを伝授する先輩投手。
それぞれの客室で、それぞれの情熱とドラマが静かに紡がれていた。
夜が深まるにつれ、山あいの空気は冷たさを増していく。しかし「桜咲ノ湯 山霞庵」の源泉だけは、これから始まる激闘の5日間を待ちわびるかのように、絶え間なく、変わることなく、49℃の熱い湯を湛え続けていた。

甲府学館高校野球部、勝負の夏合宿は──まだ、始まったばかりである。


おまけトーク|高校野球オタク看板娘・桜本帆乃花が語る「甲府学館歴代ベストナイン」


合宿の取材の合間、夕食後の旅館の一室で、帆乃花にふと聞いてみた。
「帆乃花さんって、小さい頃から甲府学館の野球、見てたんですよね。もし歴代のOBから最強打線組むとしたら、誰にします?」
その瞬間、帆乃花の目の色が変わった。
「……それ、聞いちゃいます?私、物心ついた頃からずっとバックネット裏で見てたので、結構本気で語れますよ」
断りもなく、ノートが開かれた。几帳面な文字で、すでに打順まで書き込まれている。どうやら、この質問を待っていたらしい。

桜本帆乃花の「歴代ベストナイン」

1番・サード 大道雄大さん
「足が速くて、バッティングもすごい方でした。それに、雰囲気を盛り上げるのがうまくて。1番に大道さんがいるだけで、スタンドの空気が変わるんです」

2番・セカンド 五十嵐遼馬さん
「とにかく飛ばす打者でした。1番・2番でもう2点取れちゃう、みたいな。大道さんと五十嵐さんが並ぶ打線が見てみたかったです」

3番・レフト 池本瑛士さん
「右の長距離砲! ……あ、これ知ってます?池本さん、実はキャッチャーなんですよ」
「え、そうなんですか」
「甲府学館では、1学年上に西村駿さんと玉木健太さん、同学年に松下凱斗さん、1学年下に高良優人さんという捕手がいたからバッティングを活かすために外野になっていました!」

4番・ライト 野口淳平さん
「高校公式戦通算.452 5本塁打44打点6盗塁...」
「今もプロで活躍されてる、甲府学館の誇りです!……あの、小田先生、サインもらってきてもらえませんか?」
取材中、たまたま近くを通りかかった小田コーチに、帆乃花は本気の目でそう頼み込んでいた。

5番・ファースト 印南智弘さん
「身体が大きくて、パワフルな方でした。スイッチヒッターで両打席でホームランを打ってしまう。それでいて笑顔がすごく可愛いんです。ギャップが好きでした」

6番・キャッチャー 西村駿さん
「チャンスに強くて、先輩にも厳しい声かけをしたり、リーダーシップがある方で。試合中、どんな場面でも表情を崩さないのが、本当にかっこよくて」

7番・センター 園山開さん
「足がとにかく速くて、守備範囲がすごかったんです。園山さんの背中を見てるだけで、外野の打球が全部アウトになる気がしてました」
この人選には、たまたま居合わせた小田コーチから横槍が入った。
「園山選ぶとか、お前マニアだな……」
帆乃花は誇らしげに胸を張った。
「マニアですから」

8番・ショート 山口慶彦主将
「土屋さんを入れたかったんですけど……柏村監督にも小田先生にも、『守備は山口の方が上手い』って言われていて。活動再開後の野球部からは、唯一の選出です」
「野球推薦や野球特待があって甲子園に行っていたメンバーにも食い込む山口主将の守備は凄いんです!」
現役主将の名前が並ぶことに、帆乃花は少し照れくさそうだった。
「私の代からも、いつか他の選手を選びたいなって、密かに思ってます」

9番・ピッチャー 小林隼斗先生
「今はコーチをされている小林先生です。背が高くて、マウンドに立ってる姿が本当にかっこよかったんです。甲府学館の歴史に残る二刀流です」

「俺入ってないのかよ……」

打順を組み終えた帆乃花のノートを覗き込んでいた小田コーチが、ぽつりと呟いた。
どうやら本気で選ばれると思っていたらしい。名前が挙がらなかったことに、露骨にしょげている。
帆乃花は一瞬考え込んだあと、にっこりと笑って言った。
「小田先生は、代打です!」
「それ、フォローになってないだろ」
小田コーチの声が旅館の廊下に響き、居合わせた1年生マネージャーたちが吹き出した。
帆乃花は悪びれる様子もなく、ノートに小さく書き加えた。
「代打・小田悠」
その一行だけ、心なしか字が丁寧だった。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集